2-15 闖入者
ホテルに着くと、アリサが発する闇の気配を肌に感じる。気配の出どころは当初と変わらず五〇五号室。あちらも感じ取っているだろうが、俺は一応ノックをして扉が開くのを待つ。
「剣一君、おはよう。すぐ来てくれて嬉しいわぁ」
いつもとなにも変わらない、バスローブ姿のアリサが俺を出迎える。
「おはようございます。もうあがって大丈夫ですか?」
「うん、おかげさまでね。心の準備もできたから」
……なんだろう、朝からホテルに来てバスローブの女性にそんなこと言われると、なにやらドギマギする。
戸締り不要なオートロックのドアを開け放ち、三回目となるアリサの部屋に入る。
「あれ、アリサさん片づけは?」
「色々考えたんだけど、なにも持ち出さないことにしたの。昔を思い出しちゃったりしそうだから」
「そうですか。でも、それが一番いいかもしれませんね」
「ありがとう。そう言ってくれると安心するわ」
そう言ってアリサはベッドに腰掛け、俺もソファに腰を下ろす。
彼女はそのままベッドに体を倒し、満天の星空でも眺めるかのように、天井を見つめる。
その瞳に移るのは未来への期待なのか、不安なのか。その胸中は彼女にしか図り切れない。
これから記憶の一部を失い、まったく新しい自分へと生まれ変わる。これまでの自分を生まれ変わらせるための、死を受け入れる時間。
アリサが向き合っているのは、その恐怖。
俺にそれを急かす権利はない。
あくまで俺はアリサの輪廻転生を助ける
そうしてどれくらい経った頃か。アリサは大きく息を吐き出し、目をゆっくりと開いた。
「剣一君。そろそろお願い」
彼女の返答に俺は立ち上がり、ベルトに挟んだフライ返しを構える。
「ふふっ、それが剣一君の? かわいらしいモノだこと」
「わ、笑わないでくださいよ」
「でも、それですべてを忘れられるなら、嬉しいわ」
アリサが目を瞑り、胸を抑える。
決闘を見定めようといつの間にかハデスが傍らに姿を現す。決闘化している場では依代のフライを振るえば、
「剣一君」
アリサが涙の溜まった瞳を向け、両手を広げる。
「来て――」
俺は首肯し、アリサの元へ歩みだす。
そして彼女の幸せを願い、俺は振りかざしたモノを彼女に――
「って、なにやっとんじゃあああ!!」
突然の怒号。そして呼吸が止まるような衝撃、回転するアリサの姿。
違う、回転したのはアリサじゃない、俺だ。
気づけば俺は地面に寝かされていた。
「朝っぱらからラブホでなにやってんのよ、剣一!」
思考と風景が様変わりし、にわか混乱する俺の前に現れたのは……制服姿の茜だった。
胸倉を掴まれ、地面に押し倒されている。
「お前、どうやってここに……」
「ドアが閉まる前に入ったのよ、鍵がかかる前にね!」
オートロックの扉を指差しながら怒鳴る。
「じゃなくて、どうしてここが」
「どこで、どんなブラックな仕事をさせられてるのかと思って……ついて来たのよ。そしたら、なにこの状況! バスローブの女と二人で会って、心の準備とか! かわいらしいモノだとか! すべてを忘れさせるとか、言わしちゃってんのさ!」
般若の形相で唾を飛ばしまくる。
突然のことに混乱する脳みそも、発言の意図が段々掴めてきた。
「なに、剣一の仕事ってこうやってこそこそ、女の人に会うことだったの!? ウチとの電話は仕事を終えた後だったっての!? 結婚はどうするの? ええ、説明してみんかい、このウワキモンがぁ!!」
「おい、茜。落ち着けって、落ち着かないとなにも説明できな……」
「これが落ち着いてられっか!!」
もうダメだ、俺はこのまま茜に絞め殺される。
俺の決意は成就することなく、アリサも決意から逃れられず、俺たちは永遠の闇を彷徨い続けることになるのだ。
-fin-
「ほら、やめてあげてえ。剣一君、このままじゃ本当に死んじゃうから~」
「なによ、この泥棒猫っ! さんざ剣一をたぶらかしといてっ」
「そうじゃないのよ、剣一君は私を慰めようとしてくれてたんだから」
「ええ、そうでしょうよ。剣一のかわいらしいモノでねっ!!」
「どうしたらいいのかしら。剣一君が死んじゃったら、私の高まった気持ちはどこへ行けばいいの?」
「知らんがな! 自分の指でも使ってオナ――」
「二人とも!? 少し俺の話を聞いてくれますかっ!?」
***
茜は好奇心を爆発させると、時折とんでもない行動力を発揮する。
仮称、ストーキング癖。
ログイン時間のチェックくらいは可愛いもんだ。既読未返信に文句を言うのも構わない。……と、最近はそれくらいで済んでいたから、油断していた。
「というわけで、アリサさんは俺の仕事と無関係。今日で下見の仕事は終わり、アリサさんには立ち退いてもらうって話。オーケー?」
目の前に座っている茜は終始うろんな目つき。アリサさんにも敵意を抱いているのか、せっかく出してもらった紅茶にも口をつけない。当のアリサさんは優しい目つきで、黙って俺たちの話しを聞いている。
むろん、闇の決意や能力の話はしていない。あくまで仕事で来たことと、不思議な居住者の説明だけ。
「話の筋を通ってるけどさぁ〜? な〜んかできすぎてない?」
疑うことを隠さない間延びした茜の声。
まあ、確かに廃ホテルに女性が一人で住んでるってのは、中々現実的じゃないけど。
「なんで、その……アリサさん? は剣一の前でバスローブ一枚の姿なのよ?」
「それは……」
なぜだろう?
