たまねぎ
安良巻祐介
暗い晩に、男は、自分の部屋へと帰ってきた。
狭く、静かな玄関。
電燈がぼんやりと橙色に光っている。
框を上がって、着膨れした身体を揺らしながら、靴箱の横のミラーをちらりと覗くと、帽子とマフラーの間から、痩せた小さな目が見返した。
赤くなった鼻の下に知らずぎじぎじと歯を鳴らしながら、荷物を抛り捨てるようにして、居間へ入り、テーブルの前へぼんやり立つ。
往来には急に寒くなった風が吹いているが、赤い顔も歯軋りも、寒風のせいではなかった。
男は先刻から幾度も幾度も、自分を見ながら困惑したように目を細める友人の顔を思い出していた。なんだそれは。なぜ君はそうなんだ。友人の言葉を頭の中でなぞりながら、とりあえずマフラーを解きだした。マフラーは首を締めつけるように強く巻き付いているから、一苦労だった。
友人の憐れむような蔑むような言葉が耳の中に反響して、苦しい。知らず顔は紅潮し、歯ぎしりがやまない。
ぐえ、ぐえ、と息が口から洩れる。解いても解いてもマフラーは長い。やっと首から離れた時には、代わりに床の上へとぐろを巻いていた。
次に男はすっぽり被った帽子を無理矢理に引っ張った、と、痩せた顔が少しばかり縦に伸び、皺が走り、まぶたが変な風にめくれた。
なんだ君は。何だ。まったく何なんだ。友人が、犬でも見るように見ていたその目を、彼は思い出しながら、帽子を引っ張った。
なんだ。何だとはなんだ。彼は顔をゆがめながら自問自答した。なんだ。やがてすぽん、と頭から抜けた帽子はそのままテーブルの足元へ抛られて潰れてへたばった。
なんだなんだなんだ。さらに男は、むっくりと纏うた大仰な羽毛のコートのジッパーを下げた。
黒い、柔らかい、大きいそれをごそごそと脱ぎ捨てる。なんだきみは。そんな単純な問いが。男は怒っていた。同時に、恐れていた。何が怖いのかはよくわからなかった。ただやたらに腹が立って、情けなくて、歯ぎしりがした。
コートを脱いだ彼の姿は、途端に細く、頼りなくなった。
コートをおざなりに椅子の背にかけて(それはまるで椅子に黒い大人がためいきまじりにしなだれかかっているように見えた)、彼はそのまま、その下に着込んでいた厚手のセーターも脱ぎだした。なんだきみは。なんだきみは。とにかく暑苦しかった。忘れてしまいたかった。セーターはほつれた繊維を露わにしながら彼の体からずるりと抜けた。中身を失ったセーターはテーブルの上に引っかかって中途半端な位置を占めた。
何だおれは、何だおれはと繰り返しながら、彼はどんどん服を脱いでいった。そこらじゅうに脱ぎ捨てたものが散乱してゆく。
いつの間にか、彼は大粒の涙を流し始めていた。何に対して泣いているのか、判然としない涙だった。ただ、目がどうにもたまらないようになって、ぼろぼろと汁が溢れるのである。何だこれは、何だ。彼は泣き続けた。蛍光灯の無慈悲な光のもとで服を脱ぎ続けた。
やがて、部屋は服だらけになった。全く、これを一人の人間が着ていたなどとは、とても信じられない。――そして、男の姿はもうどこにも見えなかった。脱ぎ捨てられた皮の真ん中にぽっかりと空間があって、ただフローリングの床がさみしく白い光を反射していた。なんだ……と小さな声が聞こえ、橙色の玄関の灯がパチンと音を立てて消えた。
たまねぎ 安良巻祐介 @aramaki88
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