3-4 廻り始める歯車

 バドミントンを終え、シャワーで汗を流した後、俺たちは帰りのバスに乗った。

 先ほどまで山の中に居ただけあって、繁華街の車やネオンの灯りを目にすると、少しずつ旅を終えたような気持ちになってくる。外出の楽しさと、家の恋しさが同居している、浮ついたような気持ち。家に帰るまでが遠足。

 茜とはバスを降りたところで別れ、ざくろと二人、家路に向かう。

「楽しかったね~!」

「ああ、でもさすがに疲れたな」

「まったく剣ちゃんたら、あんなにはしゃいじゃって!」

「なに母様みたいなこと言ってるんだ。お前よりはしゃいでねーよ」

「そうかな~? それもそうか~!」

 顎に手を当てて一人得心するざくろ。見てて飽きない。

「でも、わたし。今日は疲れたな」

「めずらしいな、元気だけが取り柄のざくろなのに」

「そうなの。それだけが取り柄なのに」

 落ち着いた様子で話すざくろは、本当に言葉少なだった。

「ざくろ、ちょっとデコ」

 少し心配になり、立ち止まってざくろの額に手を当てる。

「わ、びっくりした」

 手を離した後、ざくろは乱れた前髪の暖簾のれんを整え、目元を隠す。……熱はなさそうだが、少し大人しいのが気になるな。

「剣ちゃん、手繋いでいい?」

「ああ、ほら」

 手を差し出すと、ざくろはそれをおずおずと握る。

 ……?

 手の小さいざくろは、遠慮がちに三本の指だけを握った。いつもはなにも聞かず、腕に抱き着いてくるのに……なんだろう?


 鼻を突く、つんとした冬の匂い。

 葉を枯らしきった公園の樹木を眺め、遊具の少なくなった公園をちらとに見る。横になったままの三輪車に、しぼんだサッカーボール。新しくできたものといえば球技禁止の看板くらい。

 普段はこんなことに、気付かない。風の音さえ聞こえる、静かな帰り道。

 ざくろとの間に会話がないだけで、どこか落ち着かない。

 けれどいつも受け身な俺が、なにを話そうかと考えても、これと言った話題が浮かばない。

 ……たまにはこういうのもいいか、疲れてるってざくろも言ってたし。

 逆に考えれば長い時間を共にする俺たちが、ずっと普段のテンションで過ごしていたら、それこそ過労死しかねない。

 だからこれは長く過ごしたことで訪れた、新しい変化。俺もざくろも、少しは大人になったってことだろう。

 そんなことを考えてる内にアパートに到着。ポストが空であることを確認し、鍵を開けてドアを開くと……

「剣ちゃんっ!」

 靴を脱ぐ間もなく、ざくろにしがみつかれる。

「おい、どうした?」

 ざくろは俺のコートを強く握り、壁に押し付ける。

 そのまま俺の胸に顔をうずめ、まるでなにかに飢えたように口を開けて息を荒くしている。

「剣ちゃん。わたしのこと、好き?」

「好きだ」

 不意打ちではあったものの、するりと答えられたはずだ。

 何度も頭の中で練習したから。

 急に聞かれても絶対に躊躇わない。ざくろに怪しまれることだけは、絶対に避けるため。

「じゃあ……キスしてよ」

 だが、そこまで踏み込んでくるのは、予想外だった。

「おかしく、ないよね……? わたし、剣ちゃんの好きな人だよね?」

「そんなの、当たり前だろ」

「剣ちゃんがわたしのこと大事にしてくれてるの、わかる。でもそれだけじゃおかしいよ」

 ざくろが初めて見せる、切迫した表情。

 先ほどまであんなにころころ笑っていたのに、いつからざくろはこんな表情を見せるようになったんだ?

