36 思い違いをしていたと、自惚れてもいいですか?


 群青の瞳の中で、苛烈かれつな怒りが溶岩のように煮えたぎっている。


「も、申し訳……」


 震えの止まらぬ声で詫びようとした瞬間。

 息が止まるほど、強く抱き締められる。


「ア、アドル様!?」


「貴女がいわれの無い誹謗ひぼうを受けている時、そばにいられなかったことに、気が狂いそうです! 貴女の名誉を守るためならば、誰が相手であろうと、喜んで剣を振るったものを!」


「え……?」

 思いもかけない言葉を告げられ、思考が止まる。


「不名誉な噂を黙っていたわたくしに、怒ってらっしゃるのでは……?」


「そのようなことっ!」

 アドルがフェリエナの肩を掴んで引きはがす。


「貴女も賊の被害者ではなりませんか! まだ幼かったにもかかわらず、貴女は自分のなすべきことを十分以上に果たしました! 貴女が巡回騎士達を連れて戻らねば、修道院の者達は、きっともっと酷い目に遭っていたに違いありません!」


 アドルが力強い声音で断言する。


「わたしはシスター・マルナではありません。ですが……」


 群青の瞳が、真っ直ぐにフェリエナを見つめる。


「彼女の気持ちを想像することはできます。シスター・マルナは、決して貴女を恨んだりなどしていません。むしろ、貴女の無事を喜び、助かった貴女が人を思いやる心を持った素晴らしい淑女に成長されたことを喜んでらっしゃるでしょう。貴女が知るシスター・マルナは……。そのようなお人柄だったのではありませんか?」


「っ!?」


 アドルの言葉に、フェリエナは息を飲む。

 とすり、とアドルの言葉が矢のようにフェリエナの心を貫く。


 アドルがシスター・マルナを知っているはずがない。けれども、もし、もう一度シスター・マルナの言葉を聞くことが叶うなら、フェリエナが母のように慕っていた彼女は、きっとアドルと同じ言葉を告げるだろうと容易く想像できて。


 同時に、フェリエナは今まで記憶の底に封じてきたシスター・マルナの死に顔を思い出す。

 酷く殴られ、それでも自分の信じる道を貫いた満足そうな表情。


「ああ……っ」


 まなじりから、こらえきれぬ涙があふれる。フェリエナの心の中にずっと刺さり続けていた氷のとげが、ゆっくりと融けてゆく。


「貴女もまた賊の被害者に他なりません。だというのに……。なぜ、わたしが貴女に怒ることがあるのです?」


「で、ですが、先ほど……」


 あれほど怒っているアドルは、初めて見た。


 それほど、フェリエナがアドルをないがしろにしたためとも言えるが。

 アドルの怒っていた様を思い出すだけで、身体が震えそうになる。


「その、あれは……」


 なぜか、すこぶる気まずそうに視線を泳がせたアドルが、そっと顔を伏せ、再びフェリエナの背に腕を回す。

 こつんとフェリエナの肩に額を寄せ。


「どうぞ、狭量きょうりょうやからと笑ってください……。わたしではなく、ギズが頼られていることに、思わず嫉妬してしまったのです……」


 耳元で、ねたように告白され、心臓が跳ねる。


「そ、そんな……。わたくしが誰より頼りにしているのは、アドル様に他なりません! アドル様がわたくしの浅ましい隠し事に気づかれて、お怒りになられたのだと……」


「この手のことを言っているのでしたら」

 身体を起こしたアドルが、フェリエナの手を取る。


「初めてお逢いした夜にお伝えした言葉に、嘘偽うそいつわりはありません! 貴女の素晴らしさは、この手で損なわれてなどおりません。むしろ、先ほどの話を聞いた後では、この手は貴女の勇気と優しさをあらわしているのだと……。そう考えずにはいられません」


