8 初めて迎える夜の……。


 貴族の城の常として、ヴェルブルク城でも、領主と奥方の部屋は、隣り合わせだが別室になっている。


 酔いにふらつく身体で何とか三階まで上がったアドルは、ざらざらとした石壁に手をついて、大きく息を吐いた。


 今夜は、本当に飲み過ぎてしまったらしい。三階へ上がるのに、これほど苦労したのは初めてだ。


 動いたせいで酔いがさらに回って、夢かうつつかわからなくなる。

 実は、今もエディスの向かいで寝こけているのではなかろうか。


 薄暗い廊下のところどころに蝋燭ろうそくがわずかに灯されているばかりで、周囲には人影一つない。昼の婚礼の宴のにぎやかさが嘘のように、城内はしんと静まり返っている。


 先代領主の奥方――アドルの母から、今はフェリエナのものとなった部屋の前で、アドルはためらった。


 いったい、何と伝えればいいのだろう。

 初夜を迎える気がないのは、決してフェリエナのせいではなく、アドルの……駄目だ、頭が回らない。


 頭痛を覚えて額を押さえようとした途端、目測を誤って、右手をがつんと扉にぶつけた。

 扉の向こうで気配が動く。


「アドル様?」

「フェリエナ嬢、その……」


「鍵でしたら、開いております」

 緊張と不安に、微かに震える声。


 今更ながら、アドルはフェリエナを放っておいた自分をののしりたくなった。


「すまなかった。その……」

 びつつ、扉を開け。


 寝台に座る、薄物の夜着やぎまとったフェリエナを見た途端、頭が真っ白になった。


 とっさに、叩きつけるように扉を閉める。


「アドル様!?」

 フェリエナが扉へ駆け寄る軽い足音。


「来るなっ!」

 動揺のあまり、ひび割れた声で叫んだ瞬間、扉の向こうのフェリエナが、ぴたりと足を止めたのがわかった。


「フェリエナ嬢! わたしは貴女と寝台を共にする気はない! 今後もだ! それだけを言いに来たんだ! 今夜はもう、休んでくれ!」


 一方的に叫び、返事も待たずに身をひるがえす。


 一瞬でも足を止めたら、優美な肢体が放つ誘惑に、あらがえぬ気がして。


 夜着の上からでもわかる、まろやかな曲線。

 一目、見ただけだというのに、理性をかすようなフェリエナの可憐な姿が、まなうらにきついたように離れない。


 心臓がみっともないほど高鳴っている。酒のせいではなく、身体が熱い。


「うわっ!」


 一刻も早く危険から遠ざかろうとするアドルは、ものの見事に階段を踏み外した。

 がたたっ、と何段か滑り落ち、したたかに背中と尻を打ちつける。


「大丈夫ですか!?」

 ぎい、と扉がきしむ音に、痛みも忘れて声を張り上げる。


「そんな格好で外へ出るなっ!」


 あんな格好のフェリエナがそばへ来たら、己に立てた誓いを、あっさり反故ほごにしてしまいそうだ。


 アドルの怒鳴り声にぱたりと扉が閉まる音がし、ほっと安堵する。

 間違っても、今のフェリエナの姿を、己以外の男の目にふれさせるわけにはいかない。


「くそ……っ!」


 誰にか、あるいは何に対しての怒りかもわからぬまま、吐き捨てると、アドルは身体の痛みを無視して立ち上がり、よろよろと階段を下り始めた。



 ◇ ◇ ◇



「そんな格好で外へ出るなっ!」


 刺すように鋭いアドルの声に、フェリエナはびくりと身体を震わせた。


 何が起こったのか、全く理解が追いつかない。

 ついさっきまで、生まれて初めて迎える夜に、おびえ、緊張し、身を固くしてアドルの訪れを待っていたはずだ。


 正直、フェリエナは初夜について、年かさの侍女から聞いた知識しかないが……先ほどのアドルとのやりとりが、フェリエナが果たすべき初夜でないのだけは、嫌でもわかる。


 アドルは、寝室に入ってさえいないのだから。

 というか。


 アドルに投げつけられた言葉を反芻はんすうする。


 「寝台を共にする気はない」と、アドルは言っていた。「今後も」とも。

 それはつまり……。


 まなじりに熱を感じ、フェリエナは固くまぶたを閉じた。

 不安だった初夜を避けられたという安堵よりも激しく、フェリエナをさいなむ想いは。


 固く、血がにじむほどに唇を噛みしめる。

 結婚式は挙げた。神父の前で、二人は夫婦であると認められた。けれど。

 寝台を共にしないということは。


(アドル様は、わたくしと正式な夫婦になられる気は、ないのだわ……)


 アドルの求婚がたわむれではないとわかった時、天にも昇りそうなほど、嬉しかった。


 初めて、フェリエナに「手など関係ない」と、真正面から告げてくれた人。

 宝物をためつすがめつするように、アドルの言葉を、何度、心の中で思い返したか。


 けれど。


(アドル様は、「貴女あなたが必要です」とおっしゃってくださったけれど……。アドル様が本当に必要なのは、わたくし自身ではなく、「わたくしの持参金」だったのだわ……)


 持参金をあてにして、あえての瑕疵かしある娘をめとる者もいるという話は、聞いたことがある。


 フェリエナは父親がいくらの持参金を出したのか知らないが、あの父のことだ。ロズウィック家の厄介者であるフェリエナをアドルに押しつけるために、かなり高額の持参金をつけただろうことは、疑いようがない。


 アドルが持参金目当ての人物だとは思いたくないが……。この状況で、他にどう考えればいいのだろう。


 泣くまいと、両手を固く握り締める。

 浮かれていた己が悪いのだ。勝手な期待を抱いていたのはフェリエナだ。アドルは悪くない。


 むしろ、「ロズウィック家の恥晒はじさらしが」と言い続けていた父から引き離してくれただけで、感謝すべきだろう。

 だから、涙を流す必要など、どこにもない。


(大丈夫。妻としての務めは、他にもあるもの。せっかく娶ってくださったアドル様に、これ以上、失望されないようにしなければ……)


 そこまで考え、今はそれどころではないと思い出す。


 先ほどのアドルの悲鳴。

 扉の向こうはしんと静まり返っているが、もしアドルが階段を踏み外して、気を失っていたら……。


 そう考えるだけで、不安に足元が崩れていくような気がする。

 フェリエナはあわただしく夜着を脱ぎだした。

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