1-5 若奥様の存在意義

 社長しゃちょうと初めて出会ったのは、駅構内にある求人雑誌の陳列棚。ざくろを救うには、香織を金で釣るしかない。正にそんな時だった。

「若いのに感心だな、君」

 横に立っていたのはやたら背筋が伸びた初老の男性だった。考えてることが読めない細目に、白みがかったオールバック、口ひげの生やした姿はどこぞの執事のような風体だった。

「労働に興味があるのかな?」

「ええ、まあ」

 あまり関わり合いたくないなあと思い、適当に返事をする。

「ふむ。であれば、いまから日払ひばらい五万円で弊社へいしゃへ来ないか?」

「ご、まん……?」

 社長の発言に息を飲む。

 求人誌に乗っている五倍はくだらない、あまりにも美味すぎる条件。怪しいとは思ったがこれを逃したら、次はいつ会えるかわからない。半信半疑のでついて行くと、いきなりトラックに載せられ現場に直行させられた。

 仕事の内容は夜逃げ。元カレがストーカー化し、嫌がらせに怯えるOLを逃がす仕事だった。社長は元カレが夜間警備の仕事をしていることも調べ上げ、その勤務時間を狙って引っ越させるというものだった。

 普通の仕事でないのは明らかだった。しかし、一日で五万円は破格だったし、俺だって男子高校生だ。夜逃げなんて単語を聞いてワクワクせずにはいられない。

 その頃はまだ母様と一緒に住んでいたので、遅くなることだけを伝え、夜逃げを手伝うことにした。

 社長の手際は見事だった。事前に別動隊を動かし、男の職場でトラブルを起こさせるという荒業あらわざも使い、無事に日をまたいで荷物の搬出を終えることができた。インドアな俺はその後しばらく筋肉痛に悩まされたが、女性には何度も感謝をされ、初めての労働を気持ちよく終えた。

 そして家の近くまで送り届けてもらったあと、俺は五万円を現金で受け取った。

 たった一晩で五万円、お年玉でも手にしたことのない金額。――それを手にした時、これまで見ていた世界が崩れ去った。

 どこかで、あきらめていた。

 俺みたいな子供がなにをしようと大人の世界には立ち入ることはできず、結局なにを変えることもできないんだって。

 でも、違った。

 いま手にしているモノは単に五万円の価値のある紙切れではなく、俺が大人の世界へ入ることのできる証明書類だった。これがあれば俺をガキだと思い込んでいる、大人の意識を変えられる。

