3-15 幼い日への決別

 人ひとり住んでいないような山奥、森が僅かに拓けたところにそのログハウスはあった。途中から舗装されていない道に入ったあたり、地図上にも載っているかわからない、怪しい場所。

 そのログハウスから見えるか見えないかの場所で、俺たちは車を降りる。

 俺が先頭に立ち、二人は後方から付いて来る。落ち葉を踏む音を出来るだけ抑え、玄関へと向かう。

 建物は比較的築浅で、通常の一軒家に比べてだいぶ大きい。まるで登山道にある土産屋のような出で立ちで、住居として住むにしてはだいぶ持て余すよう感じる。元々は商業施設用に作った建物なのかもしれない。

 灯りはついていないが、まだ早い時間だ。香織が雲隠れしているというのであれば、まだ寝ている時間帯。俺は後方を確認し、二人がついて来てることを確認する。

 茜とざくろは手を繋ぎ、不安な表情。

 俺は目で入るとだけ合図し、ドアノブを握り――現実浸食インフェクションを使用。ドアの錠を捩じ切って、強引に突入。

 二階まで拓けた宅内には、ロフトまで繋がる階段が見える。俺は階段を駆け上がり、事前に聞いていた二階の寝室へと向かう。

 ロフトの端には僅か隔離された寝室らしきスペース、そこに飛び込むとベッドの上で呑気に寝転がる……社長と香織の姿があった。

 ……ざくろを扱き使い、働かせて自分は優雅な別荘で午後までお休みか。――怒りに任せ、ベッドを蹴飛ばす。

 能力を行使されて蹴飛ばされたベッドは、吹き飛び中心から真っ二つになる。

 その衝撃と破壊音で強制的に覚醒させられた半裸の二人は、寝ぼけ眼で辺りを見回し始める。

「な、なにが起きたんだ。いったい……」

「起きましたか。社長、香織」

 声に誘われてこちらを向いた社長の顔を、拳で殴りつける。

「……黒田、君?」

「ええ、あなたの詐欺行為で千二百万のカモにされそうだった黒田です」

 地べたに這いつくばる社長の前に立ち、見下ろすようにして言う。

「君は……なにを言ってるんだ」

「あなたこそなにを言ってるんですか、隣にいるのは早乙女香織じゃないですか。なぜ隣に香織がいるのに借金を徴収せず、ざくろに働かせようとしてるんです?」

 後ろからシャッター音、遅れてきた茜が二人が一緒にいる現場を写真に押さえたのだ。

 ようやくどういう状況かを悟った社長が舌打ちをし、開き直ったように声音を下げる。

「……借金を早く返済させるのにあたって、家族に協力を仰ぐのは常識的な努力だ。強制力はないが、ざくろさんが応じるのであれば君にとやかく言われる筋合いはないと思うが」

「なに言ってんのよ、あんた! ウチ、あんたとその女が話してるの録音してるんだからね!」

 茜がICレコーダーのスイッチを入れると、俺にも聞かせたあの音声が流れ始める。

『別荘に雲隠れする。そこにソウジさんが架空の借用書を着きつけて、二人に働かせれば……』

『子供とはいえ千二百万は高額過ぎないか?』

『お母さんの代わりにお金を返しなさいと言うだけで、あの子は首を縦に振るわ』

 それを聞いて二人の顔色が目に見えて変わっていく。

「お嬢さん、盗聴は犯罪だぞ」

「詐欺は犯罪じゃないのかしら? 偽の借用書はね、有印私文書偽造って罪に問われるのよ」

「マセガキが……」

 社長は劣勢であるにも拘らず、睨みを利かせた表情で俺を見上げる。

「黒田、私はお前を雇用などしてない。契約書も巻いていない。だから返せ、いままでに渡した七百万円」

「それは香織に預けたんだ、受け取れよ」

「その証拠は?」

「ない、でも社長から七百万受け取った証拠だってない」

 俺が社長の元で働いていたのは非合法だ、だからそれを証明するものは残すはずがない。

 それをわかっていて俺から毟り取ろうとするのは、俺がガキだと舐められているからだ。

「ざくろ。アンタこんなことして、どうなるかわかってんだろうねえ」

 いままで黙っていた香織が口を開く。

 寝起きに乱れた髪とくまのついた醜悪な顔が、俺の肩越しにいる娘に向けられる。

「アンタは実の母親に感謝の気持ちも持たず、好きな男が出来たからって養育費の一つも返さずに出て行くのかい?」

「香織、金は俺が払っただろ」

「それはアンタがざくろを欲しくて払った金だろう。アタシはざくろに養育費を返せって言ったんだよ」

 この下種が……ざくろの良心に働きかけて、毟るだけ毟ろうって魂胆だ。

「ざくろをここまで生かしておくのに、アタシが養育費を用意したんだ。計算はしてないけどそれが千二百万。高いかもしれないし、低いかもしれない。まあ低かったら端数は免じるよ。ざくろ、稼いでくれるよな?」

