10 夕べの記憶を、たぐり寄せ


「ううぅ……」

 ずきずきと痛む背中に眠りを妨げられ、アドルはうめきながら目を覚ました。


 起き上がった拍子に、頭に激痛が走る。

 鎧戸よろいどの隙間から差し込む明るい光が、とうに朝だと告げていた。


 頭が割れるように痛い。吐き気がする。

 夕べ、何かあったかとあやふやな記憶を手繰たぐろうとして。


「フェリエナ!」


 大きく息を吸いこんだ瞬間、部屋に満ちるいつもと違う香りに気づく。

 野を歩いた時の、踏み潰された草の匂い。


 寝台の横の卓を見て、匂いの元を知る。


「これは……薬、か?」

 草色の軟膏なんこうが入った小皿と、似た色の液体が満たされた杯。


 ギズが用意したのだろうかと疑問に思うが、今はそれどころではない。


 寝乱れた夕べの格好のまま、部屋を飛び出す。向かった先は、隣にあるフェリエナの部屋だ。


「フェリエナ嬢! いらっしゃいますか!?」

 乱暴に扉を叩くが、返事はない。


「失礼します!」


 扉に手をかけると、鍵のかけられていない扉が、意外なほどすんなり開く。

 部屋の中は――無人だ。


「くそっ!」


 毒づき、身を翻す。

 吐き気も痛みも忘れ、階段を駆け下りる。


 一歩踏み出すたび、焦燥が胸をく。


 寝過ごしたせいか、今朝に限って誰にも会わない。それが、心に押し寄せる不安に拍車をかける。


 息せき切って、城の外へと飛び出し。

 一人の下女の後ろ姿を見つけ、アドルは駆け寄った。


 質素な薄茶の服と、綺麗に洗濯された、ウィンプルと呼ばれる白い髪覆かみおおい。

 髪覆いというのは、髪の汚れを防ぐため、主に既婚女性が髪を隠すようにかぶる白い布だが、アドルが知る髪覆いとは少し形の違うそれに、少しだけ安堵が湧く。


 フェリエナの下女がいるということは……。


「そこの者! フェリ――」


 焦るあまり、乱暴に下女の肩を掴んで振り向かせる。


 小さく悲鳴を上げてよろめいた下女の身体がアドルの胸に当たり、抱えていたかごに入っていた物が、ごろりと地面に転がり落ちた。


 が、それに気をとめる余裕などない。


「っ!?」

 反射的に抱きとめた下女が、探し求めていたフェリエナ本人だと気づいて、絶句する。


「フェリエナ嬢!?」

 腕の中にいるフェリエナにきょとんと見上げられ、狼狽ろうばいする。


 いったい、何が起こっているのか。

 酔いのせいで、夕べの記憶はあやふやな所がある。

 だが、領の窮状きゅうじょうをフェリエナに明かし、彼女を絶望に叩き落した罪悪感だけは、痛みを伴うほど、鮮明に胸にきついている。


 だからこそ、もしかしたらフェリエナは故郷に帰る気かもしれないと、起きるなり、探していたのだが。


 まさか、フェリエナが下女と変わらぬ質素な格好で庭にいるなんて、想像の埒外らちがいすぎる。


「おはようございます。お加減はいかがですか?」

 心配そうに尋ねられ、ようやく頭と背中の痛みを思い出す。


「あの、ギズに頼んで、お部屋に薬を置いてもらったのですが……」

 言われて、部屋に置いてあった物が、フェリエナの気遣いだったのだと知る。


「あれは貴女が……?」


「ええ。カモミールとミントは、二日酔いによく効くんです。蜂蜜を入れて、飲みやすくしたんですが……。軟膏には、打ち身に効く弟切草とアルニカを使っています」


 とうとうと流れるように話すフェリエナを、呆気あっけに取られて見つめる。

 こんなに話すフェリエナを見たのは初めてだ。


「す、すみません。長々と……」

 恥ずかしそうにフェリエナが身じろぎし、アドルはあわててフェリエナを掴んでいた手を放した。


「いえ……。さすが、薬草におくわしいのですね」


「このくらいしか、取り柄がありませんもの」

 アドルとしては褒めたつもりだったが、返ってきたのは、どこか苦い笑みだった。

 籠を持つフェリエナの両手に、力がこもる。


 何か、失敗をしてしまったのだろうか。

 夕べから、ひどい失敗続きだ。


 フェリエナに弁解したいが……今度こそ、愛想を尽かされるかもしれないという恐怖が、アドルの唇を強張らせる。そもそも、何をどう言えばフェリエナを笑顔にできるのか、アドルにはまったくわからない。


 アドルは小さく吐息して、地面に落ちた物を拾い上げた。


「これは……?」


 いぶかしさに眉根が寄る。

 アドルの手の中にあるのは、今まで見たこともない代物だった。


 大きさは握り拳ほど。色はくすんだ薄い茶で、まるで膨らみそこねたパンのように、でこぼこしている。

 あまりの不格好さに、何か良くない物ではないかと危ぶんでしまう。


 アドルの不安を知ってか知らずか、フェリエナが晴れやかな顔で告げる。


「パタタですわ」

「パタ……タ?」

 可憐な笑顔に一瞬、目を奪われ、ぎこちなく繰り返す。


「ええ。新しい大陸から渡ってきた植物の一つです」

 フェリエナの言葉に、手の中のパタタなる植物に目を落とす。


 十数年前、スペインの船乗りが新しい大陸を発見し、世界中の人々の度肝を抜いたことは、ドイツの片田舎に暮らすアドルでも知っている。

 というか、お伽話とぎばなしのような荒唐無稽こうとうむけいな話に賭け、フェリエナをめとったのはアドル自身だ。


 いわく、新大陸には、金になる珍奇な植物がたくさん生えている、と。

 そして、フェリエナは新大陸の珍しい植物を育てていると……。


 アドルはあらためて手の中のパタタを見つめた。

 確かに、珍奇だ。こんな不格好な作物、誰も見たことがないだろうという意味で。


 が、こんな物が金になるとは、とても思えない。


「あの……。このパタタというのは、いったい何なのですか?」


 今まで見たどんな作物とも違い過ぎて、まったく見当がつかない。植物だと言われなかったら、固まった不格好な泥団子と思っただろう。


 おずおずと尋ねたアドルに、フェリエナはにこやかな笑顔であっさり答える。


「食べ物ですわ。見た目はよくありませんけれど、おいしいんですよ」


「えっ!?」

 驚きのあまり、パタタを落としかける。


 食べ物? おいしい? この不気味な物体が?


 よほどアドルが変な顔をしていたのだろう。

 フェリエナが珍しく声を立ててくすくすと笑う。パタタの不気味さも頭から吹き飛びそうになる愛らしい笑顔に、目が奪われる。


「よろしければ、召し上がってみませんか?」


「えっ!?」

 二度目の驚愕きょうがくの声を上げ、ぴしりと固まる。


 騎士として育てられて二十一年。多少のことでは恐怖を感じぬ胆力をつけられたと思っていたが、自惚うぬぼれだったようだ。


 が、フェリエナの前で、無様な姿をさらしたくはない。――昨夜で、もうさんざん晒してしまった気もするが。


「わかりました。いただきます」

 覚悟を決めて頷くと、フェリエナが花のような笑顔を見せた。


「かしこまりました。わたくしはもう少しだけ農作業が残っておりますので……。アドル様もまだ朝食がお済みではありませんでしょう? パタタを食べる準備をして、アドル様が朝食を食べ終えられた頃にお持ちいたしますわ」

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