37 裁かれるべきは


「何だと!?」

 一瞬にして、アドルの顔が険しくなる。


「すぐに行く!」


「い、いくさが始まるのですか……?」


 心配と恐怖のあまり、震えが止まらない。

 不安を隠せず見上げると、アドルが安心させるように優しく微笑んだ。


「貴女が心配することは何もありません。――何があろうと、貴女には指一本ふれさせたりしません」


 群青の瞳に固い決意をきらめかせて告げたアドルが、柔らかく微笑んで額にくちづける。


「わたしは先に出ています。貴女はお部屋で……」

「嫌です! わたくしも一緒に話を聞かせてくださいませ!」


 ここで怖気づいて引くなんて嫌だ。妻としての使命感が恐怖を上回る。

 アドルの腕に取りすがると、アドルが諦めたように吐息した。


「……わかりました。おそらく、貴女にも関わりのある話でしょうから。ただし……」


 アドルの目が険しくなる。


「髪と服を整えてからです! 貴女のそんな姿を他の者に見せるなど、我慢なりません!」


 ◇ ◇ ◇


 髪覆いの中にほつれ毛を押し込みながら、フェリエナは急いで階段を下りた。駆け込んだ先は、一階の広間だ。

 ろくに家具もないがらんとした部屋にいたのは、アドルとエディスとギズ、そして婚礼の時の老神父だった。


 ヴェルブルク城へ馬車で向かっていた老神父を見つけたエディスが、馬に乗せてきたらしい。

 慣れぬ馬に乗せられた老神父は息も絶え絶えだ。


 だが、そこまで急いでアドルへ知らせに来たということは……。


 フェリエナの中で、不安が嵐の前の黒雲のように、どんどん大きくなっていく。


「エディス! 本当なのか? ランドルフが挙兵したというのは? しかし、一体どんな大義名分を掲げて……?」


 戦争を仕掛けるにしても、周辺諸侯を納得させるだけの理由が必要だ。

 たとえそれが建前にすぎないとしても。


 理由もなく兵を挙げれば、他領に介入の口実を与えることになり、逆に己を窮地きゅうちに追い込む羽目になる。


 結婚式の時に一触即発になったものの、その後、アドルとランドルフの間でめ事があったという話は聞いていない。

 どちらも干渉しない。そういう状態だったはずだ。


 それが、急に何故?


 アドルの問いに、エディスが苦い表情で老神父を振り返った。しかし、老いた神父は息を整えるのに必死で、まだ話せる余裕はなさそうだ。


 仕方なさそうに吐息したエディスが、痛みのこもった眼差しをアドルとフェリエナに向ける。


「ランドルフが掲げている大義名分は……。ヴェルブルク領の領主は、悪魔の食べ物を無垢な領民に広めていると。ランドルフの奴、異端審問官まで引っ張り出してきやがった」


 エディスが乱暴な口調で吐き捨てた内容に、空気が凍りつく。


「そ、そんな……っ」


 衝撃に、フェリエナの視界が揺れる。

 ふらふらとエディスの前へ出たフェリエナは、両手でエディスの服を掴んでいた。


「パタタを持ち込んだのも、育てたのもわたくしです! アドル様ではありません! どうぞ、わたくしを異端審問官に突き出してくださいっ!」


「フェリエナ!」

 アドルがフェリエナの肩を掴んだが、振り返りもしない。


「アドル様に罪はございません! 異端者として裁かれるべきはわたくしです!」


 異端審問官の恐ろしさは聞いたことがある。

 異端者は拷問を受け、場合によっては、生きながら火炙ひあぶりにされるのだと。


 アドルがそんな目に遭うなんて、想像しただけで気が狂いそうだ。


「フェリエナ!」


 エディスの腕を掴んで訴えるフェリエナを無理矢理引きはがしたアドルが、力づくで自分の方へ向き直らせる。


「貴女を異端審問官に引き渡すなど、できるわけがない! わたしなら大丈夫です!」


「大丈夫だなんて信じられません!」

 激しくかぶりを振って抗弁する。


「落ち着いてください、奥方様」

 割って入ったのは老神父だ。


「パタタという異国の珍しい作物を育てているという話は、領主様から聞いています。パタタを育て、広めているのは、紛れもない事実。ですが、パタタは決して、ランドルフ伯爵が言うような、悪い食べ物ではないのでしょう?」


 さとすような声音に、フェリエナは無我夢中で何度も頷く。


「神父様のおっしゃる通りです! パタタは決して、悪魔の食べ物などではありません! どうぞ、神父様から異端審問官殿にお伝えくださいませ!」


 希望を込めて老神父を見たが、アドルが首を横に振る。


「いや。神父様が説明してくださったとしても、無駄だろう。わたしを異端者として訴えることは、戦争の口実にすぎない。ランドルフの狙いは、その先の、もっと別の場所にある」


 アドルが、エディスに視線を向ける。


「お前を異端者と訴えたということは……。間違いないだろうな」

 エディスが嫌悪に顔を歪ませて頷いた。


「神父様が動いてくださっても、ランドルフは戦争をやめたりしないだろう。むしろ、戦わなければ、武力と教会の権威を笠に身柄を拘束され――確実に、殺される」


 淡々と断言したアドルの言葉に、息を飲む。

 恐怖に震えながらアドルを見上げると、群青の瞳にぶつかった。


 申し訳なさそうな、気遣うような、愛おしむような……痛みをはらんだ眼差まなざし。


 そっと肩を引かれ、フェリエナは真っ直ぐアドルと向かい合う。


「アドル様……?」


 何だろう。今まで感じたことのない悪寒が、全身を駆け巡る。

 アドルが、小さく微笑む。いつものとろけるような笑顔ではない。


 様々な感情が入り混じりすぎて、逆に透明な表情で、アドルが告げる。


「貴女とはここでお別れです、フェリエナ」

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