 宝物を愛おしむかのように、アドルがフェリエナの手のひらにくちづける。


「あ、あの……」


 アドルの息が、燃えるように熱い。

 手のひらをでる吐息がくすぐったくて、フェリエナは思わず身体を震わせた。


 手のひらから唇を離したアドルが、困ったように微笑む。


「そんな顔をしないでください。貴女の涙を見ると、心が千々に乱れて、とんでもない暴挙をしでかしそうになる」


 いったい、どんな顔をしているというのだろう。

 アドルの秀麗な面輪おもわが近づく。かと思うと。


「ひゃっ」

 温かな唇が、そっとまなじりの涙をすいとり。


「……わたしはずっと、貴女はこの結婚をうとんじていると思っていました……」


 唇を離したアドルが、弱々しい声で呟く。


「……え?」

 上げた視線がぶつかったのは、泣き出しそうな、不安をたたえた群青の瞳。


「貴女は、こんな貧しく辺鄙へんぴな領など、お嫌だろうと……。ネーデルラントには、わたしよりずっと、貴女にふさわしい求婚者がいるに違いないと……」


「そんなこと! わたくしを妻にと望む方など、いるはずがありませんわ!」


「わたしを除いて、ですか?」

 アドルがどこか楽しげに喉を鳴らす。


「アドル様がわたくしを望まれたのは、持参金のためでございましょう?」


 アドルがフェリエナの過去を受け止めてくれたというだけで、心はもう、十分に報われた。

 これ以上、変な期待を抱いて、アドルに失望されたくない。


 弾む心を必死で押し隠し、視線を伏せて告げると、アドルが鋭く息を飲んだ。

 思わず視線を上げた目に映ったのは、こちらが謝りたくなってしまうほどの、申し訳なさそうに歪んだ面輪。


「……持参金目当てで貴女に求婚したことを、否定はしません」


 秀麗な面輪を沈痛にしかめたアドルが、頭を下げる。


「誠に申し訳ありません。この罪は、いかようにも償います」

 後頭部が見えるほど深々と頭を下げられ、フェリエナは大いに慌てた。


「おやめください! アドル様に謝っていただくようなことなんて、ありませんわ!」


 ふるふると首を横に振り、懸命に言い募る。


「わたくし、ヴェルブルク領が好きです! まだ嫁いで数カ月ですけれど、皆さん、素朴で優しくて……。わたくしをおとめるような方は一人もおりませんし、それに……」


 「アドル様が、いらっしゃるから」と言いたいのに、恥ずかしくて口に出せない。


 と、アドルの指先が頬にふれる。

 群青の瞳が頼りなげに揺れ。


「……わたしは思い違いをしていたのだと……。自惚うぬぼれても、いいですか?」


 耳に心地よい声が、おずおずと問う。


 大きな手がフェリエナの頬を包み、そっと上を向かせる。

 ふれられた頬が、燃えるように熱い。

 アドルの祈るような眼差しを見た途端。


「はい……っ」


 フェリエナは、アドルの瞳に引きこまれるように頷いていた。

 アドルの面輪が、雪がけるように柔らかに緩む。


「フェリエナ……」


 愛しげに甘い声で名を呼んだアドルの面輪が、下りてくる。

 閉じたまぶたをアドルの吐息がで、唇に柔らかなものがふれ。


「ん……っ」

 全身に走った甘いしびれに、思わず声が洩れる。


 初めてのくちづけとは似ても似つかない、甘く、優しいくちづけ。

 まるで、極上の葡萄酒ぶどうしゅに酔ったように、頭も身体もふわふわする。


「んん……っ!」

 離れたと思った唇が再び下りてきて翻弄される。


 力の抜けた身体を、背中に回した腕に支えられる。

 そのままそっと、優しく床に横たえられ。


「ア、アドル様……?」


 目を開けたフェリエナの視界に入るのは、フェリエナの上に身を乗り出したアドルの、とろけるような笑顔。


 恥ずかしさにとっさに顔を背けようとすると、頬に添えた大きな手に妨げられた。


「この程度では、まだまだ足りません」


 甘い声で熱っぽく囁いたアドルが、再びくちづけを落とす。

 額に頬に唇に、そして、首筋へと下りてくる。


 仰向けになった拍子に髪覆いが取れ、床に散った髪を、アドルの長い指先が絡めとる。


 反対の手がドレスの襟ぐりにふれ――何かにえるように、ぎゅっと握り込まれる。


「……さすがに、ここでこれ以上は。貴女に無理をさせたくない」


 覆いかぶさっていたフェリエナから身を離したアドルが、困り顔で笑う。


 戸惑っていると、アドルに横抱きに抱え上げられた。

 そっとフェリエナを立たせたアドルが、緊張をにじませて、フェリエナの顔をのぞきこむ。



「……今夜こそ、貴女の部屋を訪れてもよいですか?」


 尋ねられた瞬間、目眩めまいを覚える。


 全身が、沸騰しているように熱い。

 脳裏の片隅を、以前、一度だけ聞いたグレーテの名がよぎったが――無理矢理、胸の底に押し込める。


 貴族の男性が愛妾を持つのは、ありふれたことだ。

 まだ見ぬグレーテに嫉妬を感じないと言えば、嘘になる。


 けれど、突然、目の前に差し出された甘美な果実を失うことへの恐怖の方が、大きかった。


 緊張にうまく声が出せず、フェリエナは無言のまま、こくりと頷いた。


 その途端、アドルに強く抱き寄せられる。

 あごを持ち上げられたかと思うと、再びくちづけが降ってきた。


 まだまだ足りぬとばかりに、アドルが何度もくちづけし。


「……これほど夜が待ち遠しいのは、生まれて初めてです」


 熱をはらんだアドルの群青の瞳が、フェリエナを映して微笑む。


「やっぱり、アドル様はご冗談がお上手ですわ」


 途端、アドルが心外な、とばかりに眉を寄せた。


「冗談などではありません」

 きっぱりと断言したアドルが、再びフェリエナの顎に手をかける。


「信じてもらえないのでしたら、今すぐ証明しても――」


「アドル様! 大変ですっ!」


 どんどんどんどんっ!


 ギズが切羽詰まった声とともに、せわしなく扉を叩く。


 フェリエナがアドルに部屋に連れ込まれた時にも叩いていたが、いつの間にか、止んでいた。まさか、今まで扉の外で様子を窺っていたわけではないだろうが。


「なんだ? 邪魔をするな」

 扉を振り返りもせず、アドルが不機嫌極まりない声を投げつける。


「わたくしも邪魔などしたくございませんでしたっ! ですが、エディス様が神父様と一緒に来られまして……っ!」


 扉の向こうで、悲鳴のような声でギズが告げる。


「一大事でございます! ランドルフ伯爵が、ヴェルブルク領に対して兵を挙げましたっ!」


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