interlude

interlude① 折れた日に、会えたから

 八歳の俺は、ざくろのことがキライだった。

 だって母様の子供は俺なのに、母様はざくろにばかり優しくしようとする。それが気に入らなかった。

 母様は香織のいない隙を狙って、ざくろを家に招き入れ、一緒に風呂に入ったり、おやつを与えたりした。

 俺はたびたび母様へ不満を口にしたが、逆にざくろの遊び相手をしろと怒られた。

 でも、無理だった。

 ざくろに自分の意志がなかったから。

 おもちゃを見ても触ろうとしないし、自分から喋ろうともしない。好奇心が殺された、魂の抜けた少女。

 そんな相手とどうやって遊ぶことができるのか、俺にはわからなかった。


 だが、ある日。

 ざくろが初めて感情を見せた。

 きっかけは母様の放った、気まぐれの一言。

「ねえ、ざくろちゃん。今日からこいつのことを剣ちゃん、って呼びな」

「かーさま、なに言ってるの」

「剣一はおだまり。言えるかい、剣ちゃんだよ」

「剣、ちゃん?」

「ああ、そうだ。剣一は男の子なのに”ちゃん”って呼ばれるんだ、面白いだろう?」

「……うん」

 そう言って――ざくろが薄っすらと笑った。

 気づく人でないと、絶対に気付けないような、口元を緩ませた程度の、僅かな笑み。

 母様がざくろに関わるようになって、半年か一年か。

 その初めて見せた変化に、母様は目頭を押さえ、ざくろを抱きしめた。

 俺も、驚いた。

 ざくろの無表情が崩れたのは、初めてのことだったから。

 母様の勝手な決めで、剣ちゃんなんて呼ばれるのは癪だったが、俺の名前なんかで、笑顔を見せたことが少し誇らしかった。

 ざくろが笑顔を見せるのは、俺の名前だけ。

 その事実が心の距離を縮めたのかはわからない。けれどその日からざくろのことが、放っておけなくなった。


 だが、それから数年。

 ざくろを取り巻く環境は、一向に良くならなかった。

 香織はざくろを学校へ通わせず家に閉じ込め、気まぐれにヒステリックな叫び声をあげ、暴力を振るう。

 母様も香織と何度も取っ組み合ったが、当のざくろが助けを求めることはない。児童相談所や警察に保護されることもあったが、保護先でざくろは香織の元に帰りたいと癇癪かんしゃくを起こす。

