3-6(幕間④) 交われない世界

「座ってくださいね、寒かったですよね」

 家は正直、広いとは言えなかった。

 ここで剣一と妹さん、そして母様が三人住むにしては、どうにもキャパオーバーな気がする。

 妹さんは大きなお盆に、小さな湯呑を乗せ「粗茶ですが」と舌ったらずに言う。その背伸び感が微笑ましく、ウチの肩からは自然と力が抜けていった。

「ねえねえ、たくはいびんさん。放課後はよくカラオケ行くんですか? それともスタバでフラペチーノマキアートですか?」

「え、えっと?」

「たくはいびんさん、とてもキレイですよね。剣ちゃん、こんなビジンと知り合いなんだあ……」

 胸の前で手を組み、目をキラキラ輝かせている。なにやら女子高生に並々ならぬこだわりがあるようだ。

「高校生くらい待ってれば誰でもなれるよ。いま、いくつなの?」

「十四歳です」

 驚いた、ウチの二個下か。小学生高学年くらいかと思った。

「そっか、じゃすぐなれるね」

「ううん、わたしの家、貧乏だからきっと高校生にはなれないよ。剣ちゃんはなんとかするって言ってるけど……」

 意外な家庭事情がポロポロ零れてくる。剣一、マザコンなだけでなくシスコンでもあったのか。

「そんな心配しなくて大丈夫よ。剣一だって高校に通わせてもらってるんだから」

 変な心配をする妹さんがかわいらしい、ウチは自然と手を伸ばしてつい頭を撫でてしまう。

「お姉さんの手、すごいイイ匂いする」

「ちょっとだけ、コロンつけてるからかな?」

「ころん! さすがジェイケーだ!」

「ふふっ、妹ちゃん面白いね」

「あ、あの。わたし、剣ちゃんの妹じゃないんです」

「え?」

「わたしは……」

 妹ちゃんが口を開くと、同時――玄関のドアが乱暴に開かれる。

「ざくろ、戻って来な」

 そこにはグレーのスウェット姿に、眉のない金髪の、女性。

「お、お母さん……」

「いま、剣一いないんだろ。いない時くらい気を利かせて戻ってくるのが、親孝行じゃねぇのか?」

 その女性は言いながら、横目にウチの姿を見る。が、すぐに逸らされる。心底、興味がないと言った表情。

 直感でわかる、これは剣一の尊敬する母様ではない。

 そして気になったのは、それだけじゃない。

 この女はいまなんて口にした?

 隣にいる、妹ちゃんを、なんて呼んだ?

