43 未来の夫となるのだから


 ばさり、と天幕の入り口の布がめくれ、フェリエナは身を強張らせて振り向いた。


 入ってきたのは、甲冑かっちゅうまとったランドルフだ。


 震えながらも、主人を守ろうとするメレの手を、軽く叩いて落ち着かせ、フェリエナは簡素な椅子から立ち上がる。

 そばの椅子に腰かけていた老神父も、身構えるように背を伸ばした。


 ブルジットに正体を見抜かれた時、フェリエナは一人で捕まる気だったのだが、忠実なメレは、絶対に主人についていきますと宣言し、老神父までもが、


「一度、任されたのだから、ここで見捨てられるわけがない」

 と、結局、馬車ごとランドルフの陣営に連行されることとなった。


 狭い天幕の中に椅子だけを与えられて押し込まれ、半刻(約一時間)ほど放りっぱなしにされていたのだが。


「わたくしを捕らえて、どうしようというのですか!? これはかどわかしです! 今すぐ、解放してください!」


 フェリエナはぴんと背筋を伸ばして立つと、ランドルフが口を開くより早く、先制攻撃とばかりに言い放つ。


 みすぼらしい服を着、短剣の一本さえ持たぬ身だが、人質としていいように使われる気などない。

 ランドルフに捕らえられたせいで、アドルに迷惑をかけるなど、甘受できるはずがなかった。


 フェリエナの言葉に、ランドルフはあぶらぎった酷薄そうな顔に、わざとらしい驚きの表情を浮かべる。


「婚礼の時には、大人しい従順そうな花嫁だと思ったが、これはなかなか気が強い。かどわかしと言ったが、それは誤解だ。わたしはあなたを保護したのだよ。あの異端者の小僧から」


「アドル様は異端者などではありません! パタタは悪魔の食べ物などではありませんわ!」


 きっ、と睨みつけて言い返す。


「パタタ……? ああ、あのこの世の物とも思えぬ不格好なアレか。食べた者がおったが、腹痛を起こしたぞ。あれを悪魔の食べ物と言わずして、何と言う?」


「それは、芽をちゃんと取り除かなかったからです! パタタに限らず、食べてよい所、悪い所がある植物はありますわ! それだけで、パタタを悪魔の食べ物と言うことはできないはずです!」


「だが、その判断を下すのはわたしではないな」


 自身が異端審問官をそそのかしただろうに、ランドルフは飄々ひょうひょうとうそぶく。


「むしろ、保護してやったことを感謝してほしいくらいだ」


「保護? 夫でも身内でもない方に、保護されるいわれなどありません! 保護というのなら、今すぐわたくしをアドル様の元へ戻してください!」


 憤然と告げると、ランドルフは太い眉を片方、持ち上げた。

 酷薄な顔に浮かんだ下卑た表情に、思わずひるむ。


「なら、わたしにも保護する理由は十分にある」

 ランドルフの唇が、醜悪な笑みを刻む。


「わたしは、未来の夫となるのだから」


「な……っ!?」


 想像の埒外らちがいの言葉に、咄嗟とっさに返す言葉すら、出てこない。


 怒りのあまり、全身から血の気が引いたのを感じる。

 フェリエナは眼差しが刃になればいいと願いながら、ランドルフを睨みつけた。


「何を馬鹿なことを! わたくしの夫はアドル様です! ここにいらっしゃる神父様が、ちゃんと認めてくださいます!」


「だが」

 ランドルフの冷ややかな声が、口を開きかけた老神父の動きを封じる。


「あの若造が死ねば、新しい夫が必要だろう?」


 一瞬で、目の前が暗くなる。

 恐怖が全身を金縛かなしばりにする。激情が喉に詰まって声が出ない。


 ふらりと傾ぎそうになった身体を、足を踏みしめてこらえる。

 己を叱咤しったし、深くふかく、息を吸いこむ。


 一度、固く目を閉じ、動揺を押し込めたフェリエナは、まぶたを開け、ランドルフを射抜くように睨みつける。


「たとえアドル様に何があろうとも、わたくしがヴェルブルク領の女主人であることは変わりません! ましてや、力づくで誘拐した者を夫にするなど、天地がひっくり返ろうとありえませんわ!」


