20 これほど喜ばしいことはありません


 フェリエナがヴェルブルク領に嫁いでから早一か月。降り注ぐ日差しは、春の穏やかなものから、初夏の爽やかな日差しへと変化していた。


「順調に育っているようですね」


「はい。本当に良かったです。故郷で育てた時と、なんら遜色そんしょくのない育ちようですわ」

 アドルの言葉に、フェリエナは笑顔で頷く。


 二人の目の前にあるのは、すくすくと育っているパタタの畑だ。


 初夏の日差しの中、次々と芽を出したパタタは、今ではもう、ふくらはぎの高さまで育っている。初夏の光を受けた緑の葉は、どれも元気そうだ。


「あのアドル様、お手伝いいただかなくとも、わたくしや他の者でいたしますので……」


 フェリエナの遠慮がちな申し出に、アドルはきっぱりとかぶりを振った。


「わたしだけがのうのうとしているなど、そんなことはできません。それに、これからパタタを広めていくというのなら、育て方の知識がある者は、一人でも多い方がよいでしょう?」


「そう、ですね……」


 アドルが善意で申し出てくれているのはわかっているのに、つい穿うがった見方をしてしまう心が、つきんと痛む。


 もともとパタタは育てやすい作物だ。パタタの育て方さえ伝えたら、ヴェルブルク領でも栽培するのは容易い。……フェリエナが故郷へ帰ったとしても。


 今日これから行う作業は、間引きと土寄せだ。

 よく育っている芽を二本だけ残して、他の芽を間引きし、その後、茎の根元にまで土をかぶせる。


 アドルとフェリエナの他にも、ギズやメレなど、城の従者達も参加する。皆、農作業用の汚れてもいい服を着て、興味津々にパタタの畑を眺めている。


「パタタの実まで一緒に引き抜いてしまわないように、茎の根元を押さえながら間引いてくださいね」


 フェリエナ自身が説明しつつ、皆に手本を見せてから、作業が始まる。

 ネーデルラントからフェリエナが持ち込んだパタタ百個ほどを植えた畑に、皆が散っていく。

 フェリエナもしゃがみ込み、もくもくと作業をしていると、


「これほどよく育っているのは、貴女あなたが心をこめて世話をしてくださっているからでしょうね。ありがとうございます」


 すぐ近くでかがんで作業しているアドルに礼を言われ、フェリエナはそちらを見ずに首を横に振った。


「とんでもありません。きっと、パタタがこちらの土や気候に合ったのですわ。わたくしの功績ではありません」


「いいえ」

 思いがけず強い声が、否定する。


「忙しい中、朝な夕なに様子を見に来ては、雑草抜きをされたり、水やりをされているでしょう? 知っています」


 柔らかな声に、思わず心が跳ねる。

 知ってくれていたのかと、小躍りしそうになる心を、フェリエナは必死で押し隠した。


「わたくしには、パタタをちゃんと育てる義務がありますから」


 思った以上にそっけなくなってしまった声音に、自分自身が動揺する。こんな言い方、アドルにあきれられてしまうのではないだろうか。


「それに……」

「それに?」


 焦って思わず継いでしまった言葉に、アドルが問い返す。その声が先ほどと変わらず優しいことに、つい安堵してしまう。


「植物は、手をかければかけた分だけ、ちゃんと育ってくれますから……」


「――そうですね」


 どこか暗い響きを感じさせる声に、思わずアドルを振り返る。

 アドルの群青の瞳は、のびやかに葉を茂らせるパタタに、真っ直ぐ注がれている。


「植えた作物が健やかに育つ。これほど喜ばしいことはありません」


 まるで祈るように真摯しんしな声。

 いや、数年にわたる不作を経験したアドルにとっては、祈りそのものなのだろう。


 憂いを秘めた横顔から目を離せずにいると。


「貴女が春の女神として、祝福をもたらしてくれたおかげですね」


 不意に振り返ったアドルにとろけるような笑みを向けられ、腰が砕ける。


「きゃ……っ」

 パタタを掴んで引き抜くわけにはいかない。

 手がくうを掴む。


 尻もちをつく寸前で。

 背中に回された力強い腕が、フェリエナの身体を受け止めた。


「大丈夫ですか?」

 耳のすぐ近くで聞こえた声に、心臓が跳ねる。


「す、すみま……」

 謝ろうと視線を上げたすぐそばにアドルの秀麗な顔があって、息を飲む。


「もしかして、また疲れが出ているのでは……?」


 アドルの眉が心配そうに寄る。

 身体に回された腕に力がこもり、フェリエナは必死で首を横に振った。


「ち、違います! ドレスの裾を踏んで、体勢を崩しただけですから!」


 顔が熱い。心臓がばくばくと鳴っている。

 フェリエナの返事にアドルの頬が緩む。


「それでしたらいいのですが……」


 放してもらえそうだと安堵した瞬間。


「きゃあっ!?」

 ふわりと抱き上げられ、あられもない声が出る。


「ああ、すみません。ドレスに土が……」

 アドルは平然とした様子で、土で汚れた自分の手をはたき、次いでフェリエナのドレスの裾についた汚れに手を伸ばすが、それどころではない。


「だ、大丈夫です! もともと汚れてもいいドレスを着ておりますから!」

 アドルの右手を掴み、何とか押し留める。


「も、申し訳ございません。アドル様の手を土で……」

 土だらけの手でアドルの手を握っていることに気づき、慌てて放そうとすると、逆に指を掴まれた。

 骨ばって固い騎士の手。


「わたしの手が汚れることなど、何でもありません。農作業にも慣れていますから」


 アドルの言う通り、領主にもかかわらずアドルは農夫にも負けぬほど畑でもよく働く。

 庭師が手入れをする庭園に囲まれていた故郷の城と違い、ヴェルブルク城の周りは全て、庭ではなく畑だ。


 フェリエナの手を捕らえたまま、アドルが柔らかに微笑む。


「それに貴女と一緒なら、土に汚れているのも悪くありません」


「ご冗談を」

 反射的に、アドルの手を振り払う。


 同じ土に汚れていようと、アドルとフェリエナの手が、同じわけがない。

 この、血にまみれた手が。


「わたくしは、あちらで作業してまいりますので。アドル様はこちらをお願いいたします」


 アドルがどんな表情をしているのか、怖くて視線が上げられない。

 フェリエナは逃げるようにきびすを返した。

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