第1-7話
リンドウは自分でも何を叫んだのかわからなかった。
生温い液体が顔に勢いよく飛び散り、頬にぬるりとした嫌な感触だけを残す。
震える手を伸ばして頬のそれに触れる。指先で掬ったそれはただ赤く、赫く。鉄臭い赤色の液体だった。
(な、に……これ……?)
自我が考えることを放棄する。けれど内に潜む獣が起き上がって嘲笑うかのように一言。
――それは、血だよ。
「……血?」
吐息ともとれる細い声で液体の正体が明かされる。
血、――血? 何で血が? この血は、――誰のモノ?
視線がゆっくりと、前に向けられる。
見てはいけない。見たくない。
息が詰まる。呼吸が苦しい。
見たくない、見たくない!!
マリカの声が聞こえない。マリカは、どこに行ったの……?
――見るなっ!!!
黒い瞳に凄惨な光景が映し出された。
廃墟と言えるほどに荒らされた安アパートの一室。どこもかしこもボロボロで壊れていて、少しの飾り気もなく。
けれど今この瞬間からは、虚無の一室に鮮やかな赤が彩っていた。
飛沫のように壁に広がる鮮烈な赤。泉のように床から湧き出る鮮烈な赤。その中心に倒れ伏す赤に塗れた少女。
少女はピクリとも動かなかった。自分が生み出す赤い液体に横たわって、その小さな体を沈めている。血の気が消え失せていく顔。ぱっくりと開かれた首の傷はほんの数秒前まではなかったのに。
数秒前までは、双子の姉は生きていたのに。
白く霞む意識の前に、無遠慮に奇声が響き渡った。
「――――っ!! ――――ッっ!!!」
何を言っているのかわからない。聞き取れなかった。聞き取る気もなかった。
ただマリカの亡骸を指差して嗤う怪物の存在が、リンドウには許せなかった。
憎い。
「あ、……ぁあ、ああぁ……!」
憎い、憎い。
「あ、ああっ! っ、あああっ!」
憎い!!
リンドウの中で、“何か”が音を立てて壊れていく。
理性という檻が崩れ去ったとき、内に潜む獣が本能のまま鋭い咆哮を上げた。
この獣の名をリンドウは知っていた。知っていたはずなのに、それを認めるのが怖くて檻に閉じ込めた。
でも、もう。その必要はない。なくなった。
この獣の名を呼ぼう。本能のままに解き放とう。
“憎悪”という名の獣を。
「あああああああああああっ!!!」
――殺してやるっ!!!
リンドウの雄叫びに呼応するかのように、または恐れたように大気が確かに震えた。瞬間。
大きな破砕音を立てて、粗末な窓ガラスが一片残らず粉々に砕け散った。
見えない“力”が働いているのか、窓ガラスに留まらず、食器全般が触れもしないのに空中を飛び回り弾け飛ぶ。鋭い破片が雨霰の如く降り注ぐが、得体のしれない“力”に守られているためか、リンドウとマリカだけには破片は微塵も掠らない。
何かの悲鳴が聞こえた。だがそんなのに構っている余裕はない。
心を埋め尽くす圧倒的な憎悪に意識が持ってかれそうだった。黒と白に意識が明滅する。きっと、黒に意識を傾ければもっと力が出せるはずだ。
力を。もっと力を!
リンドウは無我夢中で悪しき願いを叫び続ける。
力さえあればこんなことにならなかったかもしれない。マリカを守れたはずなのに。
(僕が、弱かったせいで……っ!)
力を。圧倒的な力を!
もう何もいらないから、自分を構成する全部をあげるから。
――だから!
「許さない許さない許さない許さないっ! お前だけは、絶対にっ!!」
どうか、僕に力を!
