32 知っているのは、わたし一人でよい
「アドル様。いつもありがとうございます。ですが……。本当によろしいのですか? これほど頻繁におつきあいいただいて……」
村を出たところで、フェリエナが不安そうに尋ねる。
「お忙しいアドル様に、無理をさせているのではありませんか……?」
小さな領といえど、村々の管理に
正直なところ、四日と空けず、一介の村人にすぎない青年を見舞っている暇などない。だが。
「わたしには有能なギズがついておりますから。貴女が心配されるようなことなど、何もありません」
不安そうに見上げるフェリエナに、アドルは柔らかく微笑んだ。
「むしろ、こうして出かけられる方が、城でギズにあれこれ言われるより、気楽で喜ばしいですよ」
「アドル様ったら」
アドルのおどけた口調に、フェリエナが顔をほころばせたのを見て、安堵する。
「朝から晩まで、一生懸命働いてくれているギズにそんなことを言っては、罰が当たりますわ」
それに、とフェリエナが新緑の瞳を細めて笑う。
「ギズが口うるさいのは、アドル様を敬愛しているからでしょう?」
「……ずいぶん、ギズを買っているのですね」
声が低くならぬよう、注意する。
我ながら、どうかしている。
フェリエナが信頼している。
それだけで、誰よりも信を置いている乳兄弟に、嫉妬を覚えてしまうなど。
アドルの腕の間で、フェリエナが花のように笑う。
「もちろんですわ。アドル様が誰より信頼している相手ですもの」
「っ!」
不意を突かれ、アドルは思わず息を飲む。
こんなのは、反則だ。アドルが信頼しているから信じているなど。
嬉しくて……。思わず、フェリエナの身体に回した腕に、力を込めたくなってしまう。
「そういえば、ギズに村外れの集落の長に、伝言を頼まれていたのを思い出しました。遠回りになってしまいますが、寄ってもよろしいですか?」
「ええ。もちろんです」
頷いたフェリエナが、何がおかしいのか、くすくす笑う。
「アドル様にお使いを頼むなんて、ギズったら……」
「どうせすぐ近くまで行くのなら、わたしが行った方が効率的だと頼まれましてね。あいつは、そういう奴です」
アドルとしても否はない。こうして、もう少しの間、フェリエナを腕の中に閉じ込めておける正当な理由ができたのだから。
アドルの前に横座りに乗るフェリエナの横顔に、視線を落とす。
決して手折らぬと誓った、大切な花。
そばにいれば、ふれたいという誘惑に苦しむだけだと知っていても――自分以外の男が、こうしてフェリエナを腕の中において馬を駆るなど、決して許せない。
馬に乗せる時、いつも気恥ずかしそうにするところも、高い視点から見える景色に、瞳を輝かせて見入る横顔の可憐さも、二人で馬に乗っている時は、いつもより少し
知っているのは、アドル一人だけでよい。
不意に、強い風が木々を揺らす。
「あっ」
フェリエナがつけている髪覆いが飛びそうになり、アドルは慌てて手を伸ばした。
すんでのところで掴み取る。
フェリエナの緩やかに波打つ栗色の髪が、誘うようにアドルの腕の中で揺れる。
「ありがとうございます」
髪を押さえたフェリエナがアドルを見上げる。豊かな栗色の髪が、じゃれつくようにアドルの腕にかかった。
絹糸のような髪に、指を
「……どうぞ」
かろうじて自制し、髪覆いを差し出す。
フェリエナが髪覆いをつけてくれ、アドルはほっと安堵した。
髪を下ろしたフェリエナを見ていると、どうしても婚礼の夜の姿を思い出してしまって、心臓に悪い。
たおやかな身体を抱きしめれば、どんな心地がするか。
ふれるまいと誓ったはずなのに、愛らしい唇の甘さをも、アドルはすでに知ってしまっている。
渇きを覚えた喉がぐびりと鳴ってしまいそうで、アドルは慌てて咳払いして視線を
無理矢理奪ってしまったくちづけが、己にどんな痛みと苦しみをもたらしたのか、忘れるわけにはいかない。
気を紛らわせる物を探して、ぐるりと首を巡らせたアドルは、違和感を覚えた。
両側を
近くに川があるので、かすかにせせらぎの音が聞こえる。
木立ちの向こう、
ぎいぎいと
回って?
「確か、あそこの水車小屋は……」
アドルは記憶を掘り起こす。
そうだ。あそこの水車は、壊れて止まっていたはずだ。
周囲の集落の者には、不便をかけるが、別の水車小屋を使うよう、指示したはずだ。
いったい、いつの間に誰が修理の指示を出したのだろう。
フェリエナの持参金で、差し迫った借金は完済したものの、領内の整備に回せる余分な金は、逆立ちしてもなかったはずだが。
「どうかなさいましたか?」
黙りこくってしまったアドルをフェリエナが見上げる。
「いえ。確かあそこの水車は、壊れたままだと思っていたのですが……」
フェリエナがアドルが示す先をちらりと見やる。
「そ、その、ギズが修理させたのではありませんの?」
「そうかもしれませんが……。しかし、ギズなら修理した際に、ちゃんとわたしに報告するはず」
ギズが報告を忘れるとは思えない。
「ギズといえど、忘れることくらい、あるかもしれませんわ」
ギズを
ギズに嫉妬してしまうなど、いつから自分は、これほど狭量な人間になってしまったのだろう。
手綱を握り締め、アドルは苦く、吐息した。
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