第3-2話

 若い男性の声を皮切りとし、その場の空気が膨張して弾け飛んだ。

 無数の声が銃弾のように飛び交い、マリカを混乱の極みに立たせる。


「生きてるっ! おい、生きてるぞ!!」


「早く博士を呼べっ、早くっ!!」


「……はい、はい! αの生存を確認しました。これより調査にかかります」


 聞き取れた内容は極一部で、それが何を意味するのかさえ分からない。

 ただ、酷く怖いと感じた。“死んだはずの自分”が生き返り、血まみれで半壊した室内、そこにいる無数の誰か。

 何が、どうなっているのか。理解が追い付かない。怖い、怖い――。

 舌先が痙攣し、声の出し方すら忘れる。幾多の足先がこちらに向き、刃物のような視線を突き刺してくる。――怖い、怖い。


(怖い、怖いよ……。助けて、誰か……)


 助けになんて誰も来ない。

 そんなのわかりきっている。


(嫌だ、やだ……。お父さん、お母さん、……リンドウ)


 それでも縋る者がいないマリカは、亡き両親を呼ぶ。

 そして自身の片割れである最愛の弟の名を呼び――。


「……リンドウ……?」


 ――あの子は、どこにいる?


 我に返った。

 頭の芯がすうっと冷え込み、動揺が嘘のように引いていく。

 一拍の間の後、怒涛の津波が押し寄せるように感情が爆発した。


「……リン、ドウッ!! リンドウはどこにいるのっ!!?」


 はち切れんばかりの声を出すと、喉奥に詰まっていた血液が唾と一緒に飛び出した。塩辛い血の味に顔を歪め、今にも泣きだしそうな瞳を揺らしてマリカは全身に力を込めた。

 鉛のように沈みきっていた体が嘘のように動いた。少し前まで感じていた怠さも重みも、失血による眩みも泡沫に消え去っている。

 五感の全てが正常を取り戻し、吸い込んだ空気はスムーズに肺に流れた。時間が巻き戻されたが如く、全てが元に戻っていく。


 捉えた視線の先で複数の――白い装束を身に纏った男達が詰めるように息を呑んだのが分かった。

 その誰しもが、歪め眇んだ眼に化物を見るような忌諱の色を滲ませている。


(誰だ、こいつらは……。いや、こいつらは……)


 数秒にも満たない視線の交差で、マリカは既視感を思い出した。

 この目を知っている。いつも周囲に投げつけられた侮蔑と嫌悪の眼差しだ。若干の恐れも含まれているが、マリカが忌み嫌う差別の眼差しだ。


 だが構ってなんかいられない。

 周囲を見渡す。まるで暴風が滞在したかのような酷い荒れ具合だ。確かにあった家具の類は底知れぬ圧を受けたかのようにぺしゃんこに潰れている。そもそも原型を留めているものなんて何一つない。割れたであろう食器やガラスは粉微塵と化し床に積もり、微細の凶器に変わっている。

 粗末な色合いの壁は赤黒な飛沫で染められ、理解しがたい芸術の一部を模している。床に至っては半ば役割を放棄し、土台である鉄骨が剥き出している箇所が幾つかあった。


 変わり果てた部屋。何の思い入れもない場所であったが、さすがにマリカは呆気に取られ言葉を失った。

 ――何をどうすればここまで……。

 色彩の乏しい空間に鮮烈なる青がマリカの目を引いた。ぎこちない動作で首を動かせば、それが青いビニールだと、何かを覆っているものだと気付く。

 吸い込まれるように見つめたそれの下、まさにマリカが今横になっていた場所と同じように赤黒の痕跡が残っている。急いで張られたビニールはおおよそ全体を隠せていたが、極一部である長い毛髪や脳漿入り混じった脳の一部を見落としていた。


 ――あれは、……誰?

 ――あの、魔女のように長い髪は――。

 ――あの下に隠されているのは――。

 ――あれは、まさか。


 理解が追い付いてしまった頭が瞬時に体の各所に命令を伝達し、マリカはそれから思い切り目を逸らしたが遅すぎた。

 込み上げる吐き気を抑えられるはずがなく、その場に跪き、喉奥から涌いた胃液を吐き出した。

 強酸が喉を焼き、大きく咳き込む。涙と鼻水が溢れ、カタカタと歯が怖気を奏で始めた。


「あ、あぁあ……ああっ……」


 確かに、何度も死ねばいいと思っていた。

 自分たち兄弟を苦しめる悪鬼の女だ。今まで受けた仕打ちは許せるはずもない。

 けれど、こんな。こんな惨い死に方は。まるで幼子が面白半分で虫を潰したような死に方は。

 ――あまりにも、酷すぎる。


 華奢な体を小さく丸めたマリカの上に、布が被せられる。煙草の煙がたっぷりとしみ込んだそれは、凄惨に麻痺する嗅覚を攫っていった。

 形からして今まで来ていたであろうコートか何かなのだろう、温もりが残っていた。

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