2-19 狂気の果てに

 ――間に合わない。

 振り向いた時には遅く、アリサは強化された駿足で距離を詰め、茜に爪を振り降ろしていた。

「……っざけんな」

 だが、茜はあろうことか、自らアリサに接近する。

「ウチは剣一の迷惑になるのが、一番イヤなのよっ!」

 茜が自ら動くことにより、アリサの目測が狂う。

 強化された駿足は爆発的な移動力を誇るが、同時に自らの高速移動を止めることも適わない。茜はアリサの懐に入り――手に持っていたスプーンを両手で握り、肩の傷口に抉り込む!

「ギャァアッッ!?」

 絶叫。スプーンが肩の傷口に深く突き刺さり、転倒。床に転がり、傷口を抑えて悶絶する。

 アリサの移動速度があってこそのダメージ。いわば銃弾のスピードで、肩にスプーンを打ち込まれたようなものだ。

「お前、そのスプーンは……?」

「紅茶に添えてあったヤツ。部屋から出る前に、なんか使えないかって取っといた」

「お前、タダでは転ばないのな」

「ったり前でしょ、ウチを誰だと思ってん――」

 膝が折れ、よろめく体。

「バカ、無茶し過ぎだ」

 倒れそうになった体をなんとか支える。

「……ありがと」

「気にするな。それより逃げるぞ」

「そうはさせないっ……アスプロ!」

「きゃっ!?」

 茜を抱きかかえ、跳躍。

 足元には床から溶け出てきた、アスプロの腕が宙を掴む。

「飲み込みが……早いわねっ!」

 床に転がったままのアリサが、不快そうに言う。

 ――敵の能力は、アスプロそのもの。

 床から手を伸ばして俺の足を掴んだり、壁に叩きつけられた際は、壁に溶けていくことができる。

 その事実からアスプロの真価は、体を無機物に溶かし込み、好きな位置から再出現できるものと想定。

 ……内心、臍を噛む。

 アスプロの能力が及ぶ範囲が、ホテル内だけであればいい。だが仮にホテルの外でも有効なのであれば、茜を一人で逃がすことは逆に危険。尚且つ、敵の狙いは茜が最優先。茜を一人にするのは敵に塩を送るようなもの。

