44 決戦を前に


 馬上の鎧兜よろいかぶとが八月の朝の光を鈍く跳ね返している。


 ヴェルブルク領の領主が代々受け継ぐ金属製の全身鎧を身に着け、アドルは馬上の人となっていた。


 飾りや彫りのない、ただただ武骨な実用性一点張りの鎧。だが、アドルにはそれで十分だ。

 左手に手綱を、右手に朝日を鋭く跳ね返す穂先の長槍を持ち、アドルは目の前のランドルフとブルジットの連合軍を睨み据えた。


 未墾の森林が多いヴァンブルク領で、小規模とはいえ会戦できる開けた土地など、無いに等しい。そんな土地があれば、とうに畑になっている。


 今、アドル達が敵軍と向かい合っているのも、収穫を終えた麦畑だった。


 双方とも軍の八割がたは手弁当で武装を整えた農民兵だ。アドルと同じように、ランドルフも収穫期を終え、わずかに手が空いた農民達を引き連れてきたのだろう。

 向こうの歩兵達は明らかに血色が悪く、ふらついている者達もいる。ランドルフの苛烈な搾取が目に見えるようだった。


 それはそのまま、万が一、アドルがランドルフに負けた時、ヴェルブルク領の民に降りかかる不幸でもある。


 パタタのおかげでようやく飢えから解放されつつある領民達を、もう二度と苦しめたくはない。


 ネーデルラントに逃がしたフェリエナを呼び戻すためだけでなく、領民達のためにも、この戦いは決して負けるわけにいかない。


 アドルは手綱から離した左手をそっと胸元に当て、短く神への祈りを唱える。金属鎧の下に首から下げているのは、フェリエナに託された宝石箱に入っていた十字架だ。


「わたくしが不在の間、アドル様が朝夕のお祈りを捧げる時に、わたくしのことも思い出していただけたらと……」


 恥じらいに頬を染めながら、十字架を手ずからアドルの首にかけてくれたフェリエナの姿が甦る。


 それだけで、今すぐ馬を駆ってフェリエナが待つネーデルラントへ駆けてゆきたくなる。


 ひとつかぶりを振って、アドルは炎のように燃え広がりそうになる望みを、胸の奥へ追いやった。


 今はまだ、その時ではない。

 まずは、目の前の戦いに集中しなければ。


 そして、ランドルフ軍を追いやったあかつきには、すぐに。


「待っていてください、フェリエナ」

 低く呟き、アドルはランドルフ軍に視線を戻す。


 軍の八割がたを占める農民兵の後ろに控えているのはランドルフ、ブルジット合わせて十数騎の騎兵達だ。


 騎兵といってもアドルのように金属製の全身鎧を着ているものはほぼいない。領主であるランドルフとブルジット、そして狡猾なランドルフらしく、後方に位置するランドルフに代わって軍の指揮を託された騎士だけだ。


 他の騎士達は、固くなめした皮で作られた皮鎧を中心に、部分的に金属を使った鎧を身に着けている。

 加えて、歩兵と騎兵との間には、十人程度の弓兵の姿も見える。おそらく狩人達を連れてきたのだろう。


 すべての兵を足し合わせると、ランドルフ側の兵は、ブルジットの援軍も含めて二百ほど。対するアドルの側は、百五十を少し超えたくらいだ。


 だが、突然、理不尽な侵攻を受けたヴェルブルク側の士気は高い。


「皆……。すまんが、わたしがランドルフと決着をつけてくるまで耐えてくれ。ランドルフ軍の士気は低い。ランドルフさえ倒せば、砂の城のように瓦解するだろう」


 アドルは前線に並んで立つ領民達に声をかける。


 叶うなら、戦争などに大切な領民達を駆り出したくなかった。

 だが、彼ら歩兵が敵の歩兵を食い止めてくれねば、アドル達騎兵が自由に動けない。


 少しでも領民達の被害を軽く済ませるには、敵将のランドルフを早急に討ち取り、敵の士気をくじくしかない。


 だが、卑怯者のランドルフは自ら前線に出てくるまい。


 アドルは厳しいまなざしで、ブリジットと並んで敵陣の奥に張られた陣幕の前に他の騎兵達と離れて馬をとめるランドルフを睨みつける。


 何か策でもあるのか、それともヴェルブルク領を手に入れた後のことを夢想しているのか、兜の面頬めんぼうを上げ、にやついた顔をこちらに向けているランドルフは、金属の全身鎧を着ているにもかかわらず、指揮は他の騎士に任せて戦いにはすぐ加わらぬ様子だ。


