第1-6話

 その日も曇り空だった。ただ雨が降るのか降らないのか、晴れるのか晴れないのか、どっちつかずの曖昧な空模様はまるでマリカの心を映したよう見える。

 夕方にしては夜の気配が濃く浮き出ており、人気のない街路にはぽつぽつと気休め程度の街灯が灯し始めていた。

 夕飯分の材料の入った買い物袋を掲げ、マリカは一人帰路につく。

 頭がぼうっとしていた。寝不足でも睡眠不足でも――いや、その両方は常にあったが、ここ最近やけに体が重く怠く感じている。

 マリカは原因を探るべく、この一週間を振り返る。

 まず叔母のヒステリーがより強くなった。口を開けば「誰かに監視されている、見られている」だの自意識過剰も甚だしい。マリカはここ一週間繰り返された叔母の病気ともいえる言動に疲れ切った顔を顰めた。

 それに加え、リンドウの体調も悪化している。風邪でも引いてしまったのか、頭痛や吐き気が酷い。一回り小さな弟の体が病魔に押しつぶされそうで気が気でなかった。マリカは寝るのもよそに看病を続けていた。


(やっぱ、寝不足なだけか……。何だ、いつも通りだ……)


 安易に自分の体調を決定つける。いつも通りだ、何の問題もない。

 けれどそれに体が憤慨したかのように、頭の奥に亀裂が入ったかのような鋭い痛みを覚えた。一瞬、脳が煮えたぎってしまったと錯覚する。

 何も考えられなくなり、膝が折れて倒れそうになった、が寸でで堪える。


(これは寝不足なだけ、寝不足なだけ。大丈夫、いつもより多く寝ればきっと良くなる――)


 深く深呼吸する。次第にぶれた視界が元に戻り、頭の痛みは引いていった。


(大丈夫、大丈夫……!)


 目元が細かく痙攣するのを無視し、もはや戒めに近い言葉を胸中で繰り返して、マリカはいつもより遅い足取りで家を目指した。



***


 家に着くなり、予想だにしない最悪がマリカに襲い掛かった。

 怒り狂った悪魔の顔――叔母がそこにいた。冗談みたいに釣り上がった顔は完全に理性を放り投げ、獣の如く猛り狂っている。

 何でこの時間に叔母がいるのか。今日は仕事のはずなのに。

 血の気が引いた思考が現状を拒絶するが、現実はいつだって残酷だ。

 叔母がここにいる、それだけが今における真実。そしてより最悪なのはヒステリーモード真っ只中だということ。

 家具と食器が不協和音を醸し音を立てて派手に壊れていく。地鳴りのような足音が下手くそな演奏に拍車をかけていた。

 叔母はマリカに背を向けている。こちらに気付いていない。

 そっと。音をたてないように細心の注意を払いながら扉を閉め、鍵をかけた。


 ――はずなのに。


 完全に充血しきった真っ赤な白目に浮かぶどす黒い目玉が、ぎょろり、と。何かの生命体のように意志を持ってあり得ない動きでマリカを眼中に収めた。


「ひっ……!」


 本能からくる恐怖に引きつった悲鳴が唇から飛び出した。しまうことはもうできない。


「みぃぃたぁぁなぁぁぁあっ!!?」


 獲物を見つけたんばかりに、髪を振り乱して魔女が迫る。

 その瞳は狂気に捕らわれていて、マリカを見ているようでまるで見ていなかった。マリカに重ねて、何か得体の知れないものに憎悪を向けている。


「ったい……、痛い、やめてっ!!」


 細腕からとは思えぬ膂力でマリカはその場に引き倒された。鷲掴みにされた髪がぶちぶちと引き千切られる。

 マリカの制止の声など届いていないのか、叔母は華奢な体に馬乗りになると両足でマリカの両腕を押さえつけ、そして――。

 ゆっくりと、その細首を締めあげてきた。


「っあ……、あ、ぅ……っ!」


 大蛇に締め上げられているかのように、マリカの呼吸に合わせ確実に気道が潰される。残されたわずかな空気が唾液と一緒に唇から零れ、次第に視界が赤く染まり始めた。意識が膨張し、脈に合わせて脳が酷い頭痛に支配される。


