第3-4話

 開いた間は、ほんの一瞬だった気もするし、それ以上だった気もした。

 色褪せた思考の中で、マリカは動揺に震える唇を強く噛み締め、忘れていた塩辛い血の味を乾いた口内に染み渡らせる。

 痛みすら凌駕する眩暈に、ただただ目の前の色彩が奪われ、色味のない無彩色の思考が脳内でぐるぐる呪詛のように囁いていた。


 リンドウが、叔母を殺した。


 あり得ない、あり得るはずがない。

 あんな心優しい子が、虫を弄ぶかのように人を殺すはずがない。

 この男は嘘をついている。

 ……でも、だとしたら。

 誰が叔母を殺したの?

 あの部屋は何なの?

 リンドウはどこに行ってしまったの……?


『……ばいばい、お姉ちゃん……』


 聞いたはずのないリンドウの声が、何故か耳に残っている。

 遠くに消える足音も、それを掻き消すサイレンの音も。

 悪夢の出来事だと語るには、それはあまりにも鮮明過ぎて。

 部屋中を漂う濃い血の臭いと、口内に広がる血の味がマリカの中で重なってしまった。



 自分自身で気付いていない自傷を咎めるように、男はマリカの頭を軽く小突く。

 痛みはない。視線を上に向ければ、静かに見つめる男の灰色の瞳と視線が合う。

 男はそのままの仏頂面で、マリカの頭に手を置くと、くしゃりと傷んだ赤毛を撫でた。

 ただその仕草がどうしてか。不愛想で武骨な男なりの慰め方だと……何故か、理解してしまって。


 ――あぁ、そういえば。


 ふと、遠い記憶がマリカの思考に一瞬の色をつける。


(父さんも、こんな慰め方をしてくれてたっけ……)


 その瞬間、何かが決壊してしまったのだろう。

 意識もしていないのに勝手に顔中が引き攣り、痛いぐらい口元が歪む。目が熱くなって、視界が滲んだと思ったらぼろぼろと水が溢れてきた。

 この時になってようやくマリカは、自分が泣いているのだと気付く。叔母にどんなに虐げられても気付くことのできなかった涙は箍が外れたようにマリカの頬を濡らして地面に落ちた。


「……可哀想にな」


 男の声が息とともに吐き出される。その声色には確かに同情の響きがあった。


「あの男の子供じゃなかったら、お前達はただの年相応の子供でいられただろうに」


 引っ掛かりを覚えた言葉の意味をマリカが理解するよりも前に、目の前に白い塊が勢いよく突っ込んできた。


 正確には転んだというべきか。ただ雨に濡れた地面に滑ったというわけではなく、“その人”は身丈に合わない長い白衣を着ており、それに足を取られたのだろう、裾の部分が泥で汚れている。

 痛がる素振りを見せず、登場時の勢いを残したままその人は弾むように立ち上がった。背丈はマリカよりも小さく、顔立ちはだいぶ幼さが残るというのに、大きな丸メガネのせいで不思議と知的に見えてしまう。若葉色の瞳は眼鏡越しに無邪気に輝いていた。

 日本人らしからぬ白金色の髪は地毛なのか、ふわふわの綿菓子のように肩先で跳ねている。そばかすが残る幼い顔はどう見ても小学生の低学年。マリカよりも年下に見えた。

 少年とも少女とも見えるその人は、白衣を一度叩いて佇まいを直すと、にっこりと作り物のような笑みを浮かべてマリカを見た。

 ぞくり、と。蛇に睨まれでもしたかのように体が竦んで、マリカは体を引く。

 獲物を追うように白衣の人はマリカの両手をがっちりと握って、耳元まで裂けるのではないかと思うほど深い笑みを顔面に刻んだ。

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