「言い淀んだ! やっぱり疑わしい!」
「違うって!」
「じゃあなんでよ?」
「えっと、それは」
答えに困ってアリサさんに目を向ける。
「特に理由はないわよ~」
にっこり、癒しの微笑み。
「理由なく、女の人が男の前でそんな姿になるわけないじゃん」
アリサさんのほうを向かずに、むくれた声を返す。
そんなつっけんどんにならなくても、と思うが無理もないか。茜からしたらまったく知らない女性だ。それに素性も定かじゃない。
「だってここは私の家だもの。あなたは部屋にいる時、裸で歩いてて恥ずかしいと思うかしら?」
「自分の部屋でも裸になんて……」
言って茜が少し考え込む。
「ならないことも、ないけど」
「でしょ~?」
「お前、部屋じゃ全裸なのか」
「上だけよっ! ていうかそこだけ拾うなっ!」
茹でダコが目尻を釣り上げる。
上は着ないこともあるという有益情報を得たが、このままでは茜がまたヒートアップしてしまう。なんとか冷静に話を聞いてもらわないと。
「本当にアリサさんとはなにもない、ここでたまたま会っただけだ」
俺は改まって少しでも真剣さが伝わるよう、真正面から茜の目を見て言う。
「口では、なんとでも言えるし」
唇を尖らしながらぼやく。
「そうだな。でも俺……茜にウソはつかない」
「っ」
わかってて、その言葉を使う。いま使うのが卑怯だということも、わかった上で。
「でも剣一、ウチに話しやすいなんて言って、なんにも教えてくれなかった」
「言っただろ、深入りさせ過ぎたくないって」
「でも中途半端に知ってるの、怖い。だって剣一、また急に変わっちゃうかもしれないし」
「あのときは――」
「ごめん……いまのなし、イジワルだった」
茜は手元の紅茶に手を付け、一呼吸置く。
「色々と言えなかったことがあるのは悪いと思ってる」
カップとかき混ぜるスプーンがぶつかり合い、からりと音を立てる。茜は俯きながらも耳を傾けている。
「お前には感謝してる、でも――」
「迷惑なんかじゃないし、そんなこと言って欲しくない」
言葉を被せ、仏頂面。
「でも言わなきゃいけないだろ。だってお前……優しすぎるから」
知ると手を貸してしまう。助けてはいけない相手を助けようとしてしまう。
「優しくなんてない。ただウチがワガママを通してるだけ」
「そうやって全部自分のワガママにして、助けようとしてくれるから優しいって言ってんだろ」
「だって本当にウチのワガママなんだもん、ワガママってわかってるんだもん!」
茜は自分の声の大きさに驚いたのか、少し顔を上げて冷静さを取り戻す。
「ウチ、自分のことわかってる。もう剣一のことを知りたいだけになってることだって」
「茜……」
少し震わせた声で鼻をすする。
「でも、これ以上は言えない」
少し怒ったような、顔。
「これ以上言ったら、本当に迷惑だって、わかってるから」
「ごめん」
「ううん。剣一に嫌われるの、怖いだけだし」
聞く度に胸を打つ、茜の自虐。
「剣一、ウチのこと優しいって言った。そんなこと言ってくれるの剣一だけ。本当に剣一だけ。そしてそう思ったこと、教えてくれるのが嬉しい」
俯いて、しおらしい声。
「そんなこと言われて、ちょっと気分がよくなった。だからそれに騙されて、今日は剣一の言ってること、信じてあげます」
うかがうような、上目遣い。
――優しいって言ってくれたのが嬉しいから、全部許すってか。本当にこいつは……
「ふふ、二人ともとっても仲が良いのねえ」
対面する茜の隣にアリサが腰かける。
「詳しいことはわからないけど、茜ちゃんの誤解が解けたようでよかったわあ」
「……えと、ハイ。態度悪くて、ごめんなさい」
言われた茜は、バツが悪そうに頬を掻く。
その殊勝な態度にホッとする。なにやら思いがけないハプニングが起きたが、なんとか場は収束に向かって動きそうだ。
けど、どうしようか。
とりあえず俺は仕事の残りと、アリサを決意から解放しなければならない。でも茜の前では見せられない。
茜を駅まで送りたい、けど時間的余裕もない、悪いがここは一人で帰ってもらうしか――
「あなた茜ちゃんって言うのよね?」
「えと、はい」
「ふうん。じゃあ、ざくろちゃんって知ってる?」
――え?
場の雰囲気が、変わっていた。
気が付くとアリサは茜の肩を抱き、顔を寄せてそんなことを聞いていた。
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