3-14 県境を越えて

「行くわよ」

 部屋に着くなり茜はそれだけ言って、俺とざくろを家から引っ張り出す。

 アパートの前に止まっていたのは一台のセダン。住宅地の眠たい景観を殴りつけるような、煌びやかなカーマインレッド。

「乗って」

 あれこれと浮かぶ疑問を答えさせる間もなく、俺と目を擦るざくろを後部座席に押し込み、エンジンをかける。

「この車は?」

「ママの車。狭くはないんだからいいでしょ」

 会話は時間の無駄とでも、言うような洗練された動作。ツッコむ暇さえもらえない。

「じゃなくて茜、免許は」

「は? あるに決まってるでしょ、ほらこれ!」

 言って茜は振り向きざまに免許証を、俺の眼前に押し付ける。

「……いつの間に」

「推薦決まってから、教習所に通ってたの。卒業まで時間もったいないじゃない」

 微睡んでいたざくろは再び眠りについた。シートベルトだけ取り付けてやり、あとは船の漕ぐ先に任せておく。

「ところで茜、どこに行くんだ?」

「決まってるじゃない、ざくろちゃんのお母さんのところよ」

「は?」

「……知ってるのよ。ざくろちゃんのお母さん、借金残していなくなったんでしょ?」

「ちょっと待て、なんでそれを」

「だから、こうしていまから話そうとしてるんじゃない!」

「ご、ごめん」

「ウチ、ざくろちゃんのお母さんが、剣一の社長と一緒にいるのを見かけたのよ」




 街で黄昏ていたあの日。

 ウチはざくろちゃんのお母さんと、剣一の社長が密会してるのを目撃した。

 あの二人に接点はないハズ……言いようのない不安に駆られ、タクシーで二人の後を追うことにした。

 二人が向かった先は、山奥にあるログハウス。

 タクシー代はとてつもない金額だったけど、そこで盗み聞いた会話内容を鑑みれば安いものだった。

「黒田君には来週、解体の給料を支払うことになる。きっと香織さんが受け取る結納金に届くだろうね」

「アタシは剣一から金を受け取ったら、この別荘に雲隠れする。そこにソウジさんが架空の借用書を突き付ければ、また一から剣一を働かせられるよ」

「しかし、いくら子供とはいえ千二百万円は高額過ぎないか?」

「ざくろにも体で稼がせればいいのよ」

「そうではない。香織さんも知ってるだろう、家族に借金を支払う義務はないって」

「大丈夫、ざくろは。ソウジさんは『お母さんの代わりにお金を返しなさい』と言うだけで、あの子は首を縦に振るわ」

「……ふふ、実の娘になんて扱いだ。香織さんは人間失格だな?」

「あら、ソウジさんには言われたくないわ。アタシの話を実際にその紙切れに仕立てたのは貴方じゃない? ざくろを高給で雇ってくれるような場所を用意できるのもソウジさん。」

「ふむ。そんな男は嫌いか?」

「いえ、とっても素敵よ」

「そうか、それはよかった」

 ――この世には悪意を持った人間や、暴力的な振る舞いを楽しむ人間がいることは知っている。

 ウチは先日、悪意を向けられて傷を負わされたことがあった。

 けれど、あの女性がおかしくなった経緯には、同情できないこともなかった。

 あの人と同じ境遇にいたとしたら、自分だって常識的に振る舞えるかはわからない。どこか納得してしまえるような背景があった。

 だが、こいつらは違う。

 ただ剣一とざくろちゃんを食い物に、いかに甘い汁を吸うことができるか。それを無感情に実行できる生き物だった。同情なんて、できるはずもない。

 警察に相談する? でも剣一に聞いた限りでは、ざくろちゃんは全面的にお母さんの味方をしてしまうらしい。それを詐欺と訴えても有耶無耶にされてしまうかもしれない?

