40 どうか、ご武運を


「アドル様! 失礼いたします!」


 フェリエナは返事を待つのももどかしく、アドルの部屋の扉を開ける。


 部屋の中では、胴着姿のアドルが、ギズや従者に手伝われ、鎧をまとおうとしているところだった。


「わたしはもう話すことなど――」


 アドルがふい、と視線を逸らす。

 かまわず、フェリエナはアドルの前に歩み寄った。


 ギズ達が一歩退き、


「他の従者達の支度の進み具合を、確認してまいります」

 気をかせたギズが、従者と共に部屋を出て行く。


「アドル様に、お渡ししたいものがあるのです」


 フェリエナは両手に持っていた包みを、アドルにずいっ、と差し出した。


「これは……?」

「アドル様に、お預けいたします」


「?」

 首を傾げたアドルが、包みを開く。


 中から現れた、金の装飾が施された精緻せいちな細工の宝石箱を見た途端、アドルの顔が凍りつく。


「どういうつもりです!?」


「お伝えした通りですわ。戦となれば、どれだけの費用がかかるかわからぬものなのでしょう? ですから、わたくしの宝石類をアドル様にお預けいたします。こんな高価な物を隠して旅をするのも危険極まりませんもの。預けている間、中身はアドル様のご自由にお使いください」


「使えるわけがないでしょうっ!」


 目を怒らせたアドルが、宝石箱を押し返す。

「これ以上、貴女の財産に手をつけるなど……っ!」


「ええ。ですから、あくまでお預けするだけですわ」


 アドルの群青の瞳を、真っ直ぐ見上げる。


「わたくしが妻としてできるのは、これくらいですもの。アドル様がランドルフ伯爵におくれを取らぬと、信じております」


 笑え、とフェリエナは自分を叱咤しったする。


 アドルが何と言おうと、もう惑わされたり、しない。

 フェリエナは自分がこれまで見てきたアドルを、信じる。


「ですから――。ちゃんとわたくしを迎えに来て、返してくださいませ」


 視線をらさず、にこやかに笑う。

 少しでも、アドルの心が軽くなればいいと願いながら。


「それまで、わたくしは安全なネーデルラントで、アドル様の御無事をお祈りしながら、お待ちしております」


 告げた瞬間、思い切りアドルに抱き締められる。宝石箱が押し潰れそうな勢いで。


「……貴女の強さをの当たりにすると、己の臆病おくびょうさが情けなくなります」


 フェリエナを抱きしめたまま、アドルが弱々しい呟きを洩らす。

 わずかに身を離したアドルが、フェリエナの目をのぞきこむ。


「必ず、貴女を迎えに行きます。……待っていて、もらえますか?」


「もちろんです!」

 間髪入れず即答する。


「いつだって、アドル様の御無事を祈っております」


 フェリエナの名を紡いだかと思うと、アドルの唇が下りてくる。

 頬にふれる優しい指先に、フェリエナは自然と瞳を閉じた。


「決して、長くお待たせはしません」


 力強く告げたアドルが、困ったように眉を寄せる。


「でないと……。貴女に飢えて、気がおかしくなってしまう」


 呟いたアドルの唇が、フェリエナのそれに重なる。

 長いくちづけに息が苦しくなるが、それでもアドルの唇は離れない。


「んぅ……っ」


 お互いの吐息が混じり合う。

 吐息がはらむ熱に、身体まで融けてしまいそうだ。


 まるで、フェリエナのすべてを飲み尽くそうとするようなくちづけに、翻弄される。頭の芯がしびれて、何も考えられない。


 思わずアドルの胴着を掴むと、背に回された腕に力がこもった。


 このまま離れたくないと、心の底から願う。


 どれほどの時間が流れたのか。もしかしたら、ほんの短い間だったかもしれない。

 アドルが理性を奮い起こすかのように、名残惜しげにフェリエナから面輪を離す。


 アドルの熱く乱れた吐息がフェリエナのまつ毛を揺らし、フェリエナは轟く胸元を片手で押さえながら、まぶたを開けた。


 戦場がどんなに危険な場所か、フェリエナは何も知らない。アドルにどんな危険が待ち受けているのかも。

 だが、フェリエナが安全な場所にいることで、アドルが心置きなく戦えるのなら。


「お待ち申し上げております。どうか、ご武運を」


 決して涙は見せるまいと、フェリエナは愛しい人を見上げ、できる限りにこやかに微笑んだ。

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