1-14 不幸自慢

「……終わったのか」

 膝からくずおれた馬籠が、深夜の曇天に力なく呟く。取り乱す様子はない。

 敗者が決意を失うまでには、少しばかり時間がかかる。そして失うまでの間に、錯乱する能力者は多い。

 決意の喪失とは、決意への執着を失うこと。今回の場合、おそらく馬籠は「昔、茜のことを好きだった」としか認識できなくなる。

 何度も告白したことを、黒歴史として客観的にしか認識できず、なんであんなに必死だったんだろう? としか思えない。言い換えれば茜に恋焦がれている馬籠は、これから死ぬことになる。

 人間が安心して眠りにつけるのは、今日から続く明日が同じ自分であると信じられるから。朝起きて目を覚ましたとき、記憶を失うのであれば、これから眠りにつく自分は、死ぬことを意味する。そんな死を間際に、正常でいられる方がおかしいのだ。

 だが、馬籠の表情に恐怖はなかった。

「これで、よかったんでしょうね」

「怖く、ないのか?」

「当然でしょう。自分でも抑えられなかった迷走が終わるんですよ?」

「……迷走とは、思ってたんだな」

「当たり前です。僕は風紀を正す、風紀委員長なんですから」

 そんなことを言いながら、土埃に汚れた芝生に寝転がる。

 瞳は空虚でいて、清々しい。どこか投げやりな、肩書を置いた馬籠雄一郎の姿だった。

 そんな彼の傍らには、根元から折り曲げられ、ぐしゃぐしゃになった桃色の傘。

「もう使えませんね、この傘」

「えと、悪い」

「いえ、どの道もう使うことはないから、いいんです」

 馬籠はボロボロになった傘を抱きしめる。

「先輩に傘をもらった後、雨の日が好きになりました。この傘を差して歩くことができるから」

「でも、そんな傘さしたら?」

「ええ、バカにされました。でも、構いません。先輩にもらった傘です、登下校はドヤ顔でした」

「マゴちゃんは真っ直ぐで、いい子だな」

「小学生ですから」

「……その傘を差すのは、やめたのか」

「いえ、卒業まで差し続けました」

おとこだな」

「氷川先輩が、間に入ってくれたんです」

「茜が?」

「ええ、自分が使っている時はバカにされっぱなしだったのに、その傘をあげた僕がバカにされたら、ケンカをしてくれました」

「なんつうか、パワフルだな」

「ええ、ますます先輩が好きになりました。僕も先輩に手を差し伸ばすことで恩返しがしたかった」

 そこで馬籠は一息吸って目を瞑る。

「でも、先輩は僕の助けなんて必要としてなかった。きっと気持ちが先行しすぎて、なにもできない自分が悔しかったんでしょうね。……いつの間にか気を惹くことしか考えてませんでした」

「そっか」

「昔から男勝りで、ケンカが強くて、竹を割ったようなさっぱりした人でした」

 想像できる。にかっと歯を見せながら笑う、茜の少女時代。

「いつでも周りに人がいて、リーダーシップもある、近い距離の女の子。好きにならないほうが無理でした」

「昔からモテそうだもんな、あいつ」

「僕は想いを告げず、ずっと追い続けました。中学では彼女と同じ生徒会に入り、高校は風紀委員に入りました」

「マゴちゃんのストーカーも筋金入りだな」

「でも、高校に入って氷川先輩は変わった。いままでと毛色の違う男が現れたんです」

「……」

「その男は学校へ真面目に通わず、校則違反のアルバイトをし、注意されても決して行動を変えない問題児でした」

 馬籠が入学したのは俺が二年の時。普通に学校へ通っていた頃の俺なんて、見たこともないだろう。

「風紀委員とその男は水火氷炭すいかひょうたん。それなのに氷川先輩は黙認するどころか、働くことを学校に認めさせた」

 推薦を取るために風紀委員か生徒会に入る、でもトップになると仕事が多そうだからイヤだ――二年前の茜は良く言っていた。

「当然、氷川先輩の評価はがた落ち。挙句の果てに問題児との交際まで噂される始末です」

 ――別に推薦取れなくってもいい、でも剣一が退学するのはダメ。

「それでも氷川先輩は風紀委員長から降ろされることもなく、自ら降りることもなく最後まで委員長であり続けた。地位にしがみつく憐れな人と言われても、怯むことなく」

 ――退学したら後で困るのは剣一じゃない。これからもざくろちゃんと一緒にいたいんでしょ?

「でも僕にはまるで……あなたを庇い続けるために、委員長の座を守り続けた。そう見えてしまった」

 ――大丈夫、ウチが絶対になんとかするから。

「聞かせてください、黒田先輩」

 馬籠が力ない視線を、俺に向ける。

「氷川先輩とあなたの間に、なにがあったんですか」

 ――だから、お願い。

「なぜ氷川先輩は、そこまであなたに肩入れするのですか?」

「肩入れなんて」

「誤魔化さないでください。僕は長年、氷川先輩を見てきました」

 断言できるのは、馬籠が茜の変化を見てきたから。

 俺も茜とは少なくない時間を過ごした、でも変化を見てこれたのは馬籠だ。誤魔化すのは難しいし、これから茜を忘れようという馬籠に、それはどうにもはばかられた。

 他に聞いているヤツはいない。馬籠はマスクの甘い優男やさおとこだが、根は真面目だ。馬籠の口が足を生やして告げ回ったりもしないだろう。……そうやって打ち明けることを前提に、自分に言い訳を始めている。

 なんて意志薄弱。墓まで持っていく、なんて決めたつもりでも、誰かに聞いてもらいたいという欲に抗えない。

「……茜に、話したんだ。仕事を始めた理由、婚約者がいるってこと」

「それは婚約者がいるのは本当で、氷川先輩ではない。そういうことですか?」

「ああ」

「先ほどの話し、どこまでが本当なんですか」

「茜のこと以外、おおむね本当だ」

「だとしたら理解できません。婚約するのなら先輩が大人になってからでいいはずだ。あなたが学校を休んでまで……」

「それじゃ、間に合わないんだ」

 拳を交えた男同士のなんとやら。世界に疎まれた者同士。

 そんな言い訳を並べ立て、俺は二年前からのすべてを、馬籠に伝えてやった。

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