第1-2話

 弟のリンドウは幼い頃から病弱だった。

 それに拍車をかけたのは、やはりこの地獄のような環境のせいかもしれない。ただでさえ体の弱いリンドウは目に見えて衰弱していった。

 歳は十一だけれど体はその成長についていけず、双子の姉弟の体格には差が生まれていた。リンドウは七、八歳でも十分通用するだろう。

 四肢はマリカより細く、愛らしい頬はだいぶ扱けている。顔色は常に蒼白で血が通っているのか不安になるほどだ。艶やかだった黒髪は枯れて光を失い、乱雑に切られている。これはマリカがやったものだ。

 病院に通いきりで、リンドウはろくに学校には行けていない。一日をこの薄暗い部屋――部屋に改良された物置部屋で過ごすのがほとんどだった。


 衛生的に良くない部屋に加えて、満足できない生活環境。これでは治るべき病気も治らないだろうとマリカは理解している。

 けれど姉弟には現状を打破する力がなかった。勇気もなかった。そもそも、そんなことを考えたことすらなかったのかもしれない。

 弟の小さな体を抱きしめながら、マリカは今でも思うことがある。

 二人で保護施設に入っていたらどうなっていただろう。

 少なくとも今よりかは遥かにましなのかもしれない。

 けれど――。

 細い両腕に力が籠る。リンドウは苦しかったのか上目で姉に制止を求めた。


「お姉ちゃん? 苦しいよ……」


(もし離れ離れになったら? そんなの私は耐えられない……っ。独りにされるのだけは絶対に嫌だっ!!)


 少女の心からの慟哭だった。内に秘めたマリカの我儘は、あの日、両親を亡くした時から深く根付いたものなのかもしれない。


「ごめんねリンドウ。お姉ちゃん、準備したら学校行ってくるね」


 不満げに膨れた頬を指先で押すと、弟はじゃれる猫のように甘えた笑顔を見せてくれた。その笑みだけでマリカは今日も一日頑張れることができる。

 愛おし気にリンドウの額に口づけを送ると、彼は安心しきったかのように布団に潜り、目を閉じた。

 どうか良い夢を。マリカは優しく微笑むと、そっとかび臭い部屋から静かに出て行った。


***


 マリカの朝は早い。やらなければならないことがいくつもあった。

 掃除、洗濯、朝食の準備。それもできるだけ静かに。

 音を立てるとまだ寝ているであろう叔母が起きてしまい、「もっと静かにできないのか!」と頬を叩かれる。

 ヒステリックで自己中心な叔母は子供に暴力を振るうことに何も感じないのだろう。気が済めばさっさと部屋に戻り二度寝するほどだ。

 マリカは叔母に家事手伝いをすることを強要されていた。もっとも扱いとしては下僕のほうが当て嵌まる。

 叔母の言う分には「寝床も飯も与えている。学校にも病院にも行かせてやっている。それなのにお前たちは私に感謝すらしないのか。するなら形で示せ」とのことだった。

 歯向かうことは初めから許されていない。これは一種の脅迫なのだ。もし叔母の言い分を破れば、リンドウは病院に連れて行ってもらえないかもしれない。

 一番大切な弟を人質に取られたマリカは、たとえ殴られようが蹴られようが叔母の理不尽な命令に従うしか道がなかった。


 常にやっていることだからか、マリカの手際はいい。洗濯機を回し、空いた時間で掃除を行う。掃除を終えた頃には洗濯機が終わるので、今度は干す作業だ。午後からは雨なので部屋に干すしかない。

 続いて朝食の準備。冷蔵庫を確認する。卵とハムでハムエッグを、レタスときゅうりとトマトでサラダを作り、インスタントのコーンスープを用意しておく。クロワッサンの残りがあるのでそれもテーブルに並べて完了だ。

 マリカは余った野菜くずを口に放り込み、自身の腹を誤魔化しながらもリンドウの朝食の準備をする。

 今日もリンドウは具合が良くなさそうだった。ならば消化のいいものを作ろう。マリカは冷凍されたご飯を電子レンジにかけ、お湯を沸かす。作るのはおかゆだ。温めたご飯をお湯の煮立った鍋に入れ、待つこと数十分。塩で調味し白粥の完成だ。

 湯気立つ粥の甘い匂いに思わず腹が鳴る。無意識に唾を嚥下した。そこでマリカは我に返り、自分を律するように頬を両手で叩く。


(これはリンドウのためのご飯だ。私は我慢しなきゃ……)


 少しでもリンドウが元気になりますように。そんな願いを込めた白粥は温めやすいようにコンロの上に置いておく。

 後は洗い物をして終わりだ。食器を手早く洗うマリカだったが、空腹ゆえか、それとも朝から続く頭痛のせいか、視界が一瞬ぐらりと揺れて思考が置いてかれたように何も考えられなくなる。