「……や、……め……」


 さすがにここまでされたことはなかった。絶対的な命の危機に彷徨う瞳が吸い込まれるように悪鬼に向けられる。

 赤く膨張した視界に飛び込んできたのは。今、自分を絞殺さんばかりの殺意を向けている者は。


「ギャは、ハハハ、あははは! キハハハハッ!! 私ヲ見るからダ私を見るカラだ見るな見ルナ私ヲ見ルナ監視するナ、何デ私ガ私が私ガ――」


 化物だ。


「…………っ!」


 声はもう出ない。

 視界はただ赤く、赤く、赫く。ゆっくりと輪郭そのものがぼやけていき、やがて黒に塗り潰される――……。


「お姉ちゃんから離れろぉ!!」


 体が不意に軽くなり、圧迫され続けた首が自由を得る。確保された気道が本能のままに大量の酸素を取り込み、反動でマリカは大きく咳き込んだ。

 吐き気すらするほど空気を取り込み、生理的な涙を流すマリカの眼前に鏡合わせの己が映った。


「お姉ちゃん、お姉ちゃん大丈夫っ!!?」


 今にも泣きだしてしまいそうな、自分と同じ顔をくしゃくしゃに歪めながら――リンドウはマリカに抱き着いた。


「リン、ド……リンドウ……」


 互いを求めるように腕を回し抱きしめ合う。汚れた顔を気にすることなくリンドウは姉の肩に顔を埋めた。


(温かい……)


 頬と頬を摺り寄せる。互いの熱が確かに存在する。自分が今生きていることにマリカは酷い安堵感を覚えた。

 怖かった。すごく、怖かった。

 死ぬのが怖かった。殺されるのが怖かった。リンドウを独りにしてしまうことが怖かった。

 でも自分は今生きている。守っていたはずの弟が助けてくれた。

 恐怖から解放されたマリカの頬に涙が一筋零れた。それを反射的に拭おうとした矢先、視界の片隅で悪魔が蘇った。


 スロー再生されているかのように緩慢でのっそりとした動きで叔母が起き上がる。落書きのように吊り上がった目は最早どこも見ておらず、半ば白目を剥いているかのようだった。ぶつぶつと呪詛の如く吐かれる呟きに合わせて唾液が泡立って床に落ちる。


 まるで物語に出てくる怪物だ。

 異常、としか思えないその様にマリカは呆気に取られる。頭の芯が確かな熱を急速に失い、死の冷たさが霜のように蔓延った。


 叔母と、目と目が、合ってしまった。

 無表情に佇む叔母の手元にはいつ手にしたのだろうか、鈍色に煌めく何かが見えた。


 己でも無意識の内に大事な半身を引き剥がして突き飛ばした。

 離れた熱にはもう二度と触れ合うことはできないだろう。

 リンドウは衝撃で台所の椅子まで吹っ飛んだ。病魔に侵された軽い体は受け身すら取れず、床を転がって突っ伏してしまう。

 痛い思いをさせて、ごめんね。

 痛みに呻くリンドウにマリカは心から謝罪した。唇が震える。自分を戒めるように噛んで震えを堪えた。けれど無理だった。

 常に力が籠って緊張した目元が緩む。リンドウにだけ向ける笑顔を作るためではない。

 どちらかと言えばその顔は――泣き出す手前のような、最愛の弟と別れを惜しむような――諦念めいた少女らしからぬ表情だった。


 リンドウがこちらを向いて血の気の失った顔で何かを叫んだ気がする。

 けれどもう遅かった。

 視界の片側で叔母がマリカに向けて放った包丁の方が少しだけ早く、マリカの意識を乗っ取った。

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