 ……ざくろを助けられる。

 いままでの無力感が波に流されて行く。

 誰かの人生に影響を与えることができるという実感。高一のクソガキが感じる、僅かな万能感。

 だが、その思い込みが原動力。俺を何倍にも奮い立たせ、無理を通してやると言う意志に変わる。

 変えてやる、俺の手で。

 一人の生きた人間として、発言権のある人間として、大人の世界に殴り込みをかける。

 ……そして寝ずに待っていた母様に「帰りが遅い」とぶん殴られた。

 けど俺はお叱りの言葉に割って入り、思っていることを包み隠さず母様に打ち明けた。

 我ながら馬鹿なことをしていると思ったが、どこかで確信していた。

「犯罪はご法度だからね。でも法に触れないなら……好きにしな」

 母様は、絶対に反対しない。ざくろが受ける虐待に、一番心を痛めていたのは母様だ。

 俺たちがこのアパートに引っ越してきてから九年間。母様は何度も香織と言い争って、俺以上にざくろの虐待と向き合ってきたのだから。



***



「はい、剣ちゃん。あーんして」

 俺は雛鳥ひなどり

 ざくろにオムライスを餌付けされることしかできない、無力な愛玩人形。

 テレビからは笑い声。きっと無様な俺をあざ笑っているんだ。そうに違いない。

「もーせっかくわたしが食べさせてあげてるのに、その不満そうな顔はなんですかっ」

「不満そうな顔なんてしてない、生まれつきだ」

「たしかに」

「確かに、じゃねえ。否定しろ」

「あははーかたじけない」

 ころころと笑うざくろはご機嫌そのもの。

 今日の仕事は夕方までには片付き、陽が落ちる前に家に着くことができた。それがよっぽど嬉しいらしい。

「そういえば鮎華さんが久しぶりに遊びに来いって言ってたよ」

「前に行ったのは夏だったし、もう三ヶ月くらいは行ってないか」

「剣ちゃんだって会いたいでしょ、かーさま」

「当たり前だろ、もう三ヶ月も母様に耳かきをしてもらってない。このままだと耳垢が溜まり過ぎて、いずれざくろの声も聞こえなくなるな」

「ひえーそいつはやべえな」

 ざくろがシェーのポーズを取りながらドン引きしている。

「でも鮎華さんも大変みたいだよ。お掃除めんどくさいーって言ってたし」

「まあ、あんだけデカい家だし」

「ねー。わたし大広間に行くたびに走り回りたくなっちゃうもん」

「実際、走り回ってるじゃないか、犬みたいに」

「わんわん! わたしはわんちゃんです。かわいい?」

「ああ、かわいいよ」

「あらもー、剣ちゃんたら正直ですこと。おほほ」

 犬になったと思ったら、急におばちゃんになった。照れからのおふざけにも見えるが、ざくろは冗談が多すぎてどこまでが素かわからない。

 ちなみに母様は現在、ご実家だ。ざくろがアパートに住み始めたタイミングで、婆様ばあさまが体調を崩されたのでそのまま帰られている。

 まあ、それも表向きの話。あれだけ婆様嫌いの母様が倒れたくらいで帰るはずがない、顔を合わすたびに孫の顔をせっつかれるので目的はそっちだ。犯罪はご法度なんて言っといて、息子を別の犯罪に追い込もうとするのだから始末に負えない。

「じゃあ……明日にでも行くか」

「ホント!?」

「ああ、社長が明日はなにもないって言ってたから。学校帰りにでも行けると思う」

「やたっ! 久しぶりに鮎華さんに会える~」

 両手を胸元に当て、くるくると回っている。忙しいヤツだ。

 けれど、その前に釘を刺しておかなきゃいけないことがある。

「おい、明日は俺が母様に甘えるんだ。ざくろは引っ込んでろ」

「なにを~? 偉そうにっ。このマザコンめっ」

「マザコン上等、こちとら生半可な気持ちでマザコンしてねえよ」

「わたしだってトメコンだしっ」

「なんだトメコンって」

「しゅうとめコンプレックス、略してトメコン」

「誰も元に辿り着けんわ」

「でも語呂ごろはいいでしょ?」

「めっちゃイイ」

 同意を得られ、ざくろはドヤ顔を決める。

 ざくろは人の母様を独占しようとする不届き者だが、不仲であるよりはよっぽどマシだ。母様がざくろを嫌うはずもないが。

 テレビからポーンと音が鳴り「二十一時になりました」のアナウンスと共に、ざくろが立ち上がる。

「わたし、お片付けするね」

「手伝おうか」

「だめっ、剣ちゃんは仕事でお疲れなんだから」

「別に今日はそんなに疲れてないし」

「でも、そしたらわたしの仕事がなくなっちゃいます。れぞんでーとるの崩壊です」

「さいですか」

「……れぞんでーとるの意味、聞いてくれないの?」

「中二病にかかったことのあるヤツなら、存在レゾン意義デートルくらい知ってるぞ」

「な、なんてこったい」

 そう言ってざくろはノリノリで食器を重ね、仕事に入る。

 自分の仕事テリトリーは譲らない、変なところで頑固だ。けれど自分の意志を主張するざくろが嬉しいので、そのままにしておく。

 俺はどうしようか。

 寝る時間にはまだ早い。クラスメートにも圧力をかけられたし、サンマのデイリーミッションくらいやっとくか。

 アプリを起動したところで、食器の割れる音が響いた。

 まずい。

 俺は開きかけたスマホを置き、ゆっくりとざくろに歩み寄る。

 シンクを見下ろしたままのざくろは棒立ちで、二本の足を振るわせていた。

「ケガ、してないか」

 かけられた声に、びくりと肩を揺らす。

「ごめんなさいっ!」

 切迫した声に、涙目。

「謝らなくていい、誰でもやっちゃうことだから」

 後ろから頭を抱き、少女の震えが治まるまで待つ。ぜえはあと、息を吸っては吐く。大丈夫、ざくろは我を失ってない。それだけでも大きな進歩だ。ここは香織の家じゃない。体罰もなければ、謝る必要だってない。

「指、切ったりしてないか」

「……うん、大丈夫。ごめんね剣ちゃん」

 俺のこともしっかり認識できている。俺を香織と勘違いして謝り倒した昔とは違う。

「やっぱり、手伝うか?」

「ううん、これわたしの仕事だから。じゃないとわたし本当に剣ちゃんのおにもつになっちゃう」

 そんなことない――言葉を飲み込む。もう何十回もくりかえされたやり取り。これ以上はざくろのためにならない、決意の成就にも必要なことだ。

 俺自分の気持ちを逃がすため、もう一度だけ小さい頭を抱いてから離す。

「ありがと」

 ざくろは一つ深呼吸をして、目の前の壊れたモノと向き合う。それは他人が手を出してはいけないモノだ。

 俺は黙って居間に戻り、投げ出していたスマホを開く。

『こおりば さんからマルチクエストの招待が来ています』

 ……反応、早すぎるだろ。先ほどログインしてから五分も経ってない。とりあえず、承諾のボタンを押す。

 台所では流れる水の音。手元には親しみやすい昔なじみのゲーム。

 そうやって俺の日常は小さく、いつも通りに、少しずつ歯車を回している。

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