「下劣な卑怯者めが……っ。すぐに引きずり出してやるぞ」


「お任せくだせえ、領主様! あんな枯れ枝みたいな奴等にやられる俺達じゃあありませんや!」


 アドルの呟きを聞いたそばの領民の一人が、大きな声を上げる。


「そうでさぁ! ここは俺らの村だ。そこへずかずかと入り込んだ泥棒どもなんざ、返り討ちにしてやりますよ!」


 「なあ、みんな!」と上げた声に、周りの領民達が口々に応える。


「おうっ! ご領主様、こっちはおいら達にお任せくだせぇ!」


「ここで踏ん張らなきゃ俺達のかかぁや子ども達だって大変な目に遭うんだ! 決して退いたりしませんぜ!」


「あのお優しい奥方様が持ってこられたパタタを悪魔の食べ物というなんて! そんな輩は俺達がぶちのめしてやりまさあ!」


 そう告げたのは、以前、城でパタタを振舞った時に、尻込みしてなかなか食べなかった男だ。だが今や、すっかりフェリエナに心酔しているらしい。


 そうだそうだ、と周りの男達も大きく頷く。


「ご領主様にも奥方様にも、俺達は返せねぇほどの恩があるんです。俺達が踏ん張ることでその御恩が返せるなら、死にもの狂いで戦いますよ!」


「お前達……っ」


 胸が熱くなり、喉が詰まる。

 彼らの声に応えて鼓舞せねばと思うのに、うまく言葉が出てこない。と、


「アドル様」

 ギズがアドルの横に馬を進め、耳打ちする。


「俗物が聞くにえない口上を叫んでおりますよ」


「悪魔の食べ物を領民に広め、無辜むこの民を罪に落とそうとする悪魔の手先め! このランドルフが、神に代わってお前に罪をあがなわせてやろう! 少しでも信仰心が残っているのなら、己の罪を恥じて、わたしの前にひざまずくがいい!」


 兜の面頬めんぼうを上げたランドルフが、鶴翼に広がった陣形の後ろで、手を振り回しながら叫んでいる。

 遠目にもわかる大きな動きであり、自分に酔っているように演技がかっていた。


「異端審問官へこびを売っているのか、はたまた示威か? これ見よがしに芝居がかった奴だ」


 アドルが吐き捨てるように呟く。


「もしかすると演技などではなく、本心でそう思っているのかもしれませんよ」

「だとしたら余計にたちが悪いな」


 もちろん、アドルの側に同意する者など、一人もいない。


「ギズ、弓はないか?」

 押し殺したように低い声で問うと、ギズが器用に肩をすくめた。


「あいにくと置いてまいりました。獣相手とわかっていれば、用意したのですが」


 騎士の名誉さえ気にしなくてよいのなら、今すぐあの顔のど真ん中を射抜いてやるものを。


 このような俗物にヴェルブルク領を狙われたことが――いや、ほんのわずかな期間であろうと、フェリエナと引き離されたことが、何より業腹だ。


 と、ランドルフが大仰な仕草で後ろ、陣形と天幕の間を振り返る。


 勝ち誇った醜悪な笑みを浮かべた先は。


「現に、奥方は罪の深さにおののいて、自らわたしに保護を求めてきたぞ!」


 まるで、罪人のようにほどかれたままの髪を揺らし、兵の一人に引き出されたのは――。


「っ!」

 アドルの声にならぬ怒りが、喉を震わせる。


「奥方様……っ」


 領民のひとりが、信じられないものを見たかのように呟いた悲痛な声が、白い布に落ちたインクのように、農民達の間に広がっていく。


 「何故」も、「どうして」も思い浮かばない。


 ただ、決してけがされてはならぬものを踏みにじられた怒りが、思考を紅蓮ぐれんく。


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