第1話 花の行方

 朝が来た。

 薄汚れたカーテンは重い色をしており、僅かな陽光すら拒絶するように室内に薄暗さを蔓延させている。

 茉理乃まつりの茉莉花まりか ――マリカは億劫そうに重い幕を抉じ開けた。

 ガラス窓から見渡す空は今にも雨が降りそうな鈍色で曇っている。確か午後から雨予報のはずだ。部屋内もじっとりとした嫌な湿度の高さで肌がべたついている。

 それはきっとあちこちに皹が割れ、外と内を通す隙間が何か所か空いているからだろう。夏は茹だるように暑く、冬は凍えるように寒い。最悪の環境だ。

 薄汚れたガラスをマリカはなぞる。ガラスは鏡のように反射して、虚ろな瞳の少女を映していた。

 反射された少女は歳の割には細く華奢な体つきだった。同年代と比べると差は歴然としている。もