5 新たな門出を迎える二人に、祝福を


 四月のあたたかな風が、咲き乱れる花の香りを優しく運ぶ。


 ヴェルブルク城の敷地内にある礼拝堂は、若き領主の結婚を寿ことほぐ村人達の笑顔であふれていた。

 まるで、咲き乱れる花々が、村人達の顔をも彩っているかのようだ。


 純朴そうな領民達の笑顔を見ていると、フェリエナの心まで弾んでくるような気がする。

 村人達を笑顔にしている理由が、自分自身の結婚式でさえなければ。


 瞳の色に合わせた濃い緑のドレスを纏ったフェリエナは、目の前の祭壇さいだんに立つ老神父から、隣に立つアドルへとちらりと視線を向けた。


 舞踏会の時と同じ、紺色の礼服に身を包んだアドルは、明るい昼間に見ても、ほれぼれするような美丈夫だった。むしろ、明るい方が彫の深い顔立ちが良く見える分、心臓に悪い気がする。


 自分がこれから、この青年の妻になるのだとは、婚礼の場に立つ今ですら未だに信じられない。


「神の名の下に、二人を夫婦として認めます」


 フェリエナは老神父の言葉に我に返った。前に向き直ると、老神父が穏やかな眼差しで新郎新婦を見つめていた。


「新たな門出を迎える二人に、祝福を」

 老神父がアドルの両頬に祝福のくちづけを授ける。


 結婚式では神父が新郎に祝福を授け、次いで新郎が新婦へ祝福のくちづけを贈るのが慣例だ。


 アドルと相対したフェリエナの心は緊張に震えていた。身体まで震え出してしまいそうだ。


 ダンスを申し込まれた夜以来、アドルとこんな風に近くで向き合ったことはない。

 舞踏会の後、父親の許可が下りるなり、大慌てで嫁入り支度を整えてネーデルラントを馬車でち、ドイツ中部の丘陵地帯にほど近いヴェルブルク領へ着いたのが、一昨日のこと。


 到着した際に挨拶をしたきり、婚礼の準備に追われて、アドルと会話した記憶すら、ない。


 心臓が、狂ったように跳ねまわっている。


 「祝福のくちづけ」をするということはつまり、初めての――。


 意識した瞬間、頬が燃えるように熱くなる。恥ずかしさにうつむいた視界に、アドルが一歩踏み出した爪先が入った。


 うつむいた頬に、遠慮がちにアドルの指先が伸びてくる。武骨な、けれど優しい手が頬にふれた瞬間、思わずびくりと身体が震えた。


 上を向かされた視線が、アドルの群青の瞳とぶつかる。

 気遣うような、どこか痛みをはらんだ眼差まなざし。


 それを疑問に思う間もなく、アドルの顔が下りてきた。


 ぎゅっ、と固く目を閉じる。

 アドルの吐息が睫毛まつげを揺らし――、


「花嫁に、祝福を」

 少し乾いた唇が、そっとくちづけを落とす。


 ――フェリエナの額に。


「……え?」

 驚きにかすかな声をらした時にはもう、アドルは来賓らいひん達に向き直り、式の後のうたげの開幕を告げていた。


 わあっ、と村人達の歓声が礼拝堂を満たす。


「フェリエナ嬢。どうぞ、こちらへ」

 振り返ったアドルが優しくフェリエナの手を取って促す。



 礼拝堂の外には、すでに宴の支度ができていた。


 城中のテーブルを集めてもまだ足りなかったのだろう。木箱まで総動員して造られた台の上には、様々な料理が所狭しと並べられている。

 領主の結婚式だけあって、こんな機会でなければ、村人が滅多に口にできない肉料理の皿も多い。


「おめでとうございます!」

「アドル様、奥方様に祝福を!」

「あのお小さかったアドル様が、こんなご立派に……。わしが生きている間に、こんな素晴らしい日を迎えることができるとは……っ」


 純朴そうな村人達が、喜びに顔を輝かせて、次々と祝福の言葉をかけてくる。その一つ一つに、アドルは笑顔で返していた。

 親愛に満ちたやりとりに、きっとアドルは領民想いのいい領主なのだろうと、ごく自然に推測する。


「これは美しい花嫁様だ!」

「アドル様は幸せ者でございますね!」

「奥方様。ここは小さいですが、よい村です。どうぞ、アドル様とお幸せに……」


 フェリエナにも次々と祝いの言葉がかけられるが、笑顔で「ありがとう」と返すことしかできない。


 これほどの人の波にもまれるのは、生まれて初めてだ。

 と、人の波をかき分け、身なりの良い青年がやってくる。


「アドル! お前、急にネーデルラントに行ったと思ったら、こんな愛らしい花嫁を連れ帰ってくるなんて……! いったい、どんな魔法を使ったんだ?」


 満面の笑みでアドルの前に立った青年が、次いでフェリエナに向き直る。


「お初にお目にかかります、美しい花嫁殿。わたしはヴェルブルク領の隣に位置する領の、領主が次男、エディス・フォン・フェルシュタインと申します。アドルとは、騎士見習いとして同じ城で過ごした時分からの昔なじみでして。どうぞ、エディスとお呼びください。このたびは本当におめでとうございます」


