39 不器用で、愛しい人


「奥方様」


 優しく、穏やかな呼びかけとともに、そっと温かな両手に手を包まれる。

 ぼんやりと視線を上げたフェリエナは、老神父の慈しみに満ちた顔を見た途端、しわだらけの手を握り返していた。


「神父様っ! わたくしでしたら大丈夫です! ですから、どうか! どうかアドル様の異端の疑いを晴らしてくださいませっ!」


 突然、身を乗り出したフェリエナに、老神父は驚いたように目を見開く。

 かと思うと、温厚そうな顔に柔和な笑みを浮かべ。


「今も昔も、自分のことより、人の身を心配する優しいところは変わっていないのだね。テレジアが、手紙に書いていた通りだ」


「……え?」


 神父の言葉に、思わずほうけた声が洩れる。


 テレジア院長。それは、フェリエナが育った――かつて、盗賊の襲撃を受けた修道院の院長の名だ。

 フェリエナに、手ずから薬草の知識を授けてくれた人でもある。


 老神父は、年に似合わぬ悪戯いたずらっ子のような顔になる。


「テレジアとは旧知の仲でね。よく手紙のやりとりをしているんだよ。ヴェルブルク領の若領主が、わざわざネーデルラントから令嬢をめとったと、君の名を伝えたところ、すぐさま返事があってね。孫娘のように大切に思っている君を、どうぞよろしく、と」


「院長様は!? 院長様はお元気でいらっしゃいますかっ!?」


 実家に連れ戻されたフェリエナは、修道院と手紙のやりとりをするのを禁じられた。

 父としては、娘の血塗られた過去など、封じてしまいたかったのだろう。結果的に、人の口に戸は立てられなかったのだが。


 フェリエナの問いに、老神父は柔和な笑顔に戻って頷く。


「ああ、元気だよ。あちらも年だがねえ、まだまだ若い者だけに薬草畑の手入れは任せられないと」

 安心させるように、穏やかな声音で老神父が話す。


「あえて、恐ろしい記憶を呼び起こすこともあるまいと、院長と手紙を交わしているのは話さないようにしていたんだが……」


 老神父は、フェリエナの両手を優しく包み込むと、心をほぐさずにはいられない優しい笑顔を浮かべる。


「もし機会があったら貴女に伝えてほしいと、院長に頼まれた言葉があるんだよ」


 老神父の眼差しが、真っ直ぐにフェリエナを貫く。


「『いつでも、貴女の幸せを神に祈っている。そして、貴女を誇りに思っている』と」


 告げられた瞬間、目頭が熱くなる。


 思い出すのは、静謐せいひつな修道院の院長室。

 突然、家へ戻ってくるようにと、有無を言わさず命じる父からの手紙に、十三歳のフェリエナは、帰りたくないと院長に泣きついた。


 フェリエナとて、父の命に逆らえぬことは知っていた。けれど、今さら、貴族の仲間入りをしようとしたところで、修道院育ちの、しかも貴族の娘にふさわしくない手を持つ自分が、決して受け入れられぬだろうことも。


 無理と知りつつ、どうかこのまま修道院へ置いてくださいと泣きじゃくるフェリエナの髪を撫でながら、テレジア院長は穏やかにさとしてくれた。


 家へ帰ることは、神のお導きに他ならない。きっといつか、修道院でつちかった経験が役立つ機会に出逢えるはずだからと。


 傷だらけのフェリエナの手を、愛おしげにしわだらけの両手で包み、院長は何度も何度も言ってくれた。


「私はこの手が大好きよ、フェリエナ。だって、この手は貴女の勇気と優しさの証だもの」


 実家に戻り、父に渋い顔をされても、兄の援助を得て植物を育て続けていたのも、『修道女殺し』とさげすまれながら、顔を上げていられたのも。

 すべて、院長の言葉があったからだ。


 だから、アドルからヴェルブルク領の窮状きゅうじょうを聞いた時、今こそが、院長が言っていた「その時」なのだと、確信した。

 フェリエナがテレジア院長の下で育ったことが間違いではないと、証明する時なのだと。


 けれど……。


「でもっ、でもっ、わたくしのせいで、アドル様が……っ!」


 フェリエナがヴェルブルク領へ来なければ、今回の戦争は起こらなかった。

 少なくとも、パタタを育てなければ、アドルが異端者の告発をされることはなかったはずだ。


 神父が赤ん坊をあやすように、しわだらけの手で、ぽんぽんとフェリエナの手を叩く。


「確かに、今回は悪いことを呼びよせたかもしれない。けれど、パタタが悪い物でないのなら、この試練を乗り越えれば、きっと正しい未来が開けるだろう。貴女を送り届けたら、わたしもすぐ、領主様の告発を取り下げさせるべく、動こう」


「わたくしでしたら、神父様の御手を借りずとも大丈夫です! ですから、すぐにアドル様の……っ」


「それはできない」

 神父が、きっぱりとかぶりを振る。


「領主様との約束を破ることはできないよ。聖職者であるわたしと一緒ならば、もし何かあっても、手荒い真似はされぬだろうと……。領主様なりに、貴女を守ろうとしているのだから」


 老神父の言葉に、弾かれたように顔を上げる。

 慈愛に満ちた老神父の優しい眼差しが、包み込むようにフェリエナを見つめていた。


「領主様の不器用な優しさは、妻である貴女が、誰よりもご存知でしょう?」


 先ほどのアドルとのやりとりを思い出す。


 冷ややかにフェリエナに別れを告げたアドルの瞳の奥に――己の身を斬り刻むような苦悩が隠れていたと思うのは、フェリエナの自惚うぬぼれだろうか?


「神父様……」


 己の願望が見せた、幻かもしれない。

 尋ねる声が、不安に震える。


「わたくしは……。まだ、アドル様の妻でいて、よいのでしょうか……?」


「おや?」

 老神父が白髪交じりの眉をおどけるように片方上げる。


「四カ月前、神の御前で二人を夫婦だと認めたのは、このわたしだと思うんだがねえ。もう、ぼけ始めてしまったかな?」


「とんでもありませんっ!」

 ぶんぶんと、千切れそうなほど首を横に振る。


 脳裏に甦るのは、婚礼の夜。

 今ならわかる。「寝室を共にしない」と告げた時から――あの時から、アドルはずっと、フェリエナを大切に守ろうとしてくれている。


 方法が稚拙ちせつで、時にフェリエナの望みと真逆であろうとも。ずっと、己の気持ちを押し隠してでも。


 なんと不器用で……なんと愛しい人なのだろう。


「神父様っ! わたくし、するべきことをしましたら、すぐに出発いたします! わたくしを送り届けぬ限り、神父様は次の行動へ移れないのでしょう?」


「ようやく、いつもの奥方様らしくなられましたね。では、わたしは馬車で待っていましょう」


 よっこらしょ、と腰を上げようとする老神父に手を貸す。


「ええ。さほどお待たせいたしません。するべきことは、わかっておりますから」


 一方的に決別を言い渡されて、大人しく引き下がったりなど、しない。

 あの不器用な愛しい人のために、フェリエナができることは、まだあるはずだ。


 フェリエナはドレスのすそをからげて、部屋を飛び出した。

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