 本人が母親の側を望む以上、家庭に返すしかない。

 同じことが何年も続き、ざくろを助けることが少しずつ”どうしようもないこと”になりつつあった。

「国とか制度だとかバカバカしい。あの娘一人助けてやれないんじゃ、この世も終わりだよ」

 母様も弱音を吐いた。

 ざくろを家に呼ぶ習慣は継続されたが、ざくろにとって俺たちとの交流は単なる休憩でしかなく、地獄から引っ張り上げる助けにはならなかった。

 ……ざくろが、閉じてしまっているから。

 次第にざくろのことが心を占めていった。なにもできない自分が情けなく、逆に募るのは香織への憎悪。

 母様には先に釘を打たれた。

「殺す時はアタシがやる。剣一は手を出すんじゃないよ」

 だが、そうじゃない。

 俺はなにもしないことが嫌だった。

 ざくろのために、なにもしようとしない自分が許せなかったんだ。


 だから俺はその言葉に惑わされたのだろう。

 その言葉をどこで聞いたのかは覚えていない、多分テレビかマンガだろう。

 だが、ざくろを救うためにはその方法がベストに思えてならなかった。膠着した事態を打破する起死回生の一手に思えてならなかった。


 ――駆け落ち。




 中学三年、雪の日。

 俺は早乙女家の玄関前にうずくまり、体に雪を積もらせたざくろを見つけた。

「どうした、こんなところで」

「おそうじ、時間までに終わらなかったから、おうちに入っちゃダメって」

「……ふざけやがって、お母さんは?」

「ぱちすろ」

「じゃあ、家に入れ。バレないさ」

「ダメ、また叩かれちゃう」

 ざくろは家のドアを開けようとする、俺の手を引く。

「そんなの守る必要ないって」

「お母さんのいうこと、聞かなきゃいけないの」


『あんたのせいでお父さんはいなくなった』

 自宅に居ても聞こえる、香織がざくろに怒鳴りつける言葉。

 真偽は不明。

 だがざくろはその言葉に動かされ、救いの手を払い除けて香織に固執する。まるで自身を罰することが、存在意義であるかのように。

 香織は母親として正しくない。それなのにざくろは香織をかばう言葉さえ口にする。

 この少女を救いたい反面、俺はざくろの意固地に言いようのない苛立ちも抱えていた。

「ざくろ、入っちゃいけないんだな?」

 コクリと頷く。

 よし、じゃあ家に来い。香織が帰ってくるまで避難だ。

 そう言うつもりだった。

「じゃあ、俺と遊びに行こう」

 けれど口から出たのは、別の言葉だった。

「剣ちゃんと? でもお母さんに――」

「大丈夫、家に入らないって言いつけは破ってない。それとも俺と遊ぶのはイヤか?」

 ざくろは黙って首を振る。

 どうせ香織は閉店するまで帰って来ない、ざくろを連れ出すのは簡単だ。


 クソみたいな世界に、クソみたいな大人たち。

 なんだかんだ理由をつけて、可哀想な子供ざくろを無視し続ける腐った世の中。

 香織だって本当にざくろを必要としているワケじゃない。いなくなってもわざわざ探しに出たりもしないだろう。

 ざくろも香織から離れれば、いずれ俺たちが正しかったことに気付く。

 だからそれまでの間……俺がざくろを守ってやるんだ。


 貯金箱を割り、八万円ちょっとを財布に詰める。足りない分はアルバイト。寝場所はテント、空き地や公園で寝れば迷惑にならない。

 だが母様と縁は切れないので置き手紙を書く。しばらく経ったら連絡すると書き残し、GPS付きのスマホを手に、俺はざくろと家を出た。

 あまりにもガバガバな計画、だが当時の俺は本気だった。

 正義は必ず勝つなんて言わないけど、最後はそうなるってどこかで信じていた。


 ローカル線の鈍行に乗り、遠いどこかを目指す。

 誰も乗っていない電車に、ざくろと二人。

 遠くの山に一番星が見える頃、俺は努めて明るい声を選んで聞いた。

「ざくろ。お母さんがいなくなったら、なにをしたい?」

「え?」

「お母さん、厳しいよな。ざくろにだって本当はやりたいこと、いっぱいあるんだろ?」

「やりたいこと?」

「ああ、学校に行くのでもいいし、買い物でも、動物園に行くのでもいい。ざくろは一番最初になにがしたい?」

「剣ちゃん、お母さんはいなくならないよ」

 当たり前のように言う。

「そうだな。だから、もしもの話だ」

「もしも、なんてない。わたしはお母さんがいなきゃ、生きていけない」

「なに……言ってんだ?」

「お母さんはわたしを生んでくれた。でもわたしが生まれたから、お父さんはいなくなった。だからわたしはお母さんに、恩返しをしないといけないの」

「……わかった。じゃあ俺になにかして欲しいことないか?」

 そう言ってざくろはようやく考えを巡らせて、申し訳なさそうに言う。

「剣ちゃんと、お話ししてたい」

「いましてるじゃないか。そうじゃなくて、他になんかないか?」

「ない」

「ない、ってことはないだろ?」

「わたし、知らないから」

 そこで初めて気付いた。

 ざくろは楽しいと思うことに、出会えていない。

 だからこうやって言葉を交わすこと。それ自体が一番楽しいことになってしまっている。

「……このままじゃ、よくない」

 俺はざくろの手を握り、体を向け合う。

「俺と、逃げよう」

「逃げる?」

「そうだ。お母さんはざくろを大事にしていない。このままじゃざくろが壊れてしまう」

「違うよ、剣ちゃん。お母さんがわたしを大事するんじゃなくて、わたしがお母さん大事にしなきゃいけないんだよ」

「自分を大事に思わない人を、大事に思う必要はない」

「お母さんはわたしを大事だと思ってるよ。わたし、お母さんの言うこと聞いてがんばってる」

「それは大事にしてるんじゃない、ざくろを便利に使ってるだけだ!」

「便利ってことは、大事ってことだよ」

 ざくろは表情を変えず、香織を庇う言葉を口にする。

 洗脳――そんな言葉が頭よぎる。

「剣ちゃんは、わたしががんばってないと思うの?」

「がんばってるさ、俺の知ってる誰よりも。だから、もうがんばる必要なんてないんだ」

「だめだよ。じゃないと、お母さんに叩かれちゃう」

「逃げるんだ、お母さんの見つからないとこまで」

「無理だよ、無理。わたし帰らなきゃ、晩ご飯の支度まだしてない。叩かれる、いやだ、いやだよ……」

 ざくろは堰を切ったように、泣き始めた。

 必死になだめ、もう香織にも会わなくて済むと言ったが、俺の言葉は届かない。

 ……結局、香織の元へ帰ると伝えると、あっという間に泣き止んだ。

 俺たちはその日のうちに家路へ着き、母様の平手を食らい――親子揃って無力感に打ちひしがれた。


 負けた。

 香織の洗脳に。

 こんなにもざくろを、助けたいって思ってるのに。

 俺の気持ちはなにひとつ、ざくろに伝わらなかった。

 俺は、ざくろに否定された……


 それから高校に入り、俺はざくろを忘れることにした。

 母様にもそう勧められた。

 きっと親心から、俺を”どうしようもないこと”に触れさせたくなかったのだろう。

 挫折を経験する前の俺であれば、反発していたかもしれない。だが、いまの俺は母様の言葉を受け入れる他なかった。


 茜と出会ったのは、そんな時だった。

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