7 新郎は、初夜に酔う


「アドル様!? いったい何をなさってらっしゃるんですか!?」


 悲鳴のようなギズの声に、アドルはテーブルに突っ伏していた顔を、のろのろと持ち上げた。

 すぐ目の前では、同じく酔い潰れたエディスが、向かいに座ったままテーブルに突っ伏して、いびきをかいて眠っている。


 首を動かすことすら億劫おっくうに感じながら、ゆるゆると視線を向けると、アドルの横に立ったギズが、責めるような目で主人を見つめていた。


「婚礼の夜に何をなさっておいでです!? 奥方様がお待ちでいらっしゃいますよ!」


 告げられた瞬間、っぱい葡萄酒を喉に流し込まれたような気分になる。

 荒々しく吐き出した息は、自分でも驚くほど酒の気配が濃い。


「……彼女の部屋を訪れるつもりはない」


「はっ!? 何をおっしゃっているんですか!? 酔っぱらい過ぎて、頭の働きが止まってしまわれましたか!?」


 目をむいたギズが、アドルへ手を伸ばす。アドルはその手を乱暴に振り払った。


「わたしはいたって真面目だ。酔ってはいるが、まともな判断力は残っている」


「……まともな判断力のある新郎のお言葉とは思えませんが」

 ギズがじとっ、とアドルを見つめる。


「婚礼の夜に花嫁の寝台に向かわぬ新郎が、どこの国にいるというのですか?」


「ここにいる。――ああ、言っておくが」

 アドルは酒臭い息を投げやりに吐き出した。


「今夜に限らず、今後も、わたしは彼女と寝台を共にする気はない」


「……この上なく、酔ってらっしゃるようですね」

 ギズが手近にあった木の杯に、水差しの水を注いで差し出す。


 受け取り、喉を鳴らして飲み干したが、この程度で酔いが薄まるわけがない。

 酒に強いエディスを酔い潰すほど、二人で杯を重ねたのだ。


 まるで、身体が酒樽になったように頭が働かない。悪い酔いが身体を満たして、腕を上げるのさえ、億劫だ。

 だが、これほど酔ってもなお、岩でも飲んだように、胸の中に苦い想いが渦巻いている。


「わたしはフェリエナ嬢と、『本物の夫婦』になる気はない」


 苦さを吐き出すかのように、アドルはきっぱりと断言する。


「そうすれば、いつか、彼女が必要でなくなった時に、『白い結婚』で婚姻の無効を訴えられる」


「ありえません! 花嫁が幼い少女ならともかく……。奥方様はもう、十八歳でしょう!? よしんば実行したとして、誰が奥方様の純潔を信じるというのです!?」


 『白い結婚』というのは、初夜を迎えず、花嫁が清らかなままでいる結婚のことで、花嫁がまだ幼い場合に適用される。


 王侯貴族の政略結婚では、まだ身体が成熟してもいない幼い少女や少年が、花嫁や花婿を押しつけられることも珍しくない。

 『白い結婚』ならば、嫁ぎはしたものの、夫婦関係が成立していないということで、婚姻の不成立を申し立てる余地が生まれる。


 教会の教えにより、一度と結婚したら、離婚などまず認められない中で、結婚を解消する数少ない手段の一つだ。


 ギズの指摘通り、適齢期の男女が結婚して、それが『白い結婚』であることなど、まず、ありえない。


 我ながら、馬鹿げたことを考えているという自覚はある。

 しかし、だまし討ちのようにフェリエナに結婚をいたアドルができることなど、このくらいしか思い浮かばない。


「教会の教えに従う限り、ふつうの結婚生活を営んでは、離婚はできん。あとは、寡婦かふになるくらいだが……。さすがに、命を捨てるわけにはいかんからな」


「当り前です! 不吉なことをおっしゃらないでください! ……生き延びるために、奥方様をめとったのでしょう?」


 諭すようなギズの声に、「その通りだ」と頷く。


「わたしの代でヴェルブルク領を終わらすことはできん。領民達のためにもな。だが、そのために縁もゆかりもない令嬢の一生を台無しにするわけにはいかぬだろう? 彼女はまだ若く、美しい。幸せな結婚ができる可能性を、わたしがみ取るわけにはいくまい」


 誰にも告げるつもりのない夢想は、そっと胸底へ押し隠す。


 もし、自分が豊かな領のあるじで。何の企みもなく、純粋に彼女をめとっていたら。


 今頃、我を忘れて彼女に溺れていただろうか。


 花のようにたおやかなフェリエナを想い、馬鹿なことをと自嘲する。


 こうであればと願う甘やかな時間は、時の彼方へ、とうに過ぎ去った。

 アドルがするべきことは、どんな手段を取ろうとも、ヴェルブルク領を立て直すこと。


 たとえ、それが花のように笑う可憐な乙女を傷つけるようになろうとも……。あの悲劇だけは、決して繰り返さない。


「……ヴェルブルク領の存続を考えられるのでしたら、早くお世継ぎをもうけていただきたいというのが、臣下としての願いですがね」


 ギズの訴えは無視する。

 アドルは二十一歳。領の立て直しに、十年を要したとしても、まだ三十過ぎ。十分に子どもを望める年齢だ。


 アドルの瞳に宿る固い決意を読み取ったのだろう。

 ギズが深く、諦めの息をつく。


「臣下としては、そんな馬鹿げたことはおやめくださいと、膝を詰めて説得したいところございますが……」


 頭が痛いと言わんばかりに額を押さえて、ギズが首を横に振る。

 が、次いでアドルを見た目には、柔らかな笑みが浮かんでいた。


「友人としては、貴方のその甘いところは、嫌いではないですよ」


「ギ……」

「ですがっ!」

 ギズが目を怒らせる。


「婚礼の夜に、不安であろう花嫁をお一人で放っておくなど、言語道断です! アドル様が勝手に決意を固められるのは結構ですが、奥方様に一言あってしかるべきでしょう!? 奥方様を傷つけぬように、ちゃんとご説明なさったのでしょうね!?」


 ギズの言葉に、がつんと頭を殴られたような衝撃を受ける。


 ギズの言う通りだ。己の考えに囚われすぎていて、フェリエナの不安にまで、気が回っていなかった。酔っていたとはいえ、大失態だ。


 あわてて立ち上がった途端、ぐらりと身体がかしいだ。


「まったく。どれほど飲まれたんですか。さほどお強くないというのに」

「わからん。……が、エディスも酔い潰れる程度には」


 とっさに支えてくれたギズに応える。

 かなり深酒をしてしまったらしく、頭にかすみがかかったようにぼんやりする。


「さあ、早く奥方様のところへ行ってさしあげてください!」


 ギズに促され、上階へと続く螺旋らせん階段へのろのろと歩き出す。まるで、泥の中を歩いているようだ。


 だが、ギズの言う通り、フェリエナを放っておくわけにはいかない。

 使命感に突き動かされて進むアドルは気づかなかった。


「いっそのこと、酔った勢いで初夜を迎えてしまえば、愚かな誓いを守る必要もないと思うんですがね……」


 アドルが誰より信頼する乳兄弟が、ぼそりと呟いた言葉に。

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