「剣ちゃん……えっちなことしてよ」

「なに、言ってんだよ?」

 話のスピードに、脳が追いつかない。

「剣ちゃんだって男の人でしょ。今日プールで茜さんとか、女の人の体いっぱい見てた。それに……」

「待て、ざくろ。それは……」

「待たないよっ! 剣ちゃんがえっちなことしたいなら、わたしガマンさせたくないよ!」

「別に俺はガマンとかそういう……」

「じゃあ、剣ちゃんはどうしてわたしと一緒にいてくれるの!?」

 ざくろは、ボロボロに泣いていた。

「剣ちゃん、とても優しい。好きって言ってくれて、結婚するって言ってくれてからずっと夢みたい。でも理由なく優しいなんて、おかしいよ」

「ざくろ……」

「優しすぎてウソみたい、剣ちゃんはいつもわたしに付き合ってくれる。でも剣ちゃんからはなにもない。わたしだってなにかしてあげたいのに……」

「だからって、無理、するなよ」

「無理してでもしたいのっ! だって、わたし本当になにもないんだもん」

「そんなこと、ない。お前といて俺は楽しい、だから一緒にいたいって思えるんだ」

 口にしながら心の中がドロドロと真っ黒なモノに侵されていくのを感じる。

 舌の先から出る言葉は体内に逆流し、自分が醜悪なモノに創り代わろうとする嫌悪感に、溺れそうになる。

「じゃあ剣ちゃん、わたしを剣ちゃんのものにして」

「それはダメだ」

「なんで? わたしのこと、いらないの……?」

「そうじゃない」

「どんなことされても、いいよ。元気だけが取り柄だし。それに……わたしのからだ、あったかいよ?」

 乾きを満たすべく、嗜虐心が胸の内で足掻き始める。

 睫を濡らし、縋るような瞳。桃色の唇に、綺麗な肌色をした頬。そのすべてを、自分のものにできる。

 ざくろはきっと抵抗しない、本当に俺のすべてを受け入れてくれる。

 悩む必要なんてない。

 俺はいままで頑張ってきたじゃないか。愚痴も言わず、友人も作らずに、黙々と二年間も。そのすべては、ざくろを俺が地獄から救ってやるって決めたからだ。

 それでこいつが救われたんだからいいじゃないか。ざくろもいいって言ってくれてる。だったら断る理由なんてなにひとつない。

 そしてなにより俺はこいつを買ったんだ。あの日、手に入らなかったものがすべて手に入る。どんなに嫌がってもこいつは俺から……!