 目を見開いて邪悪な笑みを浮かべる。

 本当だったら、いますぐにこいつの顔にも拳をくれてやりたい。

 だが、ダメだ。

 俺が香織に手を出したら、ざくろが香織の味方をしてしまうかもしれない。

 いまは固唾を飲み、動向を見守るしかない。


「ねえ、お母さん。聞いていい?」

 ざくろが茜の背中から顔を出し、自分の母親に問いかける。

 ……そのこと自体が大きな進歩だ。いつも怒鳴られそれに応えるだけのざくろが、自分から母親に問いを投げる。それだけでもざくろにとっては勇気のいることだった。

「お母さんがはじめて買ってくれたぬいぐるみ、覚えてる?」

「ああ、覚えてるよ。あの……リビングにあったトラかネコみたいな人形だろ?」

 俺の知らない情報だった。

 確かに、ざくろは母様に連れられて家に来る時、たまにぬいぐるみを抱いていることがあった。どんな姿形をしていたかは覚えていないが。

「そうです。いつ買ってくれたものか、覚えてますか」

「いつって……子供の頃だろう? あんときはお前がいまよりも悪い子だったからね、散々欲しいと駄々をこねるから買ってやったんだ」

 歪んだ関係。その中にあった数少ない、母子の思い出話。

 俺としては知る余地もない二人のエピソード。だがこうして語られる以上、真実なのだろう。

「あん時は少しお金に余裕があったからね、仕方なく買ってやったんだよ。ざくろはあまり覚えてないかもしれないけどね」

「そっか……」

 ざくろは俯き、体躯に合わない深い、とても深い息を吐いた。

「それがなんだい。アタシはちゃんとお前の母親をやっていただろう? そりゃ、父さんがいなくなって厳しくしたこともあったけど、家族じゃないか。そのアンタがアタシを捨てて剣一と一緒になろうってんだ。だったらこれまでの養育費、返してくれるよな?」

 理論の飛躍。

 だが、この二人の家庭ではそれがまかり通っていたのだ。

 誰が手を出しても、ざくろは香織の賛同者。だからこそこれまで誰も手を出してこれなかった。

 そして香織はまたを持ち出して、ざくろを再び意のままにしようとしている。

 香織がざくろに優しくするところなんて、見たことがない。だがそれは無論、俺視点での話だ。

 香織だって人間だ。

 自分の娘、いや実の子でなくとも幼い子が泣いていたら、声をかけるくらいの良心は小指の皮ほどはあるはずだ。

 だからどんな気まぐれであったとしても、香織がざくろに母親らしいことをしていても不思議じゃない。

 俺たち外野がどんなに憎く思おうと、それは事実で――

「違うよ」

 ざくろの目に、色が戻る。

「ぬいぐるみは……お母さんが買ってくれたものじゃないよ」

 みな一様に、言葉を失う。

「本当は鮎華さん、剣ちゃんのお母さんが買ってくれたものだよ」

 え……?

「お母さんは夜まで帰らないことが多かったから、剣ちゃんと鮎華さんがよく一緒に遊んでくれたの。わたしをお買い物に連れて行ったこともあった。その時にわたしがぬいぐるみをずっと見てたら、鮎華さんが聞いたの。それ欲しいのかいって」

 香織は、力を失ったように唖然としている。

 俺も、ざくろの行動に驚いている。

 ざくろが、香織を鎌にかけた……?

「そしたら鮎華さんが買ってくれた。けど自分が買ったって言ったらきっと怒られるから、お母さんが買ったことにしてくれって」

 確かに母様はざくろも連れて買い物に行ったことがあった。俺がまだざくろを疎ましく思っていたくらい、子供の頃だ。

 でも、ざくろはしっかりとその時のことを憶えていた。

 初めてぬいぐるみを買い与えられたということを、鮮明に覚えていた。

「わたしがぬいぐるみを持っているところを見て、お母さんは『なんだい、その汚いのは』としか言わなかった。新しくおうちにぬいぐるみが増えたことを不思議とも思ってなかった」

 そんなことって、ありえるのだろうか。

 自分がずっと家にいなかったからって、家になかったものが増えてもおかしいと思わなかったのか。

 ……おかしくなんて、ないか。

 子供を放って毎日遊びに出かけている母親だ、家のことなんて覚えてるはずがない。

「わたしの新しいお洋服も、ぜんぶ鮎華さんに買ってもらった。あんたは女の子なんだからもっと可愛い服着なさい、って」

 香織は信じられないような目で、ざくろの言葉に耳を傾けている。

 確かにざくろが来ている服はいつだって、普通の女の子が着るような服をいつも着ていた。育児放棄をしている母親が、娘の身だしなみなんて気にするはずがない。そんなことにお金を使おうだなんて思うはずがない。

「鮎華さんいつだって優しかった、暖かった。一緒に遊んでくれる剣ちゃんもいた。あのおうちで、わたしは初めて楽しいことを知った」

 すべての始まりは育児放棄に呆れた母様が、ざくろを家から連れ出したことだ。

 それから母様は何度も、香織の手からざくろを救おうと、様々な手を尽くした。だが結果は誰もが知るところだ。

 でも……

「だからごめんなさい、お母さん。わたし、もうあなたをお母さんだと思えなくなっちゃった」

 そのすべては、無駄じゃなかった。

 香織はざくろの衝撃の告白に、鼻で笑うことしかできない。

 その顔に浮かぶのは、狼狽。

 絶対に逆らわないと信じていた、ざくろが自分を裏切ったというショック。

「お母さんにしてもらったこと、いっぱいある。でも……わたし、お母さんのために働かなくて、いいと思う」

 決定的な一言を突きつける。

「だって、わたしは剣ちゃんのものだから」

 ざくろは、選んだ。

 自分の意志で、自分の歩む道を決められた。変わることが、できたんだ……

「ハハ……」

 香織は地べたにへたり込んだまま、力なく笑う。

「だから、お母さんはその人と幸せになって」

 けど、ざくろはそれでも願ってしまう。

 自分の母親でも、無関係な他人であっても幸せになって欲しいと。

 それが早乙女ざくろという、一人の人間だから。

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