9 それは、明かさぬはずの秘密


「っつう……」

 痛いのは身体か、心か、それとも両方か。


 低く呻いて、アドルは階段の途中で腰かけた。


 気持ちが悪い。吐きそうだ。

 いっそこのまま、泥人形のように、形もなく崩れ去ってしまえばいいと思う。


 こんなつもりではなかった。フェリエナを傷つけぬよう、もっと穏やかに告げるつもりだった。

 だが――。たおやかなフェリエナの姿を見た途端、すべて頭から吹っ飛んでしまった。


「くそ……っ」

 太ももにひじをついた両手で、頭を抱える。

 乱暴に髪をき乱したアドルの耳に、軽い足音が届いたかと思うと。


「アドル様! 大丈夫ですか!? どこかいためられたのでは……!?」


 あわてふためくフェリエナの声が降ってきて、アドルは弾かれたように顔を上げた。


 薄物の夜着やぎから地味なドレスに着替えたフェリエナが、心配そうにアドルの前に膝をついている。

 よほど急いで来たのだろう。緩やかにうねる栗色の髪はほどかれたままで、桃色の唇からは荒い息がれている。


「ご気分がすぐれないのですか? まさか、頭を打ったりなど……っ」


 心配そうに眉を寄せ、フェリエナが華奢きゃしゃな指先を伸ばす。

 その手が頭にふれる前に、アドルは乱暴に掴みとった。


「大丈夫です」


「ですが……」

 愛らしい顔をしかめて言い募るフェリエナに、反射的に荒々しい気持ちが湧き起こる。


「わたしのことなど放っておいてください!」


 自制しなければと思うより先に、言葉は口から飛び出していた。

 手を振り払われたフェリエナの面輪おもわが、傷ついたように一瞬歪む。だが。


「怪我をしているかもしれぬ方を、放っておくわけにはまいりません!」


 予想だにしない力強い声で言い切られ、息を飲む。

 だが、反発心が口から抗弁をほとばしらせていた。


「わたしは貴女に心配してもらえるような者ではありません!」

 「なぜ……」とこぼれた声は、苦く、弱い。


「なぜ、そのようにわたしに尽くそうとしてくださるのですか? わたしは……」


「……妻なのですから、当然のことでございましょう?」


 静かな声が、かえってアドルを激昂げっこうさせる。

 思わずアドルは、顔を上げてフェリエナをにらみつけていた。


「確かに、神父様はわたし達を夫婦であると認めました! ですが、わたしは……っ」


 言うな。言ってはいけない。

 なけなしの理性が叫ぶ。


 しかし、一度こぼれ出した言葉は、止められない。


「この辺りの土地は寒く、土壌はおとろえています。ほんの数年、不作が続くだけで、あっという間に餓死者を出すほどに……」


 海に面した地理と穏やかな気候に恵まれたネーデルラントで暮らしてきた令嬢は、そんなことなど知らぬだろう。

 アドルも、あえて告げようとはしなかった。――何としてもフェリエナを手に入れる、そのために。


「ヴェルブルク領はもう、のっぴきならないところにまで来ているのです。貴女がもたらしてくれた持参金、それがなければ、今年の冬すら越せぬほどに」


 苦い、自嘲に満ちた声がこぼれる。


 もちろん、アドルとて手をこまねいて見ていたわけではない。

 何とかできることはないかと、様々な手段を講じた。


 賦役ふえきを減らして領民の負担を減らし、城で所有する農具も水車小屋も、ほぼ無償で貸し出した。


 だが、大いなる自然に人がどこまであらがえるものだろう。


 一年目は、何とか乗り越えられた。

 しかし、二年目には早くも城の食料の備蓄が尽き、三年目には……。


「っ!」

 胸を貫く痛みに、固く目を閉じる。


 目を開けてフェリエナの顔を見る勇気が出ず、アドルは顔を伏せたまま、懺悔ざんげする。


「貴女を妻にと望んだのは、富裕なロズウィック家が、娘の嫁ぎ先を探しているという噂を聞いたためです。そして……」


 半信半疑のまま、聞いた噂を口にする。


「貴女は、海を渡った先の、不思議な植物を育てられると……」


 そんなお伽話とぎばなしのような噂にすがらねばならないほど、ヴェルブルク領は追い詰められていた。