強くそれを望んだ瞬間、リンドウは今まで体験したことのない奇妙な感覚に襲われた。
体がとても軽い。清々しい。何かが満ち足りていく。――と同時に、何かが急速に失われていく。
あれほど病魔に憑かれて弱り切っていた体が嘘のように軽やかに動く。悩まされ続けた不良が跡形もなく消え失せた。
満ち満ち足りた感覚があまりにも強烈だったため、失われていく何かなど全く気にも留めなかった。
“生まれ変わった”としか言えない気分だった。リンドウは呆けたように甘く息をつく。
一歩、踏み出す。やっと周囲に目を向ければ、まるで室内に嵐が滞在していたかと思うほどの凄まじい荒れようだった。
原型を留めているものなど何一つない。ガラス、食器の類は粉々に砕かれ塵と化し、テーブルやタンスといった家具全般は超重力に押し潰されたと思うほど形をなくし割れ砕けた床と一体化していた。
これは、自分がやったのだろうか。
廃墟を越した荒れ具合の部屋の中、ただ一つ無傷なものがあった。――マリカだ。
神秘ささえ感じるほど周りとの空間に馴染めていないマリカの亡骸だけは、部屋の中心にぽつんと置き去りにされている。
リンドウはかくかくと力なく震える膝を折り曲げ、マリカの前に跪いた。床に積もった微細なガラス片が剥き出しの膝に突き刺さり痛みを伴うが構っていられない。
自分はきっと力を得たのだ。理由はわからないが、きっととてつもない力を。
ならばきっと。いいや、絶対。
マリカを生き返らせることが出来るはず――。
マリカに向けて両腕を翳し、『生き返れ』と強く願う。
けれども血の気の失せた唇が色を灯すことも、闇色の瞳が光を映すこともない。
(何で……っ!? ああ、いや、そうか。まずは傷を治さないと、だね)
切り裂かれた首の傷に意識を込める。治れ、と。何度も心の中で繰り返す。
傷は一向に塞がらない。流れ出る血が尽きたのか、傷口はどす黒く変色し固まりだしていた。
「何で、治らないの……? 何で生き返らないっ!? ね、ねぇ、お姉ちゃん!? お願いだよ、生き返ってよぉ!!」
絶対だと思い込んだ力に揺らぎが生じる。確信に不安が過ぎる。信じた分、絶望が膨れ上がる。
「いやだ、やだよぅ……。っく、うう……。僕を独りにしないで、お姉ちゃん……!」
冷えた頬に流れる涙がやけに熱く感じられた。視界が涙でぼやける。最愛の姉の顔が朧げに映るのが嫌で慌ててリンドウは涙を拭った。
クリアになった視界の脇で何かが微かに蠢いた。
びくりと肩を震わすリンドウ。引かれるようにそちらに幼い視線をやると“それ”は酷く恐怖したように顔を引き攣らせた。
「ひいいっ!! ば、化物ぉ! 化物ぉぉお!!」
死に損なった“蟲”がキィキィと耳障りな声で鳴いている。途端、リンドウの思考が急激に冷え切った。
十一の子供とは思えぬほど底冷えしきった瞳が、まさに蟲を観察する目つきでそれを両眼に見据えた。
体中ガラス片で刻まれたのか、細かい傷がびっしりと刻まれており流血は激しい。皮膚は擦られたように肌色をなくし筋繊維が剥き出しになっている箇所が幾つかあった。片目は潰れている。どうやら両足も潰れているらしく、芋虫のように這いずって部屋の隅に身を潜めていたらしかった。
リンドウが姉に付きっきりだった隙を狙って逃げようとしたのだろう。なんて卑しいのだろうか。
まさかあの荒れ狂う嵐に匹敵するなか、生き残るなんてどれほどの悪運なのだろう。……でもそれも、さっきまでの話だ。
大人しく死んでればよかったのに、とは決して言わない。むしろこの害虫の悪運に感謝するべきだろう。
「まさか、僕がお前なんかに感謝する時が来るとはね……」
独り言ちる。
ようやくこれで復讐が果たせるのだ。
姉は生き返らない。リンドウの“力”では不可能だと思い知らされた。
ならばせめて報復を。最愛の姉に最期の手向けを。
――マリカは、本当にそれを望んでいるの?
幼い声をした弱弱しい少年が背後から声をかける。
酷く煩わしかった。全てはお前のせいなのに。お前が――僕が弱かったからなのに。
泣きじゃくり姉に付きまとっていた弱い自分を、リンドウは心の中で殺した。殺して殺して殺しまくれば、その声は聞こえなくなっていた。
「ふ、ふふ。あははははっ!!」
良かった。弱い自分と決別することが出来た。
これでもう、思い残すことは何もない。
“蟲”に目を向け、その眼前に片手を翳した。
唯一の目玉がこれまで以上に見開かれ、恐怖ゆえか汚液が垂れ流れる。リンドウは汚らわしいものを見るように目を眇め、舌打ちを零した。
「最後に何か言いたいことはある?」
謝れ、命乞いをしろ。それでも無残に殺してやるけれど。
悪魔めいた笑みを浮かべるリンドウに、しかし蟲は狂ったような嘲笑を刻んだ。
「あ、はは、ハハハ! やっぱりお前はそうだ、そうだった! あの化物と魔女の血を受け継いだ人外だ。ハハハ! 私はそのうちの一匹を殺したぞぉ!! あは、アハハは」
ぶちゅっと。腐った果実を潰した様に呆気なく蟲の――叔母の頭は潰れた。血と脳味噌と脳漿が果汁のように流れ落ち、腐りきった臭いが立ち込める。
見えざる圧倒的な力で積年の怨敵を潰し殺したリンドウであったが、その顔に笑みが刻まれることはなかった。
「何だ……呆気なかったな……」
発したのはその一言のみだった。
遠く、けたたましいサイレンの音が聞こえる。これほどの騒ぎを起こしたのだから通報されるのは当然だ。警察はリンドウを捕まえるだろう。超常の力で人を殺した“サイキッカー”として。
(捕まったら、殺されるんだろうな……)
生気の失った瞳で亡くした片割れに目をやる。
リンドウは己がやることを分かっていた。警察に投降するわけでもない、死を選ぶわけでもない。
もし姉が生きていたら、どんな形であれこう言うだろう。
――生きて、と。
(……僕は、死ぬわけにはいかない。マリカの分まで生きないと……!)
吹き飛んだ玄関のドアをくぐる直前、最後に振り返る。
「……ばいばい、お姉ちゃん……」
けたたましいサイレンに掻き消されるように、リンドウの足音は遠くどこかへ消えていった。
だから彼は目にしていない。
少女の指先が、ぴくり、と確かに動いたことを。
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