2 ご冗談が、お上手ですのね


 心をかすような甘い声。

 黒と見まごう群青ぐんじょうの瞳は、揺るぎない決意をはらんで。


 フェリエナの目の前で、長い指先を優雅に差し伸べているのは、令嬢達の熱い視線を、一身に集めている美青年だ。


 古代の彫像を連想させる整った顔立ちを、フェリエナがぼんやり眺めていると。


「……お嬢様?」

 青年が、わずかに首を傾げる。


 少し困ったような顔さえ、秀麗で――むしろ、大型犬がくうん、と鼻を鳴らしているような可愛らしさすらある。


 困り顔のまま、けれど群青の瞳は真っ直ぐにフェリエナを見つめて、青年が再度、口を開いた。


「よろしければ、ダンスを一曲、ご一緒していただきたいのですが?」


 剣だこのある右手が差し伸べられ、ドレスにふれる寸前で、止まる。

 そこになってようやく、フェリエナは青年が自分に話しかけているのだと気がついた。


 が、気づいたからといって、状況が理解できるわけではない。

 いつも壁の花である自分が、ダンスを申し込まれるなんて。


「どなたかと、思い違いをなさっておられるのではありませんか?」


 フェリエナの記憶にある限り、目の前の青年と会うのは初めてだ。ギリシア彫刻のようなこんな美青年、一度会ったら忘れるわけがない。


 異国から来たのなら、別の令嬢とフェリエナを見間違えた可能性は、十分にある。

 フェリエナの返答に、青年は目に見えて動揺した。群青の瞳が不安に揺れる。


「えっ!? フェリエナ嬢ではないのですか?」


「いえ、フェリエナはわたくしですけれど……」


 なぜ、青年が自分を名指しで? と思いつつ応えると、青年は、ほっ、と詰めていた息を吐き出した。

 春の陽だまりのような、見る者の心をとろかす柔らかな笑顔。


「それでしたら、わたしがダンスを申し込みたいのは、貴女あなたで間違いありません。フェリエナ嬢。どうか一曲、踊っていただけませんか?」


「え?」

 今度は、フェリエナが固まる番だった。


 ここ二年以上、ダンスを申し込まれた経験など、ない。

 やはり人違いでは、と言いかけて、フェリエナは自分達が広間中の注目を集めていることに気がついた。


 断るべきか受けるべきか、どちらが青年の名誉を傷つけぬだろうかと、逡巡しゅんじゅんし――しかし、すがるような眼差まなざしに、出かけた断りの言葉が、喉元で詰まる。


「その……」

 戸惑いに揺れた指先を、不意に力強い手に掴まれた。


「お受けくださるのですね! ありがとうございます!」


 違います、と叫びかけて、青年の策なのだと気づく。

 どんな意図かは知らぬが、青年は何としてもフェリエナとダンスを踊るつもりらしい。


 今さら断るわけにもいかず、立ち上がった青年に導かれて、フェリエナは広間の中央に進んだ。


 向かい合い、ドレスをつまんで型通りに一礼する。同じく一礼した青年が、左手で絹の手袋に包まれたフェリエナの右手を取り、右手を背中へ回す。


 ドレス越しでもわかる、大きく力強い手。たくましい胸に引き寄せられ、ダンスとわかっていても心臓が跳ねる。

 礼服の上からでもわかる、鍛えられた身体つき。甘い顔立ちとは裏腹な広い肩の凛々しさに、嫌でも緊張してしまう。


 音楽が始まり、緩やかな曲調に、フェリエナは内心安堵した。ダンスなど久しぶりだが、これなら青年に恥をかかさずに、なんとか踊りきれそうだ。


 というか、この青年はいったい何者なのだろう。自分にダンスを申し込むなんて、正気の沙汰と思えない。


 視線を上げると、青年がにこりと感じのいい笑顔を浮かべた。なまりでできた乙女でも溶かしてしまいそうな、柔らかな笑み。


「申し遅れました」

 人を魅了せずにはいられない爽やかな笑顔で、青年が名乗る。


「わたしはドイツにあるヴェルブルク領の領主、アドル・フォン・ヴェルブルクと申します。ネーデルラントへ参ったのは初めての田舎者ですので、不調法をしましたら、申し訳ありません」


