35 得たものは、この手の傷と――


「っ!?」

 アドルが息を飲む。かまわずフェリエナは言葉を続けた。


「片田舎の女子修道院など、年老いた下男をのぞけば、女ばかり。そのくせ、礼拝堂には金銀細工の高価な祭具があって……。神の怒りなど恐れぬ盗賊には、格好の獲物と映ったのでしょうね」


 父が再婚した後妻にうとまれ、四歳で入れられた修道院の生活は、毎日が波風ひとつなく平穏で、子どもには退屈なほどだった。

 けれど、老いも若きも、シスター達は修道院で一番幼いフェリエナに優しく、まるで母か姉か祖母のように慈しみ、さまざまな知識や礼儀作法を授けてくれた。


 幼心おさなごころにフェリエナは思ったものだ。

 自分はきっと、一生、この穏やかな閉じた世界で、神に仕えて過ごすのだろうと。


 八歳の、あの日までは。


「修道院を襲った盗賊達は、巡礼者を装って、門を開けさせました。真っ先に老いた門番が斬られて……」


 恐怖の記憶がよみがえり、声が震える。

 けれど、話すのをやめはしない。


 愚かな企みは、あえなく明るみに出てしまった。

 これ以上、秘密がれるのを、いつかいつかとおびえて待つくらいなら、いっそのこと、自分から明かしてしまった方がいい。


 そうすれば、胸の奥底に秘めた愚かな願いも、完膚かんぷなきまでについえるだろう。


「賊が押し入った時、わたくしは、まるで娘のようにわたくしを可愛がってくださっていたシスター・マルナと一緒に、修道院の裏の薬草園で手入れをしていました。悲鳴や怒号がすぐに裏まで聞こえてきて……」


 シスター・マルナは異変を感じ取ったのだろう。近くの村へ助けを求めに行きましょうと、怯えるフェリエナの手を取って走り出し……。


「きっと、シスター・マルナだけなら、もっと速く走れていたでしょう。けれど、怯えて泣く私がいたせいで、なかなか進まなくて、いくばくも行かぬうちに、草むらで賊に追いつかれて……っ」


「フェリエナ! 後ろを振り返らずに身を屈めて走りなさい! この草むらがあなたを隠してくれるから、何としても村まで……っ」


 繋いでいた手を放し、フェリエナの背中を押しながら叫んだシスター・マルナの声は、十年経った今でも忘れられない。


 訳もわからぬまま、シスター・マルナに言われるままに必死で幼いフェリエナの背ほどもある草の間を駆け抜け――。


 村に着く前の街道で、巡回中の騎士の一団に出会えたのは、僥倖ぎょうこう以外の何物でもなかった。


 泣きながら、修道院が、シスターが……。と訴えるフェリエナに応じ、騎士達が修道院に急行し――。


 だが、フェリエナは遅すぎたのだ。


 真紅に染まった光景がよみがえり、固く目を閉じる。


 身体の震えが止まらない。

 行き場のない恐怖が、涙となってまなじりからあふれ出す。


「わたくしが修道院に戻った時、賊達は持てるだけの略奪品を持って、逃げ出した後でした。修道院の中では、あちらこちらでシスター達が倒れていて、中にはもう……っ」


 かちかちと歯が鳴って、うまく話せない。

 こんな話、今まで誰にも明かしたことなどない。


「修道院長が止めるのも聞かずに、裏の草むらへと飛び出しました。修道院のどこにも、シスター・マルナの姿はなかったから。きっとどこかに隠れてらっしゃるんだと信じて。けれど……っ」


 抑えきれない嗚咽おえつが唇からこぼれ出す。


 草むらへ行ったフェリエナを待ち受けていたのは、変わり果てた姿のシスター・マルナだった。

 賊をフェリエナの元へ行かせるまいと、必死で抗ったのだろう。顔は酷く殴られ、手には賊の服の切れ端を固く握りしめ――。


「シスター・マルナはわたくしが殺したも同然です! わたくしがもっと速く走れていたら! わたしなど放って逃げていたら、きっとシスター・マルナは助かっていたのに……っ」


 シスター・マルナの遺体に取りすがって泣くフェリエナを探しに来てくれたのは院長だった。


「フェリエナ。今は泣いている場合ではありませんよ。シスター・マルナは主が御許みもとでお守りくださいます。今は、生き残った者の手当てをしなければ……」


 院長は、嘆き暮れているよりは少しでも手を動かしたほうが、フェリエナの哀しみもまぎれると思ったのだろう。

 院長に連れられるまま、修道院に戻り、怪我をしたシスター達の手当ての手伝いに奔走し……。


「怪我の軽いシスター達みんなで、手当をしたんです。修道院の救護所で、何度か手伝いをさせてもらったことがあったので、わたくしも手伝って……。けれど、すぐに薬が足りなくなって、それで……」


