第3話 ―白薔薇と黒百合と―

 三度目の、落雷にあったかのような強い衝撃がマリカの全身を覚醒させた。

 ばっちりと大きな黒目が見開かれ、忘れていた呼吸が喉を駆け抜ける。水が滲んだかのようにぼやけた視界は徐々に鮮明になり、マリカの視界に色を宿し始めた。それと同時に聴覚が思い出したように辺りの音を拾い、慌ただしい喧騒をマリカに知らせる。


 どうやら室内に誰かいるようだ。それもかなりの数だろう。古い床が慣れない過重にただならぬ悲鳴を上げ続けている。

 朧な輪郭を纏わせて、幾人もの足が忙しなく床を踏み荒らしていた。乱暴な衝撃がマリカの全身を叩く。どうやら自分は横になっている状態のようだ。

 誰が何の為にいるのか。当然に沸いた疑問を確認するよりもまず、マリカは自分の体の異変に気付く。


(体が……重い。それに、頭がくらくらする……)


 自身が鉛にでもなった感覚。辛うじて手足と視線だけは動かせる程度の不自由さにマリカは開いたばかりの瞳を苛立たし気に細めた。

 何とか立ち上がろうとするも爪先が床をひっかく程度。四肢は面白いぐらい役に立たず、まるで他人のものみたいだ。


(何で、起きれないの私の体のくせに……っ! 早く、早くしてよ! じゃないとリンドウが――)


 ――リンドウが、何だというのか。

 急に膨れ上がった不安と焦燥が胸の中で弾ける。早く、早く、と急かすけれど、体は言うことを聞かない。

 胸が詰まる。息苦しい。けれどそんなのに構っていられない。リンドウを守らないと。

 カリッと床を懸命に掻く爪に、何かが挟まった気がした。目で確認することは叶わないが、周りに意志を伝えるためにカリカリとそれを掻き続ける。

 薄い塗装が爪先に詰まる感覚。おかしい、この家の床は塗装なんてしていないのに。

 ようやく目覚めた嗅覚が異臭を嗅ぎ当てる。目覚めには強烈に不快な鉄錆の――血の臭い。

 よくよく見れば、自分が横たわる場所を中心として赤黒い色に床は染まっていた。乾ききったそれをどうやら塗装と勘違いしたようだ。


(これ、は……、まさか……)


 忘れていた記憶がマリカに現実の狂気を思い起こさせる。

 怯えに痙攣する瞳を何とか動かすと、周囲一面には赤黒が粗末を越して半壊した室内に彩りを添えている。

 ここは、この部屋は、この場所は。

 遠い夢の追憶は塵と消え失せ、マリカの頭から消え失せた。

 代わりに宛がわれた非常な現実を思い出し、マリカは引きつるように喉を痙攣させ、咳き込んだ。


「……っ、ごほっ、コホッ」


 湧き上がる血の臭いが鼻をつく。空気が逆流して気道にこびり付いた血の味が唾液と混じり合った。


(……生きてる。……何、で……)


 一瞬の激痛。続く血飛沫を最後にマリカの記憶は途絶えている。

 裂かれた喉元は気道を潰し、動脈を切断した、はずだ。血の量を考えても人が生きているはずがないのに、どう考えても失血死する量なのに。

 マリカは生きている。心地としては、生き返ったというより、目が覚めた、といった方がしっくりときた。


 周囲の音がぴたりと止んだ。

 強烈なまでの視線がマリカを射抜く勢いで向けられている。この場にいる得体の知れぬ何人もの視線に凝視されていることに気付くと、マリカは息をするのさえ怖くなった。

 確かに感じていた周囲の異常。そして自分に起こったそれ以上の異常。纏めきれない幼い頭は自身を優先させ、多数の誰かには気を配れなかった。

 視線というのは痛みを伴うものなのか、と客観視した自分が語る。ちくりちくりと刺す勢いで向けられる眼差しに、マリカは耐えきれなくなり声を振り絞った。


「誰……? アンタ達、誰なの……?」


 暫しの沈黙は、時間にして数秒。けれどマリカにはその何十倍に感じられた。


「……生きてる、のか?」


 張り詰めた緊張は、一人の男の声によって切られた。

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