 生真面目に告げたアドルに、フェリエナの心に苦い痛みがき上がる。


「もう、遅いかもしれません。これ以上、アドル様の名誉を傷つける羽目にならねば良いのですが……」


 一時の恥をかかせたとしても、やはり断った方がよかったかもしれない。

 そうすれば、非難を浴びるのは、断ったフェリエナだけだっただろうに。


 と、不意にアドルの指先に、力がこもる。


貴女あなたと踊れるのなら、他人の評判など、気にしません」


 力強く断言され、言葉に詰まる。うっかりステップを踏み間違えそうになり、フェリエナはあわててダンスに集中した。


 ステップを踏むたび、ふわりふわりとドレスのすそひるがえり、自然とフェリエナの心を弾ませる。


「お上手ですね」

 世辞とわかっているのに、アドルの柔らかな囁きに、頬が熱くなる。


「ご冗談が巧みですのね」


 返した瞬間、語調がきつすぎただろうかと、不安になる。

 おずおずと視線を上げると、こちらをじっと見つめる群青の瞳とぶつかった。気を悪くした様子もなく、微笑みが返ってくる。


 熱を持ち始めた頬を隠すように、フェリエナは視線を伏せた。


 早く曲が終わってほしいような、ほしくないような複雑な気持ちがき起こる。


 柔らかな余韻よいんを残して、楽団が演奏する曲が終わりを迎え。

 フェリエナとアドルは始まりの時と同じく、お互いに礼儀正しく一礼する。


 アドルに手を引かれ、広間の中心から下がろうとすると、遠慮がちな声が降ってきた。


「……すみません。ご無理をさせましたか?」


 ゆっくりとした曲調にもかかわらず、弾んだ息を整えながら、フェリエナはふる、とかぶりを振った。


「いいえ。お気になさらないでくださいませ。ダンスなんて久しぶりでしたから、少し緊張してしまったのですわ」


 普段の自分なら、この程度動いたくらいで、息が上がるなどありえない。

 やはり、慣れないダンスに緊張したのだろう。それとも、ダンスが終わってなお、注がれ続ける好奇の視線に、あてられたか。


 アドルが先ほどと同じ、見る者の心をとろかすような笑顔を浮かべる。


「わたしも、慣れぬダンスで緊張してしまいました。その、よろしければ、テラスで少し夜風に当たりませんか?」


 遠慮がちな誘い。つないだ指先にこもった力が、青年もまた、緊張しているのだと感じさせる。


 慣れぬ土地の舞踏会で注がれる好奇の視線は、恵まれた体躯たいくをもってしても、負担なのだろう。その気持ちがわかるだけに、思わずフェリエナは頷いていた。


「ほんの、少しだけでしたら……」

 人々の視線から逃れたい気持ちは、フェリエナも同じだ。


「ありがとうございます」

 心から安堵したようなアドルの笑顔に、つられて口元が緩む。


 硝子がらすをはめた扉と、たっぷりのドレープをとったカーテンで広間と仕切られたテラスへ、二人で出る。


 頬をなでる三月の夜風の心地よさに、フェリエナは目を細めて、ほう、と大きく吐息した。自分で思っていた以上に、緊張していたらしい。


 まだ舞踏会も序盤のためか、テラスに他に人影はなかった。アドルに導かれるまま、テラスの手すりに向かう。

 テラスの端に置かれた篝火かがりびから、火の粉がはぜる音がかすかに聞こえてくる。


「良い夜ですね」

 アドルの耳に心地よい声が夜気を震わせる。


「ええ。夜風が心地よいです」

 火照ほてった頬に、風が心地よい。


 人目のないテラスにいるのは気楽だが、ずっとここにいるわけにもいかない。だが、今くらいは一息ついてもいいだろう。

 大きく息を吐き出すと、隣の青年が笑む気配がした。


「舞踏会は、お好きではないのですか?」

 遠慮がちに尋ねる声に、「ええ」と頷く。


「着飾って立っているだけですもの。他の方が踊るのを見るのも、もう見飽きました」


 うっかり返してしまい、失言に後悔する。こんなこと、出逢ったばかりの青年に言うべきことではない。


 が、アドルは気にした風もなく微笑んだ。


「わたしも苦手です。優美さの欠片かけらもない武骨者ですから」

 フェリエナは驚いて凛々しい横顔を見上げる。


「やっぱり、ご冗談がお上手ですのね。堂々としていらっしゃって、苦手だなんて、とても見えませんでしたわ」


「そう見えていたのなら、幸いです」

 アドルがほっとしたように、表情を緩ませる。


「貴女に、情けない男だと思われたくありませんから」


 アドルが身体ごとフェリエナを振り向く。

 今さらながら、まだアドルと手をつないだままだと、フェリエナはようやく気づいた。かあ、と一瞬で頬が熱くなる。


「失礼いたし――」

 手を引き抜こうとすると、逆に強く握られた。


 痛くはない。けれど、決して引き抜けない強さ。

 フェリエナの手を握ったまま、アドルが片膝をテラスにつく。


「わたしは、貴女に逢うために参ったのです。フェリエナ・フォン・ロズウィック嬢」


 アドルの群青の瞳が、真っ直ぐにフェリエナを射抜く。


 固い決意を秘めた眼差しに、心を鷲掴わしづかみにされたように、目がらせない。

 ゆっくりと、アドルが口を開く。


「突然であることは重々承知しております。ですが――」


 緊張にわずかに震える深みのある声が、夜気を貫く。


「フェリエナ嬢。どうか、わたしと結婚していただけませんか?」

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