30 あなたと、手を。


 先ほどまで、篝火かがりびのような赤光しゃっこうを投げかけていた太陽は、木立の向こうに沈みかけていた。


 夜の闇が、音もなく空気を群青に染めていく。月が出ているものの、あと半刻もしないうちに、明かりがなければ物の形すらよく見えなくなるだろう。


「ああ、ありました」

 走ってほどなく、街道が中心を走る小さな村の井戸のそばで、アドルが馬を止めた。


 村人達はもう家々の中なのだろう。外に出ている者は一人もいない。何軒かの家の板戸の隙間から、おぼろげな明かりがれているだけだ。


 井戸に架けられた屋根の支柱に手綱を結んだアドルが、フェリエナを抱き上げて下ろす。恥ずかしいが、フェリエナの身長では、馬の背は高すぎる。


 アドルは縄のついた桶を井戸の中に放り込むと、たっぷりの水をみ上げ、石で組まれた井戸のふちに置いた。


「お待たせしました。どうぞ」


「いえ、アドル様が汲まれたのですから、先にお使いください」

 遠慮すると、アドルが苦笑した。


「先に使うのが心苦しいとおっしゃるのでしたら、ほら」

 アドルがフェリエナの両手を掴んだかと思うと、桶の中へ入れる。


「一緒に洗えばいいでしょう?」


「あ、あの……」

 フェリエナの戸惑いをお構いなしに、水の中でアドルの手が優しくフェリエナの肌をこする。


 八月とはいえ、ひんやりと冷たい水の中で、アドルの手だけが温かい。


 大きな両手がフェリエナの手を包み込み、壊れ物を扱うかのように、指先が優しく肌の上をすべっていく。

 アドルの手の温かさと水の感触に、肌と肌の境界線があいまいになっていくような感覚に囚われる。


 過去の象徴でもある傷らだけの手を、誰かに、これほどふれられたことなどない。


「じ、自分で洗えますから!」

 ようやく我に返り、手を引き抜こうとする。


「綺麗になりましたか?」

「は、はい。大丈夫です!」


 手を見もせず断言し、取り出した手巾ハンカチで手をぬぐう。

 その間に、アドルが一度水を捨て、新しい水を汲む。


 アドルが自分の手巾を綺麗な水に浸して軽く絞り。


「お顔を」


 促され、フェリエナはきょとんと首を傾げた。


「顔の汚れも拭いておかなくては」

 手巾を持ったアドルの手が頬へ伸びてきて、大いに慌てる。


「だ、大丈夫です! 自分の手巾がありますから、自分で拭きます!」


「ですが、自分で自分の顔は見えぬでしょう」

 アドルが、わがままな子どもをあやすように微笑む。


「も、もう暗くなってまいりましたし、わたくしの顔など、汚れていても気にする方など、おりませんわ」

 顔を背けようとすると、ひやりと冷たい布が頬に当たった。


「わたしが」


 濡れた布が、優しく頬をすべる。


「わたしが気にします。貴女あなたのお顔を血で汚したままにしておくなど……。申し訳なさで心が痛みます。それに、貴女だって、お嫌でしょう?」


「それ、は……」

 本当は、血の汚れなど、一刻も早く洗い流してしまいたい。


 身体中にまとわりつくような血の臭いは、気を引き締めていないと、心の奥底に眠る恐怖の記憶を呼び起こしそうになる。


 思考を逸らそうと、フェリエナは慌てて口を開く。


「でも、早く戻りませんと。もう暗くなってきましたわ」


「夜に貴女と外にいるのは、初めてお逢いした時以来ですね」

 アドルが柔らかな笑顔を見せる。


 月明かりを反射してきらめく金の髪に、宵の空と同じ群青の瞳。

 初めてアドルを見た時より激しく、鼓動が波打つ。



 もし、あの夜に戻れるのなら。

 決して、求婚の申し込みを受けなかっただろうに。


 アドルだって、別の令嬢を選んでいただろう。

 夜を共にするのさえ嫌悪する、持参金しか取り柄の無い妻など。


「舞踏会の時と比べて、あまりのみすぼらしさに呆れてらっしゃるのでしょう?」


 苦い自嘲に唇を歪めると、頬をぬぐっていたアドルの手がぴたりと止まった。

 握りしめた手巾から、ぽたりと雫が落ちる。


「呆れるなど! わたしがそのように思うはずがありません! あの夜も今夜も、貴女はこんなに愛らしいというのに」


 大真面目な口調に、思わず吹き出しそうになってしまう。


「やっぱり、アドル様はご冗談がお上手ですわ」


「冗談などでは……っ」


 群青の瞳に、剣呑けんのんな光が宿る。

 危うさをはらんだ、射抜くような眼差し。


 フェリエナは、一度だけこの目を見た記憶がある。


 なぜあんなことになったのか、どれだけ考えでも答えが見つからないままの、くちづけの時の――。


 アドルの何も持っていない左手が、フェリエナの頬にふれる。

 指先が耳朶じだにふれ、うなじへとすべろうとし。


 思わず身構えた拍子に、ひじが桶にぶつかった。

 石組いしぐみから落ちた桶の水が、ばしゃりとフェリエナにかかる。


 アドルが慌てて桶を拾ったが、もう遅い。

 フェリエナのドレスの右半分が水を浴びてびしょぬれになっていた。


「す、すみませんっ」

 顔色を失くして謝るアドルに、


「肘をぶつけたのはわたくしです。それに、濡れただけですから何ともありません」

 と安心させるように急いで告げる。


「城に帰ったらすぐに洗うのですもの。濡らすのが少し早くなっただけです」


「しかし……」

 フェリエナの方が申し訳なくなるくらい慌てふためくアドルに、小さく笑う。


「絞れば大丈夫ですわ」

 ドレスの裾を持ち上げ、両手でぎゅっと絞ると、アドルが目をむいた。


「いけません! 人前で足など……!」


 悲鳴のような声を上げたアドルが、固く目を閉じてそっぽを向く。その顔は、宵闇の中でもはっきりわかるほど、耳まで紅い。


 裾を持ち上げすぎてしまったらしいと気づいて、フェリエナは慌てて手を放す。濡れた布がべしゃりと足に張りついた。


「と、とにかく早く城へ戻りましょう! 風邪でも引いたら大変です」

 問答無用でフェリエナを馬に乗せたアドルが、自分も鞍にまたがる。


「飛ばしませんが、夜の道は危険です。ちゃんと掴まっていてください」


 アドルまで濡らしてしまってはと、できるだけ離れようとしていると、逆に引き寄せられた。


「遠慮して、落馬でもしたら一大事です」


 冷たい水にふれていたというのに、アドルの手も腕も、燃えるように熱い。

 頬にふれたシャツ越しに、鼓動まで聞こえてきそうな気がする。


 今更ながら、はしたないことをしてしまったと、恥ずかしさで顔が上げられない。


 濡れたはずなのに、身体の奥が熱を持っている気がする。


 恥ずかしくて逃げ出したいほどなのに、ずっとこのままでいたいような矛盾した気持ちに囚われ、フェリエナは自分の感情に戸惑った。

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