 エディスはフェリエナの絹の手袋に包まれた手をうやうやしくとると、片膝をつき、騎士が貴婦人へと贈るくちづけを手の甲へ落とす。


 故郷の貴族達のように洗練された所作というわけではなかったが、友人の結婚を祝福しようという思いやりと、はつらつな物言いに、緊張していたフェリエナの心も自然とほぐれる。


「初めまして、エディス殿。フェリエナと申します。こちらの風習にはうといため、ご無礼をいたすかもしれませんが、なにとぞご寛恕かんじょくださいませ」


 ドレスをつまみ、丁寧に一礼すると、エディスが息を飲んだ。

 早速、粗相をしただろうかと問うより早く。


「エディス。あちらにいい葡萄酒ぶどうしゅがあるぞ。好きだろう?」

 アドルが乱暴に友の腕をつかむ。


「えっ、おいっ!?」

「早く行かねば無くなるぞ」

 問答無用とエディスの腕を引いたアドルが、にこりとフェリエナに微笑みかける。


「フェリエナ嬢はお疲れでしょう。わたしと一緒にいれば、嫌でも客達の相手をしなければならなくなる。あちらで、座って休まれては?」


 アドルが指し示した先は、庭の一画に設けられた貴賓きひん席だ。エディスのような近隣の領から招かれた貴族達のための席らしい。


 おそらく、皆、挨拶に回っているのだろう。無人の貴賓席は、人の波の中で、ぽっかりと空いた小島のようだ。


「ありがとうございます」

 水を向けられて、自分の疲労にようやく気づく。

 これほど人の注目を浴びたのも、緊張し続けたのも、生まれて初めての経験だ。


「では、お言葉に甘えて少し休ませていただきます」


 アドルがエディスを引きずるように連れていくのを見送ってから、席へ向かう。

 背もたれのある椅子に腰かけると、思わず深い吐息がこぼれた。


 思った以上に疲れているらしい。が、ここで無様な姿をさらして、アドルの名誉を傷つけるわけにはいかない。

 気合を入れ直し、ぴんと背筋を伸ばす。


 ここでのフェリエナは異邦人だ。アドルがいなければ、話しかけにくいのだろう。ちらちらと様子をうかがう村人達の視線は感じるが、気後きおくれするのか、寄ってくる者はいない。フェリエナはアドルの気遣いに感謝した。


 と、実家からついてきてくれた従者の一人、侍女のメレが木の杯を手に近づいてくる。


「フェリエナ様、おめでとうございます! 本当にお綺麗です!」

 可愛らしい顔を興奮に染めたメレが、恭しく杯を差し出す。


「喉が渇いてらっしゃるのではありませんか? 果実水をお持ちしました」

「ありがとう、メレ。嬉しいわ。喉がからからだったの」


 五年のつきあいになる侍女の心遣いに感謝して、杯を受け取り、口をつける。

 乾いた喉に、果汁で薄く味をつけた井戸水が染みわたる。


「今日のフェリエナ様は本当にお綺麗です! ご領主様もそりゃあご立派ですけれど、お隣に並ばれてもまったく引けを取りません! わたくし、フェリエナ様付きの侍女として鼻が高こうございます!」


「……ありがとう」

 多分に身内の欲目が入っているのだろうが、目を輝かせて主人を慕ってくれる気持ちに水を差すこともあるまいと、微笑んで礼を言う。


「ですが、ご領主さまはどちらに行かれたのですか? こんな日に、花嫁を放っておかれるなんて……っ!」


 眉をひそめたメレに、あわてて説明する。

「アドル様は、わたくしを休ませてくださろうと、あえて席を外されているのよ」


「そういうことでしたら……。では、今のうちに少しでも何か口に入れられませんか? 朝食もろくに召し上がってらっしゃらないでしょう?」


 メレの言う通り、朝からほとんど食べていない。果物を少しかじった程度だ。緊張のあまり、喉を通らなかったからだが……。正直、今も食べられる気がしない。


「ありがとう。気持ちは嬉しいけれど、まったくお腹が空いていないの」

 メレを気遣わせないように、にこりと微笑む。


「せっかくの宴なのだから、あなたも楽しんでらっしゃい。こちらへ来て以来、荷ほどきやら式の準備やらで、ろくに休めていないでしょう? わたくしはここで休んでいるから、羽を伸ばしてらっしゃいな」


「では、わたくし、スープなど少しでも食べやすい物を探してまいります!」


 主人思いなメレが、気合を入れて宴の中へ戻っていく。

 感謝とともにメレの背を見送って、フェリエナは果実水を飲み干した。


 二度と故郷に戻れないかもしれないのに、はるばるヴェルブルク領までついて来てくれた従者達には、感謝しかない。


 彼らの労に報いるためにも、領主の奥方としての務めをしっかり果たさねば。


 決意を新たにしたところで、フェリエナは貴賓席に近づいてくる四十がらみの二人の男に気がついた。

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