剣一視点
3-9 ハデスとの距離
「そうか。気持ちは変わらないか」
社長が珍しくモニターから目を離す。
マンション内の一室にある、小さな事務所。俺が約二年勤めた会社の本拠地だ。
訪問の理由は給与の受け取りと、最後の挨拶のため。
「社長には、本当にお世話になりました」
「いや、こちらも助かった。急な仕事が入った時も、フットワークの軽い君のおかげで上手く回った。本当ならもう少し頼みたいとこだがね?」
「はは……すいません」
「なに気にするな、これは仕事だ。変に恩義に固まりすぎるのも良くない。こうして私に惜しませたということは、君は給料以上の働きをしたということだ」
「いえ、そんな。でもありがとうございます。そう言ってもらえて嬉しいです」
懐には先ほど社長から頂いた給与がある、大金だ。
俺は正規の従業員じゃないし、仕事の内容も表に出せるものじゃない。銀行のデータにお金の動きを残さないため、給与はいつだって手渡しだった。
「なにか縁があれば、また共に働く機会もあるだろう。その時は頼むよ」
「こちらこそ、ありがとうございます」
しっかりと向き直り、頭を下げる。
頭を下げる時に角度なんて意識したのは初めてだ。
仕事に翻弄された二年間。内容は過酷なものが多く、自分で調べなければいけないことも多かった。
だが、なにもできなかった俺に、仕事を用意してくれたのは社長なんだ。
あの時、駅前で社長が俺に声をかけてくれなければ、きっと今もなにもできない学生のままだった。
社会的には俺も社長も褒められる存在じゃない。だが俺にとっては間違いなく必要なものだった。こうして目標金額まで稼ぐことができたのは、すべて社長のおかげであると言っても過言じゃない。
少しばかり名残惜しく、事務所の風景を眺める。
ほとんど現場に赴いての仕事だったので、この場所への感慨はほとんどない。
でも、その代表となる場所がこの事務所なら、俺にとっての青春みたいなものはきっとここにある。
雑多に積み重なった書類とスクラップ帳の山に、水商売用のチラシに、転売ヤーの管理名簿。……歯の模型があるのはよくわからない。
それと社長しかわからないような文字で、ホワイトボードに人の名前と指示の一覧が書かれている。
内容は解読不能、かろうじて人の名前が少しわかるくらい。ここに書いてある秋ヶ瀬と李は一緒に仕事をしたことがあるが、あとは知らない人ばかり。
俺の仕事は社長からおろされるもの。ここで何人働いてるかさえも、聞いたことはない。
と、そこでひとつ気になったことがあった。
「社長?」
「どうした、戻ってくる気になったかね」
「いや、さすがに」
「ほっほっほ、冗談だよ」
本当かよ。
「武田さんって……あれからどうしました?」
先日のビル解体現場で起きた事件。
武田はアリサの能力によって重傷を負い、連絡を取った社長が回収した。
救急車は呼べない。呼べば事件となって、現地に警察の捜査が入るからだ。だから社長が負傷した武田を回収し、俺や茜のようにモグリの医者に診せる手筈になっていた。
あれから約半月、武田は快復しただろうか。
俺は身体強化されていたからいいが、武田は生身だ。俺よりケガの具合は深いと考えていいだろう。
だが武田だってここの従業員だ、俺が辞めるのなら早く復帰させたいに違いない。
ヤツはいま、どこでどうしているだろう?
「黒田君」
もうモニターに目を戻している社長が、世間話のように言う。
「武田って、誰だい?」
「え?」
「人の名前くらいは覚えたほうがいいぞ。私の元に武田なんて人はいないよ」
……なに言ってるんだ、この人?
白髪が多いとは思うけど、さすがにボケるほどの年齢ではないはずだぞ?
「ほら、先月ホテルの解体の下見で一緒に作業したガタイのいい人ですよ。社長に回収だって――」
言葉が終わらぬ内に社長は立ち上がり、俺の胸に諭吉を一枚押し付ける。そして恐ろしく低い声で言った。
「……武田なんて人はいなかった。今後、誰の前でもその話を口にするな、いいね?」
薄目から僅かに覗き込む双眸に――有無を言わさない圧力。
裏社会で一つの城を構え、生き抜いてきた者が持つ、相手を従えるための武器。
その片鱗を感じ取った俺は、言葉を返せず、かろうじて首肯する。
「わかればよろしい。それは私からの小遣いだ、とっておくがいい」
それだけ言ってまたデスクに戻る。
あとに聞こえるのはパソコンの駆動音と、キーボードを叩く音だけ。
俺の居場所は、もうここにはなかった。
***
「なんだったんだ、あれ」
事務所からの帰り、最後の社長の発言を思い出す。
――武田なんて人はいなかった。
なぜ急にそんなことを言い出したのだろう。
武田はアリサの能力、
……死んだ、のか。
そう考えるのが、一番腑に落ちてしまう。
あの場で死人が出たとなれば、解体工事などすぐに着手できるはずがない。
だから社長は仕事を円滑に進めるため、武田の死という事実を葬った……
社長は、そこまでする人だろうか。
だが、この仕事は元々、表立ってできる仕事ではない。それに社長自身、ヤクザなコネクションを元に仕事を興した人で、本人もその筋に関係のある人だ。
だとしたら、人が一人いたという事実さえも、都合が悪ければなかったことにできるのか?
