38 すべては、彼女がいるせいで


「――え?」


 言葉が刃と化したように、フェリエナを貫く。

 思考が途切れ、かすれ声だけが洩れる。 


 フェリエナから視線を外したアドルが、老神父を振り向いた。


「神父様。お願いがございます。フェリエナをネーデルラントへ返すため、ヴェルブルク領の端まででかまいませんから、彼女を神父様の馬車で送っていただけませんか?」


「待っ……待ってくださいっ!」

 我に返って、アドルの袖を引く。


「お別れとは、どういうことですか!? なぜネーデルラントに戻る必要があるのです!? わたくしも、この城に留まります!」


 女の身のフェリエナが、アドルとくつわを並べて戦うことはできない。

 しかし、領主の妻として、できることはいくらでもあるはずだ。


 だが、アドルの返事はにべもない。


「いいえ。貴女をこの城に置いておくことはできません。貴女には、一刻も早くネーデルラントに帰っていただきます」


 いわおのような硬い声。

 フェリエナの意思を無視した台詞に、かっ、と頭の奥で火花がぜる。


「承知できませんっ!」


 強く、白く骨が浮き出るほど、アドルの服を握りしめる。


「わたくしはあなたの妻です! 夫が戦に赴くというのに、妻であるわたくしだけが逃げるなんて、そんなことできませんっ!」


 先ほど、アドルが本当の妻だと認めてくれたのは、幻だったのだろうか。

 たとえ、フェリエナの身を案じた処置だとしても、決して納得などできない。


「嫌です! わたくしは絶対に――」


「――貴女を」


 鋭い刃のような声が、フェリエナの抗弁を封じる。

 感情のうかがえない群青の瞳で、無慈悲なほど冷ややかにアドルが告げる。


「ここに置いておけないのは、ランドルフの狙いが貴女だからです」


 むち打たれたように空気が緊張する。


「ランドルフの狙いは、わたしを異端者として殺し、貴女を後妻としてめとることで、ヴェルブルク領と、貴女の高額な持参金の両方を手に入れることです。争いの火種となっている貴女を、この城に置いておくことはできません」


 冷ややかな声音が、淡々と事実を述べる言葉が、見えない刃となってフェリエナを斬り刻む。

 アドルが異端者として告発されたのも、長閑のどかなヴェルブルク領が戦場となるのも。


 すべて、フェリエナがいるせいだというのか。


 いつの間にか、指の間からアドルの袖がすり抜けていた。

 ぺたん、と床にくずおれる。


 アドルの手がフェリエナに伸ばされかけ――途中で、ぎゅっと握り込まれた。


「ギズ。メレに旅支度をするように伝えろ。その後はすぐに戦の準備だ。むざむざ攻め入られるのを待つ気はない! 準備ができ次第、こちらからも打って出る!」


「かしこまりました。ただちに!」


 一礼したギズが、フェリエナに気遣うような視線を向けた後、背を向けて部屋から駆け出していく。


「アド――」

「エディス。きみは?」


 口を開こうとしたエディスの先手を打つように、アドルが尋ねる。

 エディスは躊躇ためらうようにフェリエナに視線を向けてから、振り払うようにアドルを振り向いた。


「俺は一度、フェルシュタイン領に戻る。ランドルフの暴挙を見逃せば、次に狙われるのはうちの領かもしれないからな。親父殿に進言して、援軍を率いてこよう」


「助かる。お父上によろしく伝えてくれ。この恩義は、いつか必ず返しますと」


「承知した」

 まだ何か言いたげなエディスの腕を引いて、アドルが部屋を出て行く。


「神父様。……フェリエナをよろしくお願い申し上げます」


 丁寧に頭を下げたアドルの群青の瞳は……一度もフェリエナを振り向かなかった。


 ◇ ◇ ◇


「アドル! 本当にいいのか!? フェリエナ様にあんな言葉を……っ」


 部屋の扉が閉まるなり、みつくように尋ねるエディスを見もせず、アドルは低い声で返す。


「ああでも言わねば、フェリエナはヴェルブルク領を離れないだろう?」


「だからって……っ! もっと他に言いようがあっただろう!? フェリエナ様を傷つける必要など……っ!」


 エディスを振り向こうとしないアドルにごうを煮やしたのか、エディスの手がアドルの襟首えりくびに伸びてくる。

 アドルはその手を乱暴に振り払った。


「では、死ぬかもしれぬわたしを待っていろと!? 生きて帰れぬかもしれぬのに、期待だけを持たせて……っ!?」


 アドルが待っていてくれと告げたら、きっとフェリエナは待っていてくれる。

 確かめずとも、確信できる。


 同時に――たとえ寡婦かふとなったとしても、アドルに心を残すだろうと、自惚うぬぼれではなく、わかる。

 過去の傷さえも、痛みを持ったまま抱き締める。フェリエナはそんな女性ひとだ。


 だから、傷つけた。


「……前の夫に心を残すようなことがあっては、さわるだろう?」


 もし、自分の手でフェリエナを幸せにすることが叶わぬのならば。


 他の誰でもいい。

 どうか、彼女の笑顔を守ってほしいと、心から願う。


 フェリエナの隣にいるのが、アドル自身でなくとも、構わないから。


 不意に、隣から大きな大きな溜息が聞こえる。


「ほんっ、と、お前は昔から……」


 アドルの肩に手をかけたエディスが、あきれ混じりの、だが優しい苦笑をこぼす。


「どうしようもなく不器用で、大馬鹿野郎だよ」


 言葉と同時に、後頭部を小突かれた。


「死ぬかもしれないなんて余計な心配なんか、している暇はないだろう? フェリエナ様のためにも、一刻も早くランドルフを退けるぞ」


「もちろんだ」

 ようやく、口の端に薄く笑みが浮かぶ。


 アドルとエディスは、握ったお互いのこぶしをとん、と突き合わせた。

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