3 噂の真実は令嬢の手に


 庭に咲く花の香りを含んだ三月の夜風が、テラスを横切る。さやかな光を放つ月だけが、テラスにたたずむ二人を見下ろしていた。


 フェリエナは、するり、とアドルの右手から、手袋に包まれた手を引き抜く。

 かと思うと、乱暴に手袋を脱ぎ始めたフェリエナに、アドルが目をむいた。


「フェリエナ嬢! な、何を……」


 淑女が男性の前で手袋を脱ぎだすなど、不作法この上ない。

 止めなくては、しかし素手にふれてよいものかと狼狽うろたえるアドルの前で、手袋を脱ぎ捨てたフェリエナは、素のままの右手をアドルの眼前に突きつけた。


「わたくしについて、どんな噂をお聞きになったのかは存じませんが、先ほどの言葉は聞こえなかったことにいたします!」


 よく見えるよう、篝火かがりびの明かりに手をかざす。


「その目で真実を確認して、わたくしの前からお引き取りください!」


「真実……?」

 眼前に突きつけられた手に、アドルが首をかしげる。


「この手に、どんな真実が隠されているというのです?」

 あくまで空とぼけるつもりらしい態度に、かっ、と怒りが胸をく。


「土で汚れて荒れた手が淑女のものだと⁉ 大方、ロズウィック家が裕福で、娘が行き遅れているという噂を聞きつけてやってこられたのでしょう!? お生憎様あいにくさま、嫁のもらい手がないのには、それだけの理由がありますの。農夫でもないのに、このような手の娘との結婚を望む貴族など、いるものですか!」


 清潔にしていても農家のおかみさんと変わりない、傷だらけの手。普通の貴族の令嬢の白魚のように繊細な手とは似ても似つかぬ、不格好な手。


 今は絹の手袋でごまかせはしても、素手になった途端、アドルの群青の瞳も、落胆に彩られるだろう。

 そのくらいなら、自分から明かした方が、何百倍もましだ。


「あなたはご存知でいらっしゃらないから、こんな容易く申し込みができるのですわ! わたくしは……っ!」


 唇を噛んで、震えそうになる身体を抑えつける。

 目を丸くしてフェリエナの手を見ているアドルに、フェリエナは激昂げっこうのあまり、かえって平坦になった声で告げた。


「先ほどのお言葉は、夜風の悪戯いたずらと思っておきます。もうお会いすることもございませんでしょう。――たとえ思惑ずくといえど、ダンスに誘っていただいて、嬉しゅうございました」


 脱いだ手袋を左手で握りしめ、一礼したフェリエナは身をひるがえそうとした。が。


「待ってください!」


 立ち上がったアドルに右手を掴まれ、引きとめられる。よろめいた身体を、広い胸板に受け止められた。


「お放しください!」


 息がふれるほどの近さに、心臓が跳ねる。しかし、右手を握ったアドルの手は緩まない。

 アドルに握られた右手から、彼の熱が伝わって、フェリエナの心を惑わせる。


「この手が、何だというのです?」

 心底、不思議そうに問われ、あきれる。


「先ほどの言葉を聞かれていなかったのですか!? こんな、貴族にふさわしくない手の娘――」


「わたしは」


 それほど強い口調ではないのに、しん、と心の奥底に響くような声に、思わず口をつぐむ。


貴女あなたの手など関係ありません。わたしには、どうしても貴女が必要なのです」


 アドルの力強い腕が、フェリエナを抱き寄せる。

 間近に迫る群青の瞳。


 切羽詰まったような、真摯しんしな想いを声に乗せ、アドルが告げる。


「ですから――。フェリエナ嬢、お願いですから、わたしの求婚をお受けいただけませんか?」


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