 そしてアスプロ自身は依代でありながら、能力そのもの。現実に存在している以上、茜に直接触れることは造作もない。

 現状、茜を守りながら戦う分、俺の方が不利。少なくともいまこの体制では両手が塞がっていて――って。

 ……勢いではあったが、俺の腕には大人しくなった茜がすっぽり収まっていた。

「なによ」

「なんでもない、けど」

 気を取り直し、頭を切り替える。

 アリサは痛みに耐えながらも立ち上がり、出口を背に彼を従え戦況は一時膠着。

 敵の能力がわかった以上、茜を地に着けるわけにはいかない。だが両手が塞がっているこの状況下、そして壁に包まれたこの部屋は敵にとって圧倒的有利な環境。

 最善手を頭でシミュレート、だが悩んでいる暇はない。俺は踵に力を込め、叩きつける。

 室内全体に亀裂が入り、一斉に割れる窓ガラス。

「茜、背中に回すぞ」

「えっ? っと、うわあ!」

 抱いた茜を浮かせ、体を反転。いわゆるおんぶの体制に切り替え、両手を空ける。そのまま俺は割れた窓に移動し、ひさしを掴んで――屋上まで跳躍する。

 厚い壁に覆われた室内から一転、寒空の下。見上げれば雨が降り出しそうな鈍色の空。

 アリサがすぐに追って来る気配はない。だが早く決着をつけ、茜の手当てをしたい。

 強化された俺自身は寒さを感じないが、茜は失血で体温も下がっているはず。長いこと戦いを続けるわけには行かない。

「茜、寒くないか」

「だ、大丈夫」

 茜の声はこわばっている。

 ……いまの質問は、ダメだよな。茜に大丈夫って言わせるだけの質問だった。

「ちゃんと、暖かいところに帰すから」

「え?」

「絶対に安心できるところに、帰すから」

「……」

「だからもう少しだけ、耐えてくれ」

 言えるのはそれだけだ。

 俺が負けたらアリサは茜に容赦しないだろう。

 だから俺は絶対に負けないと、茜に、俺自身に言い聞かせる。そんな精神論的な、不安定なものでしか茜を支えてやれない。

「剣一」

 背中から、穏やかな声。

「信じてるから」

「……」

「全部終わっても、剣一は剣一のままだって」

「ああ」

 腕を回し、体の力を抜いてくれる。

 僅かに増したその重みが、嬉しくて……力強い。


 ややあって、屋上の鉄扉が前触れもなく開く。

 その姿を見て、俺は大事なことを思い出す。

 それは俺が本来ここにやってきた、そもそもの理由――

「なんだ黒田、ここにいやがったか。なんなんだ、さっきからの騒ぎはよ?」

「武田……さん」

「五階の扉はぶっ壊れてるし、あちこちヒビまで入ってやがる……って、なんだよ。背中に抱えた女は?」

 体中を埃まみれにした、青い作業服の中年男性。

「てめえ、俺が仕事してる最中に女連れ込んでるたぁ、どういう了見だ。ええ?」

 機嫌の悪そうな胴間声、そしてその背後に現れる……異能の怪物。

「逃げろ!」

「あ?」

「いいからこっちに走って!」

 言うが、遅い。

 背後に立ったアスプロの拳が横に振るわれ――武田は玩具のように屋上を転がった。

 ……体をありえない方向に曲げながら。

 失神しているのか、それとも。

「ぅ、ぁぁ……」

 かろうじて呻き声、肩も動いている。死んではいない。

「剣一くぅん、ダメじゃないの? 決闘中には人が入って来ないようにしておかなきゃ」

 アスプロの肩に腰を下ろし、後から現れたのは冷徹な女の声。

「なぜ、手を出した」

「決まってるじゃない。邪魔だったからよ?」

「理由になってない」

「なるわよぉ? だって私、頭のおかしい犯罪者ですから」

 会話は、通じない。

 とっくにわかっていたはずなのに、聞いてしまう。

 自分の理解の及ぶ先であることを、願ってしまう。

「茜ちゃん、見たでしょう? あれがこれから迎えるあなたの姿よぉ?」

 せせら笑うように、俺の背に向かって問いかける悪魔。背中にしがみつく手からは、震えが伝わってくる。

「ふふ、茜ちゃんに迫る恐怖が増したのなら、その男もヤられた甲斐があるってものよねえ?」

 そんなことのために、武田に危害を加えたっていうのか?

 茜の恐怖を煽る、ただそれだけのために。

 俺は武田のことが嫌いだった。だが死んで欲しいなんて思ったことはない。

 もし、そんな考えがよぎっても、行動しないのが普通の人間だ。……もうこいつを、放っておくことはできない。

「……ゎくなんて、ない」

 茜が声を震わせながら、言う。

「怖くなんて、ないっ!」

 虚勢の叫びに、アリサは鼻で笑う。

「あなたは剣一に絶対勝てない」

「構わないわよ? 私は決闘に負けてもいい。もちろん茜ちゃんは殺すけど」

「……ウチは殺されない、剣一が守ってくれるから」

「ふふ、すごい信頼ねえ。二人まとめて潰したくなってきちゃった」

「お前なんかに負けねえよ」

「二人仲良く口ばかり。これだから子供ってやあね」

 そう嘲るも、嗤い声に覇気はない。

 アリサは既に茜以上の失血量だ。強化されていなけれ、立つこともできないはず。

「アリサ、降参しろ。このままじゃ……」

「できないわ。あなたたちを認めるわけにはいかないから」

「どうして、そこまでして過去の復讐にこだわる」

「ここに再び現れた以上、過去じゃない。私の復讐は進行中なのよ」

「だとしたら、それは筋違いだ」

「違わないわ。だって剣一君は――」

「アリサ、教えてやる。俺の決意は、ざくろを独り立ちさせることだ。いつか別れる相手に想いを寄せることはない」

 対面する能力者が、眉を顰める。

「だが他の誰かに縋るわけにいかない。俺が求めるのは決意エゴの成就。どこまでも独善的なその行いに、誰かを道連れになんて、絶対しない」

 いつ成し得るかわからない時を、誰かに付き合わせるわけには……いかない。

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