33 妻と従者の二人の秘密


「ああ、ギズ! どうしたらいいかしら? わたくし、とっさに知らないふりをしてしまって……っ」


 城に戻り、玄関でアドルと別れて、薬草が入った鞄を自室へ置いたフェリエナは、台所へ行こうと階下に向かう途中、アドルの執務室の前の廊下でギズを見つけた。

 思わずそばへ駆け寄り、ギズの腕に取りすがる。


「奥方様!? どうなさったのですか? その、せめてもう少し具体的に教えていただきませんと……」

 突然、袖を掴まれたギズが、眉を寄せて困り顔になる。


「ごめんなさい。その……」

 慌てるあまり、肝心なことが伝えられていなかった。


「水車が修理されていることに、アドル様が気づかれてしまったの!」


 ギズを見上げ、すがるように訴える。

 有能なギズはそれだけでフェリエナの言いたいことを察したらしい。


「なるほど……。ですが、その程度のことでしたら、ごまかしようはいくらでもあります」


 冷静極まりない声で告げられ、心底ほっとする。


「本当? よかった……」

 安堵のあまり、涙がにじむ。


 ギズが呆れ混じりの吐息をついた。


「それほど心配されるのでしたら、アドル様に正直に話された方がよろしいのでは?」


 ギズが言うことが正しいのは、フェリエナとてわかる。


「けれど……。アドル様は、決して首を縦になさらないでしょう?」


「まあ……。あの方は、ああ見えて、驚くほど頑固でいらっしゃいますからね」


 呆れたような、それでいてどこか親愛さをにじませたギズの声。

 フェリエナは、アドルのそばにギズがいてくれてよかったと、素直に思う。


 と、不意にギズがフェリエナの向こうを見て「あ」と口を開いた。

 ギズの声が明確な音を紡ぐより先に。



 ギズの袖を掴んでいた手が、大きな手に掴まれる。


 同時に、ぐいっ、と腕を引かれた。

 よろめいた身体が、広い胸板にぶつかる。


「ギズ。なぜフェリエナが涙を浮かべている?」


 怒りに満ちたアドルの声に、背筋が凍る。

 見上げたフェリエナの視界に飛び込んだのは、唇を引き結び、射殺いころさんばかりの剣幕でギズをにらみつけるアドルだ。


 覚悟していたとはいえ、群青の瞳に浮かぶ苛烈かれつな光に、身がすくむ。


「あ、あの……っ」


 ギズを庇わねばという使命感に駆られて、フェリエナは自分を抱き寄せるアドルを振り向き、腕に取りすがった。


「アドル様! お許しくださいませ! 悪いのは全てわたくしなのです! わたくしが無理矢理ギズに……っ」


「奥方様!」

 珍しくギズが焦った声を出す。


 フェリエナのまなじりに浮かんだ涙をぬぐおうとしていたアドルの指先が、ぴくりと止まった。


「ギズに? 無理矢理?」


 激情のあまりかすれた声は、地の底から響くかのように、低く、恐ろしい。

 眼差しは、ぜる直前の火の粉のような危うさをはらんでいる。


「……どうやら、わたしの知らぬところで、奥方と家令が何やら秘密を共有していたらしいな?」


「お待ちください、アドル様!」

 ギズが悲鳴のような声を上げる。


「確かにわたしと奥方様はアドル様に黙って――」


「仕方がなかったのです! アドル様が受け入れてくださらないのなら、ゆだねられる相手はギズしか――」


「何、を?」

 ぱちり、と怒気が爆ぜる。


「っ」

 乱暴に掴まれた腕の痛みにうめいた時には、扉を開け放った執務室の中に引き入れられていた。


 ギズの鼻先で荒々しく扉を閉めたアドルが、素早くかんぬきをかける。


「アドル様!?」


 ギズが慌ただしく扉を叩くが、フェリエナの耳には入らない。そんな余裕などない。


「ギズに、何をゆだねたのです?」


 怒りに満ちた群青の瞳。

 ふれれば斬れてしまいそうな怒気に、全身が震える。


「わ、わた……」

 うまく声が出ない。


 膝が笑って、フェリエナは床にくずおれた。だが、腕を掴んだアドルの手は離れない。


 逃さないとばかりに、床に膝をついたアドルが、身を乗り出す。


 今にも喉笛のどぶえに喰らいつきそうな、飢えた獣の眼差まなざしが眼前に迫り。

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