0-2 潰れる十六歳

 夕食を終えたざくろは、気を失うように眠った。二度と起きないんじゃないかと思うほど、深く。

 朝晩問わず聞こえる香織の怒鳴り声、なにかが壊れる音、叫ぶような「ごめんなさい」の声。ざくろには安眠すら与えられなかった。それを思うとこれまで目を背けてきた、自分が許せなくなる。

 せめて、これからの暮らしは守る。ざくろが安心して眠れる、生活を。

 ――静まり返った部屋に、スマホの振動音が響く。

 ここ数日、スマホに触れることすらなかった。久しぶりのホームボタンに手を押し当てると、おびただしい数の未読メッセージと、着信履歴。

 それらに目を通すと、一週間前の出来事が脳裏を駆け巡る。


 ……俺、二重人格なのかな。

 先週まであかねのことしか考えていなかったのに。

 ざくろに出会ってから茜のことを思いだすことなんて一度もなかった。

 茜のこと、好きだった。

 でもその感情は、意味をもたない。

 画面向こうのキャラクターに恋してるような、果てしなく遠い存在になってしまった。

 茜との未来。その選択肢は、俺自身が潰したのだから。

 納得するしかない。


『自分でもびっくりするくらい嬉しい、お返しは必ずするね。』

『剣一、今日ガッコ休み? 先生には適当に言っといたけど、大丈夫?』

『休みすぎだよ、どうしたの? お見舞い、行くよ?』

『ごめん。なんか悪いこと言ったかな。本当に心配してるから返事ください』


 心をえぐるようなメッセージの数々。

 既読をつけた瞬間に、追加のメッセージが届く。文面の意味を無視し「明日、話がある」とだけ返信をし、電源を落とす。

 壁にもたれながら、月明かりに照らされた畳に視線を落とす。

 膨大な重責と不安が鎌首かまくびをもたげる。すべてが間違いだったような罪悪感が、いまになって胸を蝕む。

 なにもかも投げ出して、知らないどこかへ行きたい。

 布団に横たわる、ざくろを眺める。

 俺はこいつと結婚する。

 すべてが未成熟で、結婚の意味すら知らない、近所の子。

 肉付きの少ない骨張った肢体、少し長い睫毛に僅かな女を住まわせる存在。

 香織の暴力にも耐えてきた、従順な少女。もし俺がなにをしてもざくろは決して逆らわないだろう。

 ――どろりとした、感情が湧く。

 そうだ、俺は二重人格。だったらこれは俺の意志じゃない。

 俺はざくろを買ったんだ。誰に文句を言われる筋合いはない。ざくろにも抵抗する権利はない。

 ……なんてな。

 空しい。

 すべてが。

 剣ちゃんと呼び、俺の言葉すべてを信じ、おずおずと袖を引く、甘えにもならないささやかな甘え。そこに微笑ましくなるような愛おしさは、感じている。

 だが、茜に抱いたような気持ちとは別。……どちらにせよ、もう意味はない。


 金、七百万円。

 二年後までに、俺は香織に七百万円を支払い、ざくろとの婚約届に署名をさせる。

 今日のプロポーズ立会いは、前金五十万を支払ったことによる、パフォーマンスだ。

 未成年の結婚には親の同意が必要。だが法律上は片方の親にだけ署名をもらえば結婚はできる。

 だが、それではざくろが同意しない。ざくろは香織というははおやの望まないことは、絶対に頷かない。

 ざくろのせいで父親がいなくなった――香織のげんが正しいかなんて、俺たちには未来永劫わからない。だがざくろはそれを信じ、罰として受け入れ、償うために生きている。

 母様も、近所の人たちも、児童相談所も、警察も――ざくろの説得をあきらめた。俺たちがどんなに香織のことを口汚く罵ろうと、ざくろが信じるははおや信仰めいれいを前には、無力だった。

 そして信仰が存在する限り、香織をこの世から消しても意味はない。……母様にもそう説明された。

 

 高校は中退する。割のいい仕事とはいえ、学校に行きながら二年で七百万は難しい。なにかを得るためには、なにかを切り捨てる。当然のことだ。

 後悔はない。

 ざくろのために生きる。

 今日は記念すべき、決意に満ち溢れた日。

 けれど、室内に響くのは俺の乾いた嗤い声。

 これがマリッジブルーってやつかなあ、あはは。

 ざくろの笑顔があればがんばれる、なんて言える日は本当に来るんだろうか。

 心のどこかでもう一人の自分が言っている。

 ――おい、ガキ。てめえのせいで俺の人生は台無しになったじゃねえか。

 うるせえ、そんなこと言ったって引けるわけないだろ。

 金のことしか頭にない香織は、娘を水商売に出すことさえ仄めかしている。そんなヤツにざくろを返すことだけはありえない。

 だから、俺は自分の選択に納得をしてる。

 でも、この気持ちはなんだ。

 すべてを投げ出したくなるのはなぜなんだ。

 やることは決まり切っているのに、どうして心が悲鳴を上げているのかわからない。

 どうしたらいい。

 なにを思えばいい。

 この言いようのない空しさを抱えて、どう生きていけばいいんだ……


 ――そして、一つの結論が出る。


「愚かな」

 室内が、闇に包まれる。

 月明りを遮るのは、異形。道化を模した白塗りの顔。

 落ち窪んだ目元は毒々しいまでの黒。返り血を浴びたような紅に染まった衣服、薄緑色の長い髪が顔半分を覆い、やたら骨ばった指と長い爪は死神をも思わせる。

「……ヒトの心に闇は馴染まず、抱えた時点で何時か其の決意を失う」

 地を擦るような掠れた声で、異形が言葉を紡ぐ。

「我が名はハデス。漆黒の根源――ニグリ決意アルケーを管理する者」

 言葉の向けられる先、瞳に映るのは自分の姿。

 それが二年前のこと。

 あの日、俺は呪われた。

 俺の抱えた決意を失わせようと顕現した、冥王と呼ばれる存在に。

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