「――知ってる」

 俺は震える指を抑え、できるだけ力を抜いて、自分の中から男を掻き消して、ざくろの背に手を回す。

「やっぱり。ざくろ、あったかいな」

「なんで、よぉ……」

 願いが叶わなかったことを知り、ざくろがまた涙を流し始める。

「わたしがぼーっとしてたら、剣ちゃんどっか行っちゃうよ」

「どこにもいかないよ」

「茜さんのとこにも?」

「ああ」

「剣ちゃん、茜さんのこと好きでしょ?」

「好きじゃないさ、友達としては好きだけど」

「ウソだ。茜さんと楽しそうにバドミントンしてた」

「友達だからな」

「……本当に?」

「本当だ、今日だってざくろと二人で行こうと思ってたんだぞ?」

 鼻をすすり、胸に押し付けていた顔を離す。

「新しい仕事も探すけど、四月まで時間はたくさんある。ざくろ、どこか行きたいとこあるか?」

「別に、いい」

「どうせだったら外出しようぜ、籠ってばっかじゃなくてさ」

「仕事終わるのいつも待ってたもん。だからしばらくは剣ちゃんとおうちでダラダラしたい」

「……そっか、そうだよな。ごめん」

「ううん、でもこれからは一緒だよね」

「ああ、寂しくさせてごめんな」

「うん」

「ほら、鼻水垂れるぞ」

 リビングに入ってティッシュを顔に押し当てる。

 鼻を拭き終えるとざくろは手を引いて、俺をこたつへ誘導する。いつものように、俺を背もたれにする魂胆こんたんだ。だが……

「あ、いまはマズイ」

 俺はそう言ってざくろに背を向ける。

「え、なんで……」

「んっと、それは」

「なんでなんで!? これからずっと一緒って言ってくれたのに!」

 やめろ、くっつくのがまずいんだって。

「あ……」

 気が付いたらざくろは、俺を逃がさないために前方に回り込み……ジーパンの中で存在を主張する、ソレを眺めていた。

 先ほどの蠱惑的な言葉に釣られて、寸でのところで抑えていた生理現象。この状態でざくろを前にこたつなんて入れない。

 気付いてしまったざくろは、視線を泳がせながら顔を俯けて、ぼそりと言う。

「やっぱり、する……?」

「し、しないっ!」

 男に二言なし! つうか、言い切った後にこれはめちゃくちゃダサイ……

「そ、そっか。でも、やっぱりわたしもちょっと、恥ずかしいかも」

 言ってざくろは一人でこたつに入り、テレビをつけ始めた。バラエティ番組の笑い声が、俺の三大欲求をどこか遠くに押し流してくれる。

「じゃ、いまからチャーハンでも作るわ……」

「う、うん。よろしく、おねがいします」

 急にぎこちない会話が繰り広げられる俺たち。

 リビングに背を向け、張りつめた空気に束の間の安堵。けど言い換えれば、問題の先延ばし。

 初めて見てしまった、ざくろの……女としての素顔。

 ざくろは俺が思っているほど、子供じゃなかった。子供じゃなくなっていた。

 俺との関係について思いを巡らせ、一緒にいることの意味を自分なりに考え始めた。

 ざくろはこれからもっと感情を豊かにしていくだろう。

 俺の態度に疑問を重ね、そしてその度に、俺は同じウソをついていく。

 ウソを塗り重ね、うわべだけの想いを呟き、終いにはざくろが俺を見放すように仕向ける。きっとざくろは何度も同じことで涙を流し、それでも俺は偽りの笑顔で励まし、ひっそりと涙が枯れる日を待ち続ける。


 ……出来るのか、そんなこと。

 本気で俺はそれが正解だと思い、実行すると決めたのか?

 確かに何度も自分の決意に向き合って、何度も同じ回答を出したはずだ。

 俺はざくろを泣かせたくない。そのために決意を固めたはずなのに――今日、初めてざくろを泣かせてしまった。

 あれほど、固めたはずの決意が……こうも簡単に、揺らぐ。

「決意の放棄に、心を寄せるか?」

 狭いキッチンに浮かび上がる、決意を束ねる冥界の王。

 まさか。そんなことできないし、するはずもない。

「愚問か。だが万一、放棄するとて容易ではないぞ」

 わかってるさ。

 自分で固めた決意を覆すほど強い気持ちなんて、そう持てるものじゃない。

 それに決意を失うくらいだったら――先日の報道の断片が、頭を掠める。

「喪失を極度に恐れ、その道に逃げようとする能力者は少なくない。冥王としてはそう成らぬよう、紐づく記憶を喪わせるのだがな」

 決意を忘れる自分を受け入れられず、自死を選ぼうとする能力者は少なくない。冥王に管理させられている側面もある。いつしか耳にした説明だ。

「主には無数の逃げ道がある。自死ほど愚かな選択は或るまい」

 そうかもしれない。だが逃げ道があるなんて思いたくないからこその決意だ。

 俺はざくろに向き合うのをやめ、それを正当化しようとした過去がある。

 挙句の果て、俺の手を拒んだざくろを逆恨みさえしていた。

 その俺が、ざくろに償ってやれることがあるなら……なんだって、やってやるさ。

 たとえ、この世のすべての人――ざくろから恨まれようと。

「そうやって耳を貸さぬのも、決意を成し得るための策、か。能力者は偏屈、偏屈でこそ能力者か」

 呟きには応えず、愛用となったフライ返しで、手元のチャーハンを火にかける。

 俺とざくろが共に暮らすことが決まった日、家にやってきた一つの家財道具。

 あの日の俺は、ざくろに受け入れられたことに喜び、様々なものが目の前で閉じていくことに絶望した。

 だが、そんな優柔不断な俺に指針をくれたのが、このフライ返しで、決意だった。

 記憶さえ残っていないざくろへの誕生日プレゼント、そしてそれに救われる自分自身。

 黒田剣一なんて、所詮そんなものなのかもしれない。

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