第2-6話

 次に目を開ければ、色彩に富んだ風景が広がっていた。

 またも場の状況が理解できず、マリカは薄く唇を開けて息を吐く。歯がカチカチを音を立てて、広がる眼前の異常に眉間に力が込められた。


 いるのは家の前だった。都会の景色から変わり、片田舎ののどかな光景が目に焼き付く。

 肌を撫でる風は少し寒い。狩り尽された田んぼと畑、木々が色づいて枯れ落ちていく様は、秋の終わりを匂わせた。


(何で……?)


 さっきまで春だったのに。またも身に覚えのない異常が周囲に溶け込んでマリカ一人を取り残している。

 振り返ると古い木造建てのアパートが黒い瞳に飛び込んだ。ここは確か、七回目の引っ越しの場所。

 そして、両親と過ごした最後の家でもあった。


(……最後、って? 何でそんなこと思ったんだろう……?)


 一瞬前まで考えた思考に訳が分からなくなる。けれども頭の中でその考えが間違っていないと結論づいていた。

 訳が分からない。怖い。堪らず掻き抱いた自分の体は、成長していて小学校の中学年の頃と同じ体つきだった。


「お姉ちゃん?」


 その一言に不安は払拭された。いや、何に対して不安を抱いていたのかわからなくなった、というべきだろう。

 胸に落ちる暗い鉛の塊を意識の端に置き去り、マリカは弟の呼び声に応えた。


「何、……リンドウ?」


「何って、どうしたのお姉ちゃん? お父さん達もう行っちゃうよ?」


 見送りしなくちゃ、と道を指差すリンドウもマリカと同じように成長していた。

 瓜二つのマリカの片割れ。身長はマリカの方がやや高いが、性格で言えばリンドウの方がしっかりとしていたかもしれない。

 限りなく同一に近い、別の存在。双子の弟は、姉を急かすように腕を引っ張った。


「なにぼーっとしてるのお姉ちゃん? あんなに朝御飯食べたくせに、まだ目が覚めてないの?」


 ちくりとする嫌味。少しムッとしたマリカは反論するため口を開いたが。

 くすり、と上品に笑う女性の声に息を止めた。


「こらリンドウ。そんなこと言わないの。これから二人でしばらくお留守番するんだから、ね?」


「でもお姉ちゃんがしっかりしてないから……」


「リンドウ? “どんなときも二人仲良く助け合う” ――それが我が家の家訓その一よ。わかってるわね?」


「……はぁい」


 母に窘められて渋々といった様子で唇を尖らせるリンドウ。

 この時のリンドウの心情をマリカは知っている。“昨夜”彼はしばらくいなくなる両親に寂しさと不安をマリカに訴えていたのだ。

 確か仕事の都合でどうしても二人でいかなければならない。だからしばらく留守番をよろしくね、と言われたのを思い出した。

 しばらく、いなくなる。しばらくってどのくらいだろう。

 本当に、――帰ってくるのだろうか。

 胸の内に落とした鉛が溶けて淀み、押し殺していた不安が泥のように涌き出した。

 全身が冷えて、背に嫌な汗が流れる。頭が痛く、耳が遠い。

 リンドウが大きな目に心配の色を乗せてマリカに何か言っているのに、聞き取ることがまるでできない。

 どうしてしまったのだ、自分は。いや、自分のことなんかどうでもいい。

 “両親を行かせてはならない”ただ強くそう思った。


「……行かないで」


「マリカ?」


「行かないで! 行っちゃ嫌だ!! 絶対嫌だっ!!」


 突然の豹変に母が驚きで目を丸くした。リンドウも何も言えずに目を瞬かせている。


「ど、どうしたのお姉ちゃん……?」


「行かないでよ、行かないでっ!! 私たちを置いて行かないで!!」


 どうか置いて逝かないで。二人ぼっちだって怖くて寂しいんだから。

 地団太を踏む勢いでマリカはその場で声の限り、制止を求めた。ただの我儘な子供の癇癪だと思われても構わない。頭がおかしいと言われもいい。

 両親がいなくなってしまうより、ずっといい。


「お、願いだから……、行かないでよぉ……」


 目に涙が溜まる、零れ落ちる。つん、と鼻が痛くなって鼻水も出てくる。幾ら顔が汚くなってもマリカは声を、言い知れぬ不安からくる声を張り上げるのをやめなかった。

 双子の片割れはおろおろと、何とかできないものかと空で手をばたつかせ混乱している。母も綺麗な形の眉を下げて、どうすればと困り果てていた。

 ごめんなさい、と二人に謝る。けれどどうしても引くわけにはいかなかった。


 そんな三人の前に白い影がすうっと姿を現す。一瞬幽霊かなにかと錯覚しそうになったが、それは確かに肉体を持っていて、人となりの形を持っていた。

 ただ色という色がまるでなく、髪も肌も瞳も作り物であるかのように白い。人形のように整った容姿はそれと同じくらい無表情だった。

 いつまで経っても容姿の衰えない父は、やはり家族にしかわからない程度の機微さで眉を下げて、マリカに言った。


「……マリカ、すまない」


 その台詞はもう“何度目”だ。マリカは嗚咽を噛み殺しながら、睨む勢いで父を見上げた。


「お父さんも行かないでよ、絶対行かないでっ!」


 青年と言ってもいい容姿の父にマリカは抱き着いた。胸に強くしがみ付き、絶対に離さないと言わんばかりに力を籠める。

 そんな強情なマリカの頭を、父は髪を梳くように撫でた。


「……ナズナ、リンドウ。私はしばらくマリカとその辺を散歩してくるよ」


 緩く確かに引かれる右手。父に促されながらマリカはその横に並び足を動かした。

 左手で顔の汚れを拭う。きっとこれが両親を引き止める最後のチャンスになる。マリカは流れる鼻水を思い切り啜りながら、握られた手を強く握り返した。

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