「腹減ってんだ、なんか買ってこい。五分以内」

 言ってポケットからくしゃくしゃの千円札を床に放つ。

「……はい、お母さん」

 返事をした隣の顔を見て、ぞっとする。

 先ほどまで快活な笑顔に満ちていた妹……女の子の表情が、すべて消えていた。

 感情を浮かべることすら拒否した、無の表情。

「ほら、早くしろっ!」

「はい……」

 そうして立ち上がろうとする、女の子。

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」

 ウチはかろうじて、子を連れ戻そうとする母親を制止する。

「誰、アンタ?」

 金髪の女性がずかずかと土足で部屋に上がり、髪を掴まれる。

「家の問題に、口出してんじゃねぇっ!」

「……っ!」

 浴びせられる罵声。

 足が震え、腰が抜けてしまった。

 自分に向けられた悪意に、怯んでしまった。

 少女ざくろちゃんは今度こそ立ち上がって一瞥し、無理して作った表情で言った。

「剣ちゃん、夜には帰ってくるはずです。……ごゆっくり」

 そうして扉が閉まり、階段を下る音。

 剣一の家に取り残されたのは、野次馬根性丸出しのクセして、なんの役にも立たない、ちっぽけな自分自身。

 訪れた沈黙が、じわじわとウチを責め始める。

 スマホを取り出し、剣一に電話をかけた。

 十コールほどして「はい」なんてぶっきらぼうな声。

 その声を聴いて、涙が零れてしまった。

 フラれたウチが剣一に電話をするのは、負けのような気がしていた。電話するくらいなら担任に啖呵を切ることも厭わなかった。

 でも、それ以外の方法が思いつかなかった。だって自分はなにも知らないし、どうすることもできなかった。

 ただ会ったばかりのあの子が、心配で心配でどうしようもなかった。

「ざくろちゃんが、お母さんに連れていかれちゃった……」

「――すぐ戻る」

 それだけ言って、電話は切れた。


 数十分で剣一は戻ってきた、らしい。

 というのもウチは腰が抜けて、アパートから一歩も出れなかった。

 剣一とざくろ母の激情に任せた言い合い、少女の叫び、なにかが壊れ、割れる音。そのすべてがここまで聞こえてきたから。

 腰が抜けていてよかったとさえ思ってしまう。

 その光景を直接見たくなんてなかった。

 ウチは両親と顔を合わせることが少なくとも、家族仲が悪いわけではない。怒られた記憶もほとんどなく、叩かれたことだってない。

 でも、あの母親は他人であるウチの髪を簡単に掴み、暴言さえ吐いて来た。

 未知の世界。

 小学校でよくあった男の子たちとのケンカとは、訳が違う。

 あれは、虐待だ。あの母親は悪人だ。

 そんな人に、暴力を振るわれそうにさえなった。

 遅れてきたその恐怖に、ウチは頭を抱えて部屋で震えていることしかできなかった……

 言い合いは一時間にも渡って続き、部屋に二人が戻ってくることで鎮静化したことを知った。

 ざくろちゃんは泣きじゃっくりで息もできないほどに取り乱していた。剣一は必死にざくろちゃんをなだめ、優しい声をかけ続ける。

 そして眺めることしかできない、自分。

「ありがとな、連絡してくれて」

「……うん」

「誤魔化さずに、ちゃんと話す。でも……今日はごめん」

 立ち去るしかない。

 当然だ。だって知りたかったことはすべて知れたも同然だったから。

 だから知的欲求を満たしたウチは、満足して帰宅の途に就く――


 髪を揺らす風に、寒さを憶え始めた秋の夜。

 赤が消え落ちる藍の空を眺め、爪先に蹴飛ばされた小石が電柱にぶつかり、側溝そっこうに落ちる。

「……はは」

 耐えきれず、電信柱に背を預ける。

「なによ、それ」

 剣一が執心だった女の子は、近所に住む中学生。そしてひどい母親に、止めようとしない近所の住人。

「そんなのどうしろっての、よぉ……」

 剣一にフラれたのはショックだったけど、正直どうにかなるって思ってた。

 プライドなんて捨てて本気で泣いて頼めば、絶対ウチの方に戻ってくる。そんな気持ちがどこかにあった。

 ウチ、ブスじゃない……はずだし、ゲームの趣味も合うし、胸もめっちゃ見られるし、住んでるとこも近いし。

 お互いに、理想な関係。運命みたいなものさえ感じてた。

 でも、それ以上に必要としている人がいた。

 剣一の隣にいるべきはずの自分自身が、なによりそう感じてしまった。……ざくろちゃんには、剣一が必要だって。

「ウチのバカヤロウっ! なに納得しようとしてんだよっ!」

 自分にはざくろちゃんを守る度胸も、剣一を引き止める不幸だってない。あの二人にとって自分はどこまでも無関係だった。

 きっと出会った時から、ウチは剣一の彼女になることなんて、できなかったんだ。

「じゃあ、なんで。……なんで、同じクラスだったの? なんで剣一はサンマなんてやってたの? なんでウチは剣一と出会ったの!?」

 これから少しずつ剣一のことを知って、自分のことを知ってもらって、一緒に歩んで行けると信じてたのに。

「剣一と出会った意味、ないじゃんかっ!」

 悔しくて、悲しくて。

 思い通りにいかなかったことが空しくて、恥ずかしくて。

 自分の生まれにさえ文句を言いたくなる腹立たしさ。

 でも、そんなこと言えない。

 ウチがどれだけ泣き叫んだところで、痙攣したように咽を震わせるあの子より、自分が不幸だなんて言えるわけがない。

「神様、ひどいよっ、ウチ、なにも悪いことしてないじゃんかぁっ!」

 この悲しみから逃れたい、でもどれだけ叫んだところで解決なんてしない。

「やだ……、助けてよ、剣一……」

 だってウチは、剣一がざくろちゃんといることに、納得をしてしまったのだから。

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