42 傷だらけの手をかざし


 馬車の小さな窓からは、木々の向こうへ沈みゆく夕陽が差し込んでいた。


 血を連想させるような不吉な赤光しゃっこうが、フェリエナの不安を嫌でもかき立てる。

 アドル達はもう出陣しているのだろうか。ランドルフの軍は、どこまで進んでいるのだろう。


 アドル達とはほぼ真逆の道を進むフェリエナには、何も情報はない。


「大丈夫、と不確かな慰めは言えませんが、領主様に神の御加護があることを祈りましょう」


 不安そうなフェリエナの表情を読んだのか、老神父が穏やかに話しかけてくれる。


「はい」

 と頷き、フェリエナは両手を組んでアドルの無事を祈る。隣に座るメレも、主人にならって祈りの言葉を呟いた。


 馬車に乗っているのは、御者台にいる教会の下男を除くと、フェリエナとメレ、向かいに座る老神父の三人だけだ。


 フェリエナもメレも粗末なドレスと髪覆いを着て、一見、村娘にしか見えない格好をしている。二人とも、普段から質素な服で農作業をしているため、着慣れたものだ。

 きらびやかなドレスを着ていては、狙ってくれと大声で叫んでいるに等しい。

 ネーデルラントに帰るための最低限の荷物と旅費は、座席の下に押し込んで隠している。


 近づいてくる馬蹄ばていの響きが聞こえた気がして、フェリエナは身を強張らせた。


 素早く立ち上がったメレが、小さな窓から外をうかがうのと、


「そこの馬車! 止まれ!」

 と命じる男の声が響いたのが同時だった。


 車輪をきしませて、ゆっくりと馬車が停まる。


「我々は罪人を追っている者だ! 馬車の中をあらため――」


「いったい、何の騒ぎですかな?」


 居丈高いたけだかな男の声が言い終らぬうちに、席を立った老神父が馬車の扉を開ける。

 扉の前にいたのは、よろいまとった二人の騎兵だった。


「これは神父様……」


 予想外だったのだろう。顔を見せた神父に、男が驚いたように言葉を途切れさせる。


「罪人とは穏やかではない。何があったのですかな? 見たところ、ヴェルブルク領の騎士ではないようだが」


 騎士におびえるふりをしてメレと身を寄せ合いながら、フェリエナはそっと騎兵達をうかがった。


 ヴェルブルク領の騎士が、この馬車を追ってくるはずがない。

 ランドルフ領の騎士に違いないと推測していたが。


(違う……。あの紋章は、ブルジット領の……)


 ブルジットがランドルフと手を組んだのかと、不安が黒雲のように胸に湧き起こる。

 ブルジットまで相手取るとなれば、ヴェルブルク領内の騎士達だけで、対抗できるのだろうか。


 神父の問いに、騎兵の一人が、咳払いして体勢を立て直す。


「おっしゃる通り、わたしはブルジット領の騎士です。異端者が逃げ出そうとしているらしいという報を受けまして、行方を追っているのです」


 口調だけは丁寧に告げた騎士が、


「この二人は?」

 と、座席の隅で身を寄せ合っているフェリエナ達に、刺すような視線を向ける。


 老神父がゆったりと頷いた。


「ああ、教会の近くに住んでいる娘達ですよ。姉がヴェルブルク領に嫁いでおりましてね、お産の手伝いに来ておりましたが、無事生まれまして……。わたしはわたしで、終油しゅうゆ秘蹟ひせきを授けるためにこちらに来ていたのですが、たまたま行き会いまして。もう夕暮れ近いのに若い娘二人では危ないと思って、乗せていたのです」


 あらかじめ三人で打ち合わせしていた通りの内容を神父が話す。


「そうですか。ですが、こちらも務めですので。おい女! 馬車の外へ下りてこい!」


 老神父に堅苦しく頷いた騎士が命じる。


 一瞬、正体がばれたのかと身を強張らせたのだが、そうだとしたら直ちに捕らえられているはずだ。

 ブルジット領でフェリエナの顔を知っている者は、まずいない。


「お待ちください。この娘達の素性はしっかりしています。何より、あなた達が探しているのは罪人なのでしょう? この純朴そうな娘が罪人だとでも?」


 責めるような老神父の声に、騎士達が顔を見合わせる。

 単なる村人ならともかく、神父相手に無理強いは、後々問題になりかねないと思ったのだろう。


 片方の騎士が「その……」と口を開く。


「説明に間違いがありました。我々が探しているのは、領主夫人です。夫である領主が異端者として告発されまして……。我々は領主夫人を保護するべく、探しているのです」


 騎士の物言いに、思わず反論したくなる。

 パタタを持ち込んだのはフェリエナだというのに、その罪をアドルに着せるなど……。


 だが、同時に、そうまでしてアドル一人に罪を着せて、フェリエナを手に入れたいのだと、ランドルフの執着に恐怖を感じずにはいられない。


 だが、今フェリエナがすることは恐怖に震えることではない。


「あらまあ、すごいじゃないの」


 「下りてこい」と催促する騎士に、素直に従いながら、フェリエナは頓狂とんきょうな声を上げる。


「あたし達が領主夫人ですって! 見間違いだとしてもすごいじゃないの! 帰ったら自慢できるわよ」


「馬鹿言っているんじゃないわよ。あたし達みたいなみすぼらしいのを、騎士様達が間違えるわけがないでしょ」


 メレがわざとはすっぱな口調で返す。


 騎士達は、明かりの無い馬車から下りてきた娘達が明らかに質素な服を着ているのに、落胆したようだった。

 それでも、何かおかしい所はないだろうかと、品定めでもするようにフェリエナ達を見回す。


「村娘にしちゃあ、ずいぶん美人な姉妹じゃないか」


 かまかけのつもりなのか、単に好色なのか、にやにや笑いながら、騎士がフェリエナ達の顔をのぞき込む。

 メレがフェリエナを振り返って、肩をすくめた。


「こりゃあ、あんたの言う通りだわ。帰ったら、騎士様に美人だって褒められたって、自慢しなきゃ」


「でしょう? ああ、こんな手じゃなけりゃあ、領主夫人に間違われて、綺麗なドレスを着せてもらえたかしら……」


 フェリエナは暮れゆく夕陽に両手をかざす。

 今まで、自分からは決して好んで見せようとしなかった、傷だらけの手。

 しかし、これで疑いが晴れるなら、何を隠す必要があるだろう。


 フェリエナの手を見た騎士が、明らかに落胆した。


「おい。そっちの娘も手を見せてみろ」


 言われたメレも手を出すが、侍女として働き、フェリエナと一緒に農作業を行うメレの手も、傷だらけのフェリエナの手ほどではないとはいえ、明らかに貴族の手ではない。


「ちっ。馬車を見て追いかけてきたっていうのに、とんだ無駄足だ」

「領主夫人がこんな手をしているわけがないからな」


 吐き捨てるように言われた言葉に、内心で安堵あんどの息をつく。

 が、顔はあくまで残念そうな表情を崩さない。


「神父様。お引きとめして……」


 騎士が言いかけた時、道の向こうから、ひづめの音が響いてきた。

 思わずそちらを振り返ったフェリエナの顔が、凍りつく。


 同時に、馬上のブルジットも気づいたらしい。


「その女を捕らえろ! そいつが領主夫人だ!」


 逃げられぬとしりつつ、フェリエナは身を翻した。

 メレが主人を逃がそうと、騎士達との間に身を投げ出す。


 だが、数歩も行かぬ内に、フェリエナは籠手こてまとった手に、乱暴に腕を掴まれた。

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