第1ー3話
雨の音がした。
薄い窓ガラスを細かな水滴が叩きつけ、無駄な雑音が遮断される。まるで世界に一人だけ取り残された気分だった。
雨の音と匂い。静まり返ったこの空間はリンドウに孤独と安息を与えた。
あれからだいぶ寝ていたのだろう。今はきっと昼過ぎのはずだ。時計のない部屋からそう感じたのは、姉であるマリカが「午後から雨が降る」と言っていたのを覚えていたからである。
リンドウは不調を訴える体を労わるようにゆっくりと布団から這い出た。じっとりと充満した湿気が肌をべたつかせ、不快な気分に両の眼を細くする。十一歳とは思えない険しい表情だった。例えるなら何人も信じていない野良猫のような顔。
リンドウは黒い瞳を数度瞬かせ、部屋を見渡した。
元は物置部屋を改良した作りの悪い部屋な為、埃っぽくかび臭い。剥がれた壁紙と粗末なカーテンだけを装飾として、何の色味もない本当に粗末な部屋だった。
けれどもここだけがリンドウにとっての安息の地。姉と二人でいられるたった一つの空間だった。
だがその空間に、今は姉がいない。
静かだった。雨の音しか聞こえないほどに。
姉がいないことに寂しさと孤独を感じるものの、叔母がいないことに歓喜と安息をリンドウは感じていた。叔母は確か、夜までパート勤務のはずだ。
叔母のあの性格でよく働きに出れるものだとリンドウは感心する。我儘でヒステリックで暴力的で、悪魔のような叔母。
絵に描いたように最悪を塗り固めた叔母は常に二人の姉弟を目の敵にし、ごみのように扱ってくる。気に入らないことがあればすぐに手をあげて、その度にマリカはリンドウを庇い傷付いていた。
今朝もそうだ。あの暴力の化身はまたもリンドウの片割れを傷つけた。
そのときの音に微睡みから抜け出したリンドウは、こっそりとドアの隙間から様子を伺っていたのだ。
床に引き倒され蹴られるマリカ。それを愉快そうに見下す叔母。
どろり、と。腹の中で黒い何かが意志を擡げた。
狂気を呟く叔母は室内を荒らすだけ荒らした後、魂の抜けたような顔で部屋に戻っていく。
取り残されたマリカは散乱した部屋を無言で片づけていた。その両の眼に涙を浮かべながら。きっと自分が泣いている自覚すらなく。
どろり、と。腹の中で黒くのたうち回る感情が思いのまま口元から飛び出しそうになったのをリンドウは必死に堪えた。
これは表に出したら駄目なやつだ。何故かリンドウはそう直感し、内に暴れる獣を抑えようと逃げるように布団の中で丸くなった。
起きた後には獣は形をなくし、内に潜んでいた。
黒い感情を司る獣がリンドウに宿ったのはずいぶん前からだ。いつ“そいつ”がリンドウの前に現れるかはわからない。
リンドウは二重の意味で、今の生活に苦しんでいた。
そっと扉を開ける。音をたてないように、というのが最早姉弟の癖でもあった。
物置部屋を抜けた先には台所、そして居間と繋がっている。
見渡す限り酷い有様だった。床の残骸は片づけられたものの、破れたカーテンや罅割れたガラス、凹んだ床は隠しようがない。それ以外にも何度も何度も刻み付けられた傷跡のせいで、この安アパートの一室を廃墟のような印象を抱かせた。
昨日の夜――正確には日付が変わっていたので今日に当たる出来事だが、叔母はまた意味不明な妄言を吐きながら暴れていたらしい。
狂っている、姉のマリカは叔母をそう評した。
マリカに耳を塞がれ、守られるように抱かれながらリンドウは眠りについた、……ように見せた。
気になることがある。叔母の妄言についてだ。
誰かに見られていると叔母は言った。監視されているとも言っていた。
姉は被害妄想が激しいだけ、そうリンドウに言い聞かせていたが、リンドウはこれだけは素直に聞くことができなかった。
多分、叔母の言っていることは事実なのであろう。
実際リンドウも何かの視線や気配を感じることが度々ある。今まで気には留めなかったが、最近それを強く感じるようになってきた。
誰かに見られている、監視されている。けれどマリカにこのことは言えなかった。余計な心配をかけたくなかったし、何より軽蔑する叔母と同じ症状を抱いているなどと言えるはずもなかった。
コンロに置いてあった粥を温めながら、リンドウは食器を用意しようと棚を開けたとき――。
ぞわり、と。粘りつくような気配を感じ、背後を振り向いた。
後ろには何もいなかった。居間の奥、ベランダに続く窓ガラスはカーテンに閉ざされ、外の様子は雨粒の音しか拾えない。
けれども今、確かに感じた。“見られている”と。
(僕もおかしいのかな……)
両手で自分を抱きながらリンドウは固く目を瞑った。
こんなことマリカには言えない。言ったら狂っていると思われる。叔母と同じだと思われてしまう。
そんなこと姉が言うはずがないとわかっているのに、一度抱いた不安をリンドウは消すことができなかった。
粥が煮えたぎる音だけが孤独な一室に響いてた。
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