 修道院の周りの草むらには、アザミがたくさん咲いていた。


「摘む人を傷つける花なのに、怪我を癒す力があるなんて、アザミは不思議な花ね」


 そうフェリエナに教えてくれたのはシスター・マルナだった。


「一人で修道院を抜け出して、懸命にアザミを集めました……。手の痛みなんて、大好きなシスター達を助けるためなら、何ともありませんでした。むしろ、シスター・マルナが失った血の分だけ、紅いアザミの花を摘めば、もしかして、天国から帰ってきてくれるのではないかと……。そんな幻想に囚われて……」


 そうやって、どれほどのアザミを摘んだだろう。


「わたくしがいなくなったことに気づいて探しに来た院長に止められるまで、手が血塗れになっても、ずっと摘み続けて……」


 フェリエナが得たのは、シスター達の感謝と叱責と、傷薬と――どうしてもあとが消えなかった、傷だらけの手。


 けれども、それでいいと思っていた。

 この手の傷は、シスター・マルナを殺したも同然の自分への、神が与えた罰なのだと。フェリエナが決して己の罪を忘れぬための十字架なのだと。


 せめてもの贖罪しょくざいに、できる限り人のために尽くそう。それが命を賭けてフェリエナを救ってくれたシスター・マルナへのわずかばかりの罪滅ぼしなのだと……。

 そう思って、一生を修道院で過ごす気でいた。


 政略結婚の駒として、父親の命で故郷に連れ戻されるまでは。


「引き合わされた婚約者候補の方は、わたくしの手を見た瞬間、おぞましいと吐き捨てました」


 後妻との間に子どもに恵まれなかった父は、娘であるフェリエナを高い爵位を持つ者と縁組させるつもりだったらしい。


 富裕とはいえ、ロズウィック家は子爵。父の望みは、ロズウィック家の財貨を餌にフェリエナを高位の貴族と縁組させ、さらなる後ろ盾を得ることだった。


 父の企みなどろくに知らぬまま、美しいドレスを着せられ、会ったこともない若者に引き合わされたフェリエナは、挨拶のために手を差し伸べた瞬間、その手を乱暴に振り払われた。「こんな傷だらけのおぞましい手にふれるなど、汚らわしい」と。


 恐怖と侮蔑に満ちた声は、世慣れぬフェリエナの心を斬り裂くのに十分だった。

 それ以上につらかったのは、父親がフェリエナを気遣うどころか、「この役立たずが」と怒り狂って罵り、すぐさま次の相手を探そうとしたことだ。


 もし、兄のグスターが妹を労り、フェリエナ以上に怒ってくれなければ、きっとずっと泣き暮らしていただろう。


「こんな手のわたくしと結婚してくださる方がいらっしゃるとは思えません。どうか、修道院に戻してください!」


 フェリエナの涙ながらの訴えを無視し、父親は新たな婚約相手を探そうとしたが……。


 おそらく、ロズウィック家の台頭を阻止したい貴族がいたのだろう。


 誰にも話したことのないはずのフェリエナの過去は、水面みなもにインクが広がるように、いつの間にか貴族達の間でひそやかに広まり――。


「賊に襲われるなど、不信心だったからに違いない」

「どうやら、賊に傷物にされたらしいぞ」

「いや、賊と通じて修道院に手引きしたらしい」

「見咎められたシスターを手にかけたとか……」


 安全な街の中で暮らす貴族達には、「賊に襲われた娘」というのは格好の噂の種だったのだろう。

 いつの間にか、噂には信じられぬほどの尾ひれがつき、フェリエナがシスター達を手にかけたとまで言われるようになっていた。


 貴族達の集まりに顔を出すたび、フェリエナだけにかすかに聞こえる声で『修道女殺し』と陰口を叩かれ、さげすみの言葉を投げられた日々は、まるで石臼でりつぶされるような苦痛に満ちていた。


 だが、どれほど侮蔑と嘲弄を投げつけられても、フェリエナは黙して胸の痛みに耐え続けた。


 ……フェリエナのせいでシスター・マルナが亡くなったのは真実なのだから。

 『修道女殺し』の汚名は、フェリエナが一生背負い続けねばならぬ十字架なのだ。


 だが……。

 この話を聞いたアドルは、いったいなんと思うだろう?


 フェリエナが愚かなせいで人ひとりが死んだのだと……。


 今まで誰に侮蔑されても耐えてきたのに、アドルに責められたらと思うだけで、心が粉々に砕け散りそうな心地がする。


 いっそのこと、このまま心臓が止まってしまってほしい。


 嫌悪に満ちているだろうアドルの顔を見ることができず、うつむいたままフェリエナは謝罪を紡ぐ。


「今まで黙っていて申し訳ございませんっ! 許していただけるとは思っておりません! このような汚名を着た身で――、っ!」


 不意に、アドルの指先がフェリエナの唇を押さえる。


「もう、十分です」


 怒りに満ちた低い声。


「これ以上は、怒りで気がおかしくなる」

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