17 眠る貴女の手にふれて


 絹を裂くような悲痛な悲鳴を上げたかと思うと、フェリエナが糸が切れた人形のようにくずおれる。


 剣を放り出し、駆け寄ったアドルは、フェリエナが地面にくずおれるすんでのところで、華奢きゃしゃな身体を抱きとめた。

 意識を失ったフェリエナの顔は蒼白で、表情は恐怖と苦悶に彩られている。


 フェリエナの悲鳴が聞こえたのだろう。ギズがあわただしく廊下を駆けてくるのが見えた。後ろにはメレの姿もある。


「何があったのですかっ!?」

 ギズが気遣わしげに問う。アドルは力なくかぶりを振った。


「わからん。急に……」


 アドルを見た途端、悲鳴を上げて気を失ったが……。アドルの姿が、気を失うほど恐ろしかったのだろうか。


 そうかもしれない。先ほどの自分は、飢えた獣のような顔をしていただろう。

 だが、まさかここまでフェリエナをおびえさせてしまうとは、思ってもみなかった。


 ともかく。フェリエナをこのままにはしておけない。


「フェリエナを部屋へ運ぶ。メレ、手伝ってくれ。ギズは剣を片づけておいてくれるか?」


 二人の返事も待たずにフェリエナを抱き上げ、歩を進める。階段を上がり、フェリエナの部屋まで来ると、ついてきていたメレがさっと扉を開けた。


 婚礼の日の夜に中をちらりと見たことはあるが、実際に室内へ入るのは、フェリエナの部屋となってからは初めてだ。


 一瞬、薄い夜着をまとったフェリエナが脳裏をよぎり、アドルは振り切るように大きく一歩踏み出す。


 代々、領主夫人の部屋として使われているこの部屋は、かつてはアドルの母の居室だった。

 数年前に母が病で亡くなって以来、主人をうしなった部屋は、陰鬱いんうつな雰囲気をたたえていたのだが、新しいあるじを得て以来、見違えるように明るく、華やかになっている。


 フェリエナが婚礼道具として実家から持ってきた色あざやかなタペストリーや、虫除けも兼ねて、部屋のあちらこちらに置かれたハーブの匂い袋のせいかもしれない。フェリエナの人柄がにじみ出ているような、居心地の良さそうな部屋だ。


