16 心に押し寄せる感情は――。
びゅっ、と刃が鋭く風を斬る。
城の裏手、立木に
剣筋が乱れているのは、誰に指摘されずとも、自分自身が理解している。
春の祭りから三日。
フェリエナの
フェリエナが無邪気な笑顔を向けてくるだけで心臓が跳ねて、顔をまともに見ることすらできない。
身体を動かせば、少しは気が
フェリエナには決してふれぬと、婚礼前に決めていたはずだ。
だが、花のような笑顔が、親愛のこもった眼差しが、アドルを惑わせ、決意を揺さぶる。
――彼女の未来を考えるなら、アドルにできることはたった一つしかないと、わかりきっているというのに。
いっそのこと、彼女に嫌われてしまえば、楽になれるのだろうか。
武骨で礼儀知らずの田舎者よと罵られれば、
フェリエナが向けるまなざしが、侮蔑と嫌悪に変わるかと思うだけで、心が張り裂けそうだが、アドルがフェリエナを傷つけてしまう事態を招くよりは、何倍もましだ。
いったい、どこで間違ってしまったのだろう。
婚礼の夜、寝台を共にする気はないとだけ告げていたら、アドルとフェリエナは今頃、それは見事な仮面夫婦になっていたはずだ。
いずればれるとはいえ、ヴェルブルク領の
ましてや、フェリエナがヴェルブルク領のために手を貸してくれるなど、そんな夢物語は、夢想すらしていなかった。
いったい、何がフェリエナの琴線にふれたのか。
わからない――フェリエナが心に秘めている望みすら。
もし、彼女が……。
たおやかな肢体が脳裏に浮かび、同時に己の妄想に吐き気が湧く。
「くそっ!」
藁を巻きつけた立木に剣を振り下ろす。
ざんっ、と固い手応えとともに、斬られた
きっと今、
夕陽を照り返して紅く鈍く光る刃に己の顔を映せば、欲望にまみれた獣の顔が見えるに違いない。
おさまらぬ己への怒りに、刃が埋まった藁束から、乱暴に剣を引き抜いた途端――、
「アドル様!」
弾んだフェリエナの声と同時に、ばたりと裏庭へ通じる扉が開けられた。
◇ ◇ ◇
夕刻、村人のための薬を
パタタを植えてからすでに三週間が過ぎている。
こんもりと土が盛られた
畝を見るたび、フェリエナは、どうか無事にパタタの芽が出てくれるようにと、祈らずにはいられない。
フェリエナの正体を知らぬとはいえ、純朴な笑顔を向けてくれる村人達の役に、少しでも立ちたくて。
だが、パタタの芽はまだ一つも出てこない。
フェリエナも、パタタを植えたのはほんの何度かだ。アドルには寒さに強い植物だと説明したが、実際にフェリエナが確かめたわけではない。芽が出ずに、土の中でパタタを腐らせてしまったこともある。
どうかどうかと、今日も折るような気持ちで畑を見に来たフェリエナは。
畝の中、ほんのわずかに土を持ち上げる芽を見た途端、安堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになった。
が、なんとか踏みこたえ、すぐに身を
スカートの裾をからげ、駆け込んだのは城の中だ。
「ギズ! アドル様はどちらに!?」
廊下で出くわしたギズに、息せき切って問う。
「アドル様でしたら裏の――」
「ありがとう!」
礼もそこそこに駆け抜けたフェリエナを、ギズが驚きの目で見送るが、かまっていられない。
少しでも早く、アドルに伝えたい。
きっと、とても喜んでくれるだろう。
心をとろけさせるようなアドルの笑顔を想うと、それだけで心が弾み出す。
「アドル様!」
城の裏へと通じる扉を、勢いよく開け放つ。
開けた途端、強い西日が視界を
紅く染め上げられた景色の中で、振り上げられた剣が
そこにいるのがアドルだと理性が判断するより先に、恐怖が悲鳴をほとばしらせていた。
アドルの常ならぬ殺気立った顔。逆光の中で、目だけが暗い感情を宿して、飢えた狼のようだ。
全身に震えが走り、冷や汗が吹き出す。
うまく呼吸ができない。地面が泥沼に変わったように、足元がおぼつかない。
心の奥底に押し込めていたはずの、だが決して忘れられぬ恐怖の記憶が、
怒号。悲鳴。刃。血飛沫が飛んだ床。そこに倒れるのは――。
押し寄せる恐怖に固く目を閉じ、フェリエナは意識を闇に、手放した。
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