 固い決意を込め、侮蔑ぶべつもあらわに言い放つと、ランドルフの顔に朱が散った。

 酷薄な顔が怒りに醜悪しゅうあくに歪む。


「小娘め! こちらが下手したてに出てやればつけあがりおって!」


 不意に、ランドルフが一歩踏み出す。

 退こうとしたが、遅かった。


 力任せに腕を掴まれ、痛みに思わず出かけた声を、唇を噛んでこらえる。

 こんな下劣で粗野な男などに、自分もヴェルブルク領も、好きにさせたりなどしない。


 フェリエナの腕をひねりあげようとするランドルフに、身をよじって逆らう。


「あなたのような者に、ヴェルブルク領を好きにさせるものですか! わたくしを手籠てごめにしても無駄です! ヴェルブルク領を継ぐのは、お腹にいるアドル様の子なのですから!」


 真っ赤も真っ赤、真紅の大嘘だ。

 フェリエナとアドルは、たった一度の夜すら、ともに過ごしていないのだから。


 だが、そんなことをランドルフが知るはずがない。

 少しでもランドルフへの抑止力になるのならと告げた瞬間。



 ランドルフの甲冑に包まれた膝が、フェリエナの下腹部にめり込んだ。



 かはっ、と喉から呼気が洩れ、痛みのあまり、地面にくずおれる。

 が、腕を掴んだままのランドルフの手が、それを許さない。


 メレの悲鳴と、「なんてことを!」と叫ぶ老神父の声が、妙に遠く聞こえる。


 何をされたのか、とっさに理解できない。

 ただただ、下腹部に灼熱しゃくねつの痛みがある。


「ああ、足を滑らせてしまった」


 わざとらしく肩をすくめ、ランドルフが唇を歪める。


「だが、これで邪魔な赤子は流れただろう?」


 他者の痛みを何とも思わぬ冷え冷えとした声に、背筋が凍る。


 ようやく腕が放されたかと思うと、髪覆いごと、荒々しく髪を掴まれた。

 ぶちぶちと髪が抜けたが、腹部の痛みの前では、何ほどでもない。


 髪を掴んで無理矢理上げさせたフェリエナの面輪に、ランドルフが己の顔を近づける。


 その目に浮かぶ無慈悲な光に、反らした喉が、恐怖にひくりと震えた。

 あらがわねばと思うのに、痛みと恐怖で身体が動かない。


「うるさい目付け役がいるからな。今日はここまでにしておいてやろう」


 フェリエナの目に浮かぶ恐怖を楽しむように、ランドルフが舌なめずりをする。


「明日は、若造の生首の前で、お前の主人が誰か教えてやる。楽しみにしておけ」


 フェリエナの髪を放し、籠手こてにまとわりついた髪をうっとうしそうに振り払ったランドルフが、耳障りな笑い声を残して、天幕を出て行く。


「フェリエナ様! 大丈夫ですか!?」


 ランドルフが出た途端、金縛りが解けたように、メレがフェリエナに取りすがる。


「なんと残酷な……。その、お身体は……?」


 温和な顔をしかめて問うた老神父に、フェリエナは「大丈夫です」と小声で答える。

 そもそも子どもがいなかったのだから、流産の心配もないのだが、きっと、腹部にはひどいあざができているだろう。


 フェリエナは恐怖に身を震わせる。


 暴力を振るわれた衝撃よりも、ランドルフが腹に赤子がいる女に、躊躇ためらいなく暴力を振るう男であることが、恐ろしい。

 そんな男の妻にさせられるなど、生きながら地獄に落ちるようなものだろう。


 たとえ、身体を征服されたとしても、心まで支配される気はない。

 だが、あんな男の前で、いつまで矜持きょうじが保てるのか。


 決して夜の闇のせいだけでなく、絶望に視界が暗くよどんでいくのを感じながら、フェリエナは心の中で、一心に愛しい人の名を呼び続けた。

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