 ……まだ、情報が足りない。

 このログハウスの住所を押さえ、一旦引き返すことにした。



「それからウチはまたログハウスに行って、盗聴器を取り付けた。あいつらの会話は録音してる、物的証拠があれば剣一たちには手を出せないはずよ」

 茜は信号で止まったのを機に、ダッシュボードから乾電池状の機械を取り出した。おそらくこれが盗聴器なんだろう。

「警察に行くのが一番いいとは思う、でもそこは剣一が判断するのがいいかなって」

「俺が、判断?」

「そう。言ってたでしょ? ざくろちゃんはいつもお母さんを庇おうとするって。だから警察に行くのは……もしかしたら逆効果なのかな、って」

 なんで。

「だからそれをどう使うかは剣一に任せる、あいつらをどう追い込むはあんた次第」

 なんで、茜はそこまでしてくれるんだ。

 香織と社長を追跡したり、俺たちの今後のことまで考えてくれたり。茜がそこまでしてくれる理由なんてないはずだ。

「でもよかった、手遅れになる前で。剣一が泣きながら助けて~って言いだした時は、もうざくろちゃんと一緒じゃないって思ったもん」

 茜は笑って場を茶化す。

 俺が深刻にならないよう、もう安心できる状況になったって感じられるように。

「ウチ的には訴えられたくなかったら、この街から出てけって脅すのがいいと思う。脅しは悪いことだけど、あいつらにそれを訴えるトコはないもんね」

「茜」

「うん?」

「なんで……そんなによくしてくれるんだ」

「バカ」

 茜はこちらを向かず、あっけらかんと言う。

「剣一がざくろちゃんを助けようと思ったのと、理由とおんなじよ」

「……」

「どう解釈するかは、剣一次第」

「……悪い」

「悪いと思ってんなら聞くな! ……初めて運転してんだから、気が散るっ」

「本当に悪かった! ぜひ集中しててくれ!」

「あ、なんか余計に腹立ってきた」

 命を預かっている身で、恐ろしいことを口にする。でも、これだけは言っておく。

「茜、ありがとう。本当に助かった」

 運転する茜の顔は見えない。

 後部座席から見えるのはバックミラーが映す茜の前髪と、後頭部の髪飾りだけ。

「ウチ、ざくろちゃんも剣一も、嫌いじゃないから。……めっちゃ不本意だけど」

 その言葉に、意味のある発言を返す術を持たない。

 こうして俺たちのために行動してくれたことだって、どれだけの礼を返さなければいけないのか想像がつかない。

 そしてその恩を返すことだって、俺には許されていない。

 ただ茜がまだ俺たちと関わりたいと思ってくれるのなら、それに応じるだけだ。

「タクシー代とか、機器代に使ったお金は返す」

「いいわよ、どうせウチの尾行は趣味みたいなもんだし」

「それは絶対にダメだ。受け取ってくれ」

「……わかったわよ」

 車は県境を流れる大きな川に差し掛かり、橋を吊るハンガーロープが目に入る。車道の先に見える陸地はまだ遠く、川の先に見えるのは水平線。車の走る一定の排気音だけが続き、ふと陸地から孤立してしまったような気持ちになる。

 これが旅行だったら、どんなに面白いだろうか。

 俺たちは卒業旅行に出かけたクラスメートで、これから着くホテルの温泉に心を弾ませている。

 ざくろは高一なのに絶対着いていくって聞かない駄々っ子で、しがらみのなくなった馬籠もなぜか一緒で、隙のない完全な旅行計画なんかプランニングしてたりして。茜の運転に振り回された俺たちは旅館に着いた頃は、みなデロデロに酔っていて。

 そんなバカみたいな妄想。

 俺は大して学校に通えなかったけど、この時期にこの仲間と入れてよかったと思えるような、そんな時間。


「……なんか、お布団がうるさい」

「お、ざくろ起きたか?」

 目を擦り、あくびを一つ。まばたき二回、辺りを見回す。

「ここ、どこ?」

「茜の車だ」

「なるほど~?」

 絶対わかっていない、というかいきなり車に乗せられてるんだ。わかるはずもない。

「あと三十分くらいで着くわよ」

「どこに?」

「それは……」

「香織さんのところだ」

 俺が代わって答える。

「……お母さん、いなくなったんじゃないの」

「でも見つけた。香織さん、いなくなったフリをしてたんだ」

 ざくろは無表情で自分の膝小僧を眺める。

「香織さんは昨日会った人に一円も借りていなかった。だからそのお金を返す必要もない」

「本当に?」

「ああ、だから俺は香織さんに怒りに行く。そしてざくろを働かせないように言う」

「でも」

「お前が働く必要はない。それに香織さんが本当にお金を借りてたとしても、香織さんの責任だよ」

「違うよ。お母さん、わたしを育ててくれたからお金が必要だったんだよ」

「だとしても借金はしていない、もしざくろに返したい気持ちがあっても、ないものを返す必要はないんだ」

 ざくろは閉口する。自分の中の正しいことと、俺の言うこと、どちらが正しいのか必死に考えているんだろう。

「それにざくろはもう俺の……奥さんなんだ。香織さんのために働くより、俺が働いてる間の家を守って欲しいんだ」

「ううう……」

 ざくろは頭を押さえて悩んでいる。

 だが、俺は構わず、強引にざくろの天秤に重石を乗せていく。

 重要なのは、ざくろに初めて悩む余地が生まれたということだ。

 あの時、婚約届を目の前で受け取れたのが良かったのかもしれない。あの一枚の用紙は、いまや香織の妄信を突き崩す重要な切り札になっていた。

「だから、ざくろは俺の味方でいてくれ。これから俺と香織さんはケンカすると思う。その時に香織さんの味方だけはしないでくれ、もしそうなったら俺は生きていけなくなっちまう」

 ざくろの手を握って、目を見据える。

 茜がいることを意識してか、ざくろは恥ずかしそうに俯く。

 だが俺はなりり構っていられない。絶対に負けられない勝負が迫っているのだから。

「返事はしなくていい。お前は黙って話を聞いてくれてればいいんだ。全部決着は俺がつけるから」

「……うん」

「ありがとな」

 そういって軽く頭を撫でて身を話すと、おしりを俺から遠ざけて、窓の外の風景に目を向けた。

「……まったく、とんだ貧乏くじよね」

 茜が真正面を見つめながらぼやく。

「悪い」

「本当に悪いと思ってんだか」

 思ってるさ。

 なにを返せばいいかわからないくらい、感謝してる。

「焼き肉、おごるからさ」

「もう何回聞いたか分かんない、それ」

「今年に言ったのは初だ」

「じゃ、今日の帰りでよろしく。一番高いメニューにノミホもつけて」

「……実はいま、支払いが終わったばかりで手持ちが」

「空約束してんじゃないわよ、バカ!」

 橋を渡り終え、山道に入った。

 迫る香織との対面を前に、頭の中を整理する。

 今日ですべてを終わりにする――それを心に硬く誓って。

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