 マリカの意識を戻したのは、手から滑り落ちた皿が割れた音だった。甲高い悲鳴を上げ粉々に砕ける皿。床に散らばった破片がマリカを見上げて嗤っている。

 マリカは頭からつま先まで冷えるのを感じた。色素の薄い唇が震えた空気を漏らす。


 ものの数秒で居間に面した部屋から暴れ狂ったような猛獣の雄たけびが上がった。声は形を成してドアを蹴り飛ばし、居間を擦り抜けて台所に突進してくる。

 マリカの眼前に現れたのは猛獣だ。怒髪の如く逆立った汚い色の髪。魔女のように扱けた青白い頬と枯れた唇。落ち窪んだ目元はまるで骸骨のようだ。なのに目玉だけは嫌な光が爛々と光っていて肉食獣のような獰猛さを孕んでいる。

 猛獣は扱けた肢体で床を踏み抜くような音を出してマリカに詰め寄った。


「アンタ何やってんのよぉ!!? 皿なんか割って……何してんのよっ!?」


 寝起きなのが信じられないくらい猛獣は――叔母は金切り声をあげる。

 棒のような指で大げさなまでに割れた皿を指さし吠えたてた。


「なんて鈍臭いの!? 信じられないわ。何の取り柄もないくせに、このくらいちゃんとできるようにしなさいよぉ!!」


 頭痛が酷い。目が回る。鼓膜を直に貫き通すような喚き声はマリカの脳を乱暴に揺さぶった。

 いつもならすぐに謝っていたが、今日この時だけは思考が遅れた。

 それは致命的なまでの遅れだった。


「……何よ、その顔? 謝りもしないで、アンタ何様のつもり!?」


 視界が折れ曲がった。頬が痺れたように傷んで熱を持つ。細腕からとは思えない力で頬を思い切り打たれたのだ。

 そのままの角度で固まるマリカが未だ許せないのか、叔母は鬼のような形相でマリカの髪を掴み上げ床に引き倒した。


「アンタ達みたいな無能で何の益もないゴミクズをっ、何で私がっ、面倒見なきゃならないのよぉっ!!?」


 知るかそんなの。こっちだってお前なんかお断りだ。

 だがしかし言葉は口から出ること叶わず、叔母の暴言から合わせて繰り出される慈悲のない蹴りによって、マリカは呻き声を上げることしかできなかった。


 ぐったりと横たわるマリカを見て満足したのか、叔母は魔女のような嫌らしい笑みを浮かべる。やがて笑みだけでは物足りず狂ったような引き笑いを吐き出した。


「あ、ははは! アハハハハハ! ざまぁみろ、ざまあみろぉ! 私を見るからだ、監視するからだぁ。きはは、は。あ、……あぁ、また誰か私を見てるな!? 見るな見るな私を見るな誰だ私を見るのは見るな見るな見るな――」


 いつもの光景ながらマリカはぞっとした。歯を噛み締め、恐怖からくる震えを無理やりに押し込める。

 叔母はヒステリックで自己中心的で、そして狂気的だった。一度スイッチが切り替わると意味不明の言葉を繰り返し、我に返るまで暴れ出す。その時の矛先は大抵物であるが、時偶に切っ先はマリカに向かうことがある。

 だからマリカは叔母がその状態になると小さく固まって魔女の視界に入らないよう必死に努めるしかないのだ。

 食器の割れる音、布が切り裂かれる音、床が軋む音、窓が叩かれる音。


「……疲れた」


 暴風のような音は、叔母の発したその一言で止んだ。

 それまでの狂気とは打って変わって、無表情になると充血した目玉でどこかを見つめながら部屋へと戻っていく。

 嵐が過ぎ去ったことに安堵したマリカは。痛む腹を抑えながらゆっくりと起き上がった。

 部屋の有様は散々だった。カーテンは引き裂かれ、窓ガラスには皹が入り、床は傷ついていて、そしてせっかく作った朝食は全て床にぶちまけられていた。


「……片づけ、ないと……」


 自分に言い聞かせるように力なく呟いた。

 早く片づけないと学校に遅れてしまう。

 マリカはごみ袋を持って、朝食の残骸を拾い始めた。

 ぽたり、と。滴が床に染みを作る。

 ぽたり、ぽたりと。傷だらけの手に滴が落ちる。

 何の滴だろう? まあ、どうでもいいか。

 マリカは無言でごみとなったものを拾い続ける。

 頭が痛い。呼吸が上擦って息が苦しかった。視界がぼやけて頬に温い何かが伝っていく。

 それでもマリカは、自分が泣いていることに気付くことはなかった。

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