3-10 嘘を本当にする覚悟
家に着くなり、俺はざくろの手を取って隣の家――香織の元へと向かった。
「来たかい」
扉を開いた香織が俺たち二人の姿を認め、家の中に入るように促す。今日は最後の結納金支払日だ。
薄暗い廊下をざくろと二人黙って歩く。香織とざくろ二人で住むには大きい家だ。まだざくろに父親がいた頃、ローンで購入したものらしい。
二人が離婚した経緯は知らない、それはもうどうでもいい。ざくろを最後まで守らなかった父親も、奴隷のように扱う香織も、俺にとっては同じようなものだ。
今日はざくろをその呪縛から解き放つために、俺はここへ来た。
茶の間に案内され、俺たちはテーブルに向かい合って座る。お互いの間には漂うのは緊張感、もちろん結婚の挨拶に来たという恥じらいではない。
ちゃんと俺の望むものが滞りなく手に入るのか、変な隠し玉が出てきたりしないか。その警戒から来る、緊張感だ。
俺はまず胸元から記入済みの婚姻届を香織の前に差し出す。
視線だけ動かし、婚姻届と俺の顔を交互に見る。
「俺とざくろ、証人欄に俺の母親の名前がある。……もう一人は香織さんにお願いしたい」
婚姻届が受理されるためには二人の証人を用意する必要がある。大抵の場合は互いの親から名前を借りることになるが、別に必ずしもそうである必要はない。
未成年同士の結婚には双方の親の同意が必要。だが書類が受理されるだけであれば、どちらかの親の名前が乗っていれば、書類的には問題ない。
だが、ざくろは香織みたいな人間でも、一人の母親だと考えて大事にしている。
もし香織の署名をもらえないようであれば、ざくろは俺との結婚に同意しない。
児童相談所の職員にも、近所の心配する声にも、ざくろは虐待の事実を認めなかった。俺だって母様だって香織の洗脳を解くことができず、ざくろと駆け落ちすることすらできなかった。
だから香織にはざくろの目の前で署名をもらう必要がある、これは単に証人欄に署名を貰う行為じゃない。ざくろ自身を納得させるための儀式だった。
これは、俺と香織の間で交わした条件の一つだ。
「結納金は、持って来てるんだろうね」
「ああ」
ざくろの前で現金は見せたくなかったが、仕方ない。
懐から封筒を取り出し、目の前で数えてやる。これまでに渡した金額は五百五十万円、先ほど受け取った金額と合わせて俺の手元には百五十万がある。
ざくろはそのお金を数える様を、両手に口を当てて見守っていた。
俺と香織との間でそんな約束がされていたことに驚いているのだろう。ざくろにはこれまで結婚準備金を稼いでるとだけと伝えていて、結納金――ほぼ身代金のようなもの――を渡すなんて言わなかったのだから。
「百四十九、百五十……。間に新聞紙なんてこともありません。署名をお願いします」
「ふん、わかったよ」
……これが娘を男にやる、母親の態度なのか。
ざくろが生まれて、十六年。娘との別れになんの感慨もない。俺ですら二年務めた職場に後ろ髪を引かれたと言うのに。
自分のしたことに改めて間違いはなかったと確信する。ざくろはこいつの側にいてはいけなかった。むしろ、こんなに時間がかかってしまったという悔みすらある。
だが、今日で香織との関係も切れる。
俺たちが遠方に引っ越したとして、香織からざくろに会いたいと言うこともないだろう。
もう俺たちを悩ます者は、誰一人いなくなるのだ。
間違いなく証人欄に署名と実印が押されたことを確認し、俺は黙ってお金の入った封筒を差し出す。
「では、これで失礼します」
俺は形だけ頭を下げ、ざくろを立ち上がらせる。
「あ、あの、お母さん!」
香織相手には及び腰だったざくろが、自分から母親に声をかけた。
「いままで育ててくれて、ありがとうございますっ! わたし、幸せになりますね」
香織はそれを聞き、少しだけ鼻を鳴らした後。
「ああ、上手いことやんな」
それだけ言って視線を逸らした。
***
「信じらんない」
早乙女家から出た、ざくろはそう口にした。
「わたし、本当に剣ちゃんと結婚するんだ」
「そうだぞ、知らなかったのか?」
俺の返答にもざくろは応えず、不思議そうな顔で空を見上げていた。
どこまでも吸い込まれそうな、雲一つない空。肌を差すような、透き通る冷気。
「本当に叶っちゃうなんて思わなかった」
「なんだそれ、もう少し俺を信用しろよ」
「そうなんだけど……」
ふと、ざくろの視線を感じて目を向けると、ぷいっと顔を逸らされる。
「剣ちゃんが、わたしのだんなさま……」
「そう、なんのかな」
かしこまった呼び方が少しばかり恥ずかしく、頓珍漢な返答をしてしまう。
「でも、それは夢。わたしはそんな素敵な夢を見ていた――」
「違うわ」
ざくろの頬を引っ張る。
「痛いか」
「いはいえふ」
「じゃあ現実だ」
「そっか……」
ざくろはまだボーっとしている。かく言う俺もまだ実感に乏しかった。
この婚姻届けを提出にでも行けば、少しは実感が出るのだろうか?
「じゃあ、このまま母様のとこに挨拶にでも行くか」
「鮎華さんのところ」
「ああ、姑に挨拶だ。母様はムスコンだから、ざくろいじめられちゃうかもな?」
「やだ!」
「だから礼儀正しい、デキる嫁だってとこアピールしに行かないと」
「そっか……鮎華さんもわたしのお母さんになるんだもんね」
呆けていたざくろの瞳に力が戻ってくる。
「わたし、鮎華さんとこ行きたい。ふつつかものですが、って挨拶する!」
「その意気だ」
ざくろが少しずついつもの調子を取り戻してきた。腕にいつもの重みがぶら下がってくる。
なんとなく、ざくろに向き合うのが恥ずかしくて、俺は腕だけ預けて前を向く。
「鮎華さんのこと、お義母さんって呼んだら怒るかな」
「喜ぶと思うぞ」
「剣ちゃん、って呼ぶのちょっと子供っぽい? 剣一さんって呼んだ方がいいかな?」
「好きに呼べよ、でもたまには剣一さんって呼ばれるのもグッと来そうだ」
「じゃあ剣ちゃんって呼ぶ」
「おい」
「へへー。わたし、楽しみは最後まで取っておく派だよ?」
「なんだそれ」
いつもの調子を取り戻したざくろは絶好調、子供みたいにはしゃいでいる。
「ねえねえ、剣ちゃん、剣ちゃん!」
「んー?」
「……大好き、本当に、ありがとう」
「っ――バカ、涙くらい拭け」
いつの間にか、ざくろは睫をぐっしょりと濡らしていた。
けれど、それを意に介さないほどの満面の笑み。俺は駄々流しにされている涙をティッシュで拭う。子供みたいにされるがままのざくろ、だけど俺は胸にはどこか充実感があった。
少しだけ、涙には濡れてしまったが、ざくろの笑顔は真冬の太陽を浴びて、輝いていた。
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