 アドルが寝台に近づくと、メレが手早く掛け布団をめくり、主人の足からそっと靴を脱がせる。


 アドルは硝子がらす細工を扱うように、そっとフェリエナを寝台に横たえた。


 ぴくりとも動かないフェリエナの面輪おもわはいまだに血の気がなく、眉根がきつく寄っている。


「アドル様、後はわたくしが……」

 申し出たメレに首を横に振る。


「いや。フェリエナが心配だ。せめて、目が覚めるまではそばにいる。メレ、お前もつきあってくれるか?」


 本当にアドルを見て恐怖のあまり気を失ったのだとしたら、目覚めた時にアドルがいては逆効果になるだろう。


 それがわかっていても、この状態のフェリエナを放っておくなんてことは、とてもできない。

 少し様子を見て大丈夫そうなら、後はメレに任せればいいだろう。


 アドルの申し出に、メレは笑顔で「もちろんですわ」と頷く。


「ですがアドル様、間もなく夕餉ゆうげでございます。フェリエナ様にはわたくしがついておりますので、どうぞ召し上がってきてくださいませ」


「いや、迷惑でなければ、ここで食べよう」

「では、お持ちいたしましょう。どうぞ、おかけになってお待ちくださいませ」


 なぜだか嬉しそうに告げたメレが、アドルに椅子を勧めた後、部屋を出て行く。

 扉がぱたりと閉まり、椅子に腰かけたアドルは、再びフェリエナに視線を向けた。


 そんな場合ではないと承知していながらも、フェリエナと二人きりなのだと思うと、鼓動が速まる。

 二人きりにならぬよう、注意していた反動もあるのかもしれない。


 女性の寝顔を見つめる不作法に気づき、一つ吐息してかぶりを振る。

 やはり、早々に席を外した方がいいのかと悩みかけ。


 ふと、違和感を覚えて、アドルは再びフェリエナに視線を向けた。

 見つめた先は、掛け布団の上に力無く投げ出された左手だ。


 フェリエナは令嬢らしからぬ荒れた手に強い劣等感を持っているようだが、正直なところ、アドルにはよく理解できない。


 領主とはいえ、こんな小さなヴェルブルク領では、アドル自身、村人に混じって農作業をすることも少なくない。

 アドルには、働き者の良い手だとしか映らないが、女性には女性の悩みがあるのだろう。加えて、富裕なネーデルラントでは、農作業をする貴族など、どこを探してもいないに違いない。


 フェリエナが気にしているので、アドルはできるだけ手については話題にしないよう気を遣い、見ないようにしてきた。だが。


(……これは、農作業で荒れた手ではなく……?)


 投げ出された手におずおずとふれ、持ち上げる。フェリエナは眠ったままだ。


 少し荒れて、かさかさとした細い指先。短く爪を切った清潔な指には、無数の傷痕が白い線となって残っている。

 まるで、肌の上に白い顔料ででたらめに線を引いたかのような。


 騎士として何度も怪我を経験し、一方で、農夫達とふれあう機会の多いアドルには、わかる。


(これは、農作業で荒れてできた傷ではない。もっと何年も前についた、古傷のあとだ……)


 固いとげ状のもので引っかけば、こんな傷が残るだろうか。

 だが、両手だけでなく、手首近くまでびっしりと傷だらけになるなど、只事ただごとではない。


 素手で薔薇ばらんでも、ここまでの傷にはならないだろう。決して、単なる農作業でつくような傷ではない。


 アドルは眠るフェリエナを見つめた。


 いったい、フェリエナの身に、過去に何があったというのだろう。ここまでの傷を負うなんて、きっと手が血塗ちまみれになったはずだ。


 フェリエナの左手を掴む自分の手に、我知らず力がこもっていたのに気がついて、アドルは慌てて手を放した。


 そんなことは不可能だと承知していながらも、フェリエナが傷を負った場所に、自分がいれなかったことが悔しい。

 もしその場にいたら、彼女を傷つけようとするあらゆるものから、身をていして守り抜いたものを。


 そこまで考え、アドルは苦い自嘲の笑みを浮かべる。


(一番、彼女を傷つける危険のあるわたしが、フェリエナを守りたいなどと、おこがましいにもほどがあるな……)


 フェリエナの恐怖に満ちた顔と悲鳴が、脳裏にちらつく。


 彼女のためを想うなら、今すぐアドルから引き離し、故郷へ返してやるべきだろう。

 だが……。


 ヴェルブルク領のためにそれはできないと、理性が冷静に告げると同時に、フェリエナを手放したくないと感情が叫んでいる。


 親愛のこもった眼差しが、花のような可憐な笑顔が、知性と優しさを感じさせる柔らかな声が、自分以外の誰かのものになってしまうなど、耐えられない。


 ふれてはならぬ花嫁だと知っていてなお――他の男が彼女にふれるなど、嫉妬で気が狂いそうになる。


「くそ……っ」


 己の愚かしさを呪うようにうめき、乱暴に片手で髪をき乱す。


 こんなはずではなかった。

 持参金目当てで娶った花嫁に、これほど心奪われるなど。


 逆の覚悟なら、いくらでもしていた。


 親愛の欠片もない、冷ややかな夫婦生活。田舎者よとさげすまれようと、たとえ愛人を作って火遊びをされようと、耐える気でいた。


 たった一つの、望みのために。


「……テ……」


 脳裏で微笑む女性ひとの名を、アドルは苦くにがく、呟いた。


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