……だが、俺が真実を求めても、意味はない。
本当に死んでいたとしたら、少なからず罪悪感があるし、後味も良くない。
それでも俺は今日、そっちの社会とは切れたのだ。これ以上はきっと
自分の罪悪感が元で、余計なことに首を突っ込み、俺自身になにか不利益が起こる。一番避けなければいけないのはそこなんだ。
俺自身を守ることは、ざくろを守ること。俺が消えれば、香織はまたざくろを連れて帰るだろう。
ざくろは香織を信仰することをやめていない。香織の言うことを聞いて、俺のプロポーズに応じただけなんだ。ざくろが香織の妄信を克服するには、まだだいぶ時間はかかるだろう。
……早く、帰ろう。
俺は自分が巻き込んだともいえる武田のことを忘れ、歩を進める。
手元には多額の現金もある。こんなものを持って外を歩き回るのは少しばかり恐ろしい、落とすかもしれないし。
暴漢に襲われたら、
「案ずるな、周辺に能力者の気配はない」
ハデスか。
「然し、主よ。
悪かったよ。
ただ、俺にとっては決意成就にとって代えられないものだ。いざとなったら……
「判っている。故に、管理者たる余としては控えたい発言だが」
少し躊躇した様子を見せ、ハデスは先を続ける。
「主は、強い。今後の決闘においても負ける可能性が低く、決意の成就はもはや必至。拠って、余の意向に沿うのであれば此れ迄以上の協力も惜しまぬ」
なるほど、具体的には?
「対なる決闘者の能力くらいであれば、開戦前に開示してやろう」
……マジか。
「勝敗は主次第だ、それ以上は手を出さん」
ああ、それくらいはな。まあ知らなくても結果は変わらないけど。
「頼もしい発言だ、流石は余が遣えるに相応しい能力者。訊きたいことがあれば訊くが良い」
じゃあ、いいか。
「構わぬ」
……どうして、ざくろの妄信は闇の決意にならなかったんだ。
「主よ、氷川茜の際も同じことを訊いたな。其れを余に問い質しても意味はない」
そこまでは、教えられないってか。
「否、余にも定義は図れぬからだ」
でも、無数の能力者に出会ったんだろう? だったら、なにが原因かくらい、想像つくんじゃないのか?
「……検分を試みた事はある。然し、漠然且つ答えには到底至らぬ」
それでもいい、聞かせてくれ。
ハデスは俺の言葉を聞き、しばらく黙考した後、口を開いた。
「
ハデスと出会った際に聞いた言葉だ。
決意を抱えた者は反社会行動に出ることもやむを得ない。そのため円滑に決意を失わせるシステムとしてハデスが能力を付与し、決闘の運命を与えた。
「然し、闇の決意は真に歪みが原因とは断言出来ぬ。意図も容易く、
そうなのか?
「故に余も、主が問うたように決意化しない理由を三通り程、考えた」
決意化する理由ではなく、決意化しない理由、か。
「一つは、至極単純。その思込みは世界に害を齎さず、歪んだ思想では無いが為だ」
おい、あの香織が正しいって言いたいのか、ざくろが苦しめられることが正しいって、そう言いたいのか!?
「余の所見だ。然し、早乙女ざくろは父御の失踪を自己の過失と思うているのであろう? 其れが仮に真実であれば、世界がその償いを正当と判断した可能性がある」
知らねえよ、そんなの。
俺が初めて会った時から、父親なんていなかったじゃないか。六歳の子供にその責任を取らせるのが、正しいってのかよ。俺たちが生きてるのはやっぱり、そんなクソみたいな世界なのかよ……
「余は存ぜぬ、只の管理者であるからな」
わかってる、次を話してくれ。
「二つ目。その思いは生活の中で自然と思い至った着想、生存戦略である場合だ」
どういうことだ?
「決意とは突然、当人の前に降りてくる正解だ。その啓示とも云える思込みには陶酔がある。世界はその強い思込みにしか、反応していないように考えている」
……これは理解できる。
確かに俺が決意を手にした時は、後に引けぬ行動と、失われていく選択肢を前に、電撃的に訪れた正解だった。
ざくろが香織を妄信することが闇の決意……暴力を振るわれないため、幼いざくろが考え出した生存戦略だからなのか……?
「そして三つ目は――意に掛けてもいない、戯れである場合だ」
戯れ?
「主は決意化しない理由を問うたな、故に候補に挙がる。能力者から見て決意化相当に見える事象でも、当人は執心しておらず本気ではない場合だ」
これは、流石に違うだろう。
ざくろにおける香織は絶対の存在だ。俺との婚約も、香織の許可の元に成り立っている。悔しいがそれは事実で、認めるしかない。
だが、その信仰を止められるかどうかは、今後のすべてにかかっている。
「訊いて少しは気を休めたか」
ああ、二つ目が一番しっくり来た。
「過信するな、始めにも云うたが余の所見だ。加えて消去法である故、決意化の有無を確定する思考実験には成り得ない」
あまり、考えすぎないようにはする。ありがとな。
「…………」
どうしたんだ、急に黙り込んで。
「捨て置け。早々に婚約者の元へ、戻るが良い」
ハデスはそう言って、姿を消した。
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