 今日の宴の料理すら、事前に預かっていた持参金に、勝手に手をつけて用意したものだ。


 本来なら、妻の持参金を夫が勝手に使うなど、許される所業ではない。これが外へ洩れれば、ただでさえ地に落ちているアドルの評判は、地の底にまで沈むだろう。


 そう、アドルがフェリエナを引きずり込んだのは、輝かしい新生活などではなく、不毛と貧困にあえぐ地獄だ。


 もし、神がアドルの行いを見ていたら、今すぐ神罰を下すに違いない。


「謝ってすむ問題ではないのはわかっています! すぐに離婚を申し立てられて当然の事態だとも。ですが……っ。この罪は、貴女が望むままに償います! 数年間でかまいません! どうか、わたしに猶予ゆうよを――」


 ひるむ心を叱咤しったし、勇気を振り絞って顔を上げる。


 いくら酔っていたとはいえ、フェリエナにヴェルブルク領の窮状きゅうじょうを伝える気など――フェリエナを娶った本当の理由を言う気など、全くなかった。


 こんな懺悔など、卑怯な逃げ以外の何物でもない。


 フェリエナに秘密を抱いているのが苦しくて……己が楽になるためだけに、真実を彼女にぶつけた。


 可能ならば、今すぐ首をかき切って、許しを請いたい。

 だが、それすらも自己満足にすぎないのだろう。


 どんな罵声を投げつけられても甘受しようと思い定め、フェリエナを見たアドルは、可憐な面輪おもわに浮かぶ表情を見て、絶句した。


 フェリエナの面輪に浮かんでいたのは、なげきでも怒りでも、どちらでもなかった。


 ありえない――長年、探し求めていた難問の答えを見つけたような、晴れやかな表情。


「フェ、フェリエナ嬢……?」


 これは、酔いが見せた幻なのだろうか。

 今夜の出来事は、どこまでが現実で、どこからが夢なのだろう?


 不安に駆られて伸ばした指を、逆にフェリエナに掴まれた。

 かさかさと乾いた、傷だらけの手。


 アドルが本気で力を込めれば、握りつぶしてしまいそうに小さな両手が、ありったけの力を込めて、アドルの右手を握りしめている。


 新緑の色の瞳をきらめかせ、頬を染めてフェリエナが口を開く。


「アドル様! ありがとうございます! わたくし……わかりましたわ!」


「……は?」


 自分のものとは思えない、間抜けな声が出る。

 先ほどの話で、なぜ感謝の言葉が出てくるのだろう?


 というか。

 「何」が「わかった」のか。


「フェ――」

 アドルの呼びかけは、ギズの叫びに遮られた。


「アドル様!? それに、奥方様まで!? こんなところで、いったい何をなさっているのです!?」


 螺旋階段を上がってきたギズが、座り込んでいる主人夫妻を見つけて、目をむく。


「アドル様が階段で足を滑らせたのです。頭は打ってらっしゃらないようですけれど……」


 フェリエナの言葉に、ギズが目を怒らせる。

「ですから、お酒はほどほどにと……! 大丈夫ですか? お怪我は?」


 アドルはギズに支えられ、立ち上がる。

 手を握ったままのフェリエナも立ち上がり、その拍子に、解かれたままの長い髪がふわりとアドルの腕にかかる。


「ギズ。お前、目を閉じろ」


「はい?」

 いぶかしげに返しつつ、ギズが忠実に目を閉じる。


「フェリエナ嬢。ここはもう、大丈夫です。その、髪が……」


「あ……っ。も、申し訳ありません。では、ギズに任せてわたくしは先に失礼いたします。お大事になさってくださいませ」


 貴族の女性がほどいた髪を見せる異性は、父親か夫くらいだ。

 己の姿に気づいたフェリエナが、うっすらと頬を染め、あわてて螺旋階段を上がっていく。


 軽やかな足音が消えてから。


「もう目を開けていいぞ」

「はあ……」


「というか……」

 アドルは自分よりわずかに背の低いギズの肩に、もたれかかる。


「ギズ、一つ教えてくれ。わたしは……。まだ酔っ払って寝こけているのか?」


「わたくしも、見た瞬間、夢かと思ったんですがね」

 はあ、とギズが深く吐息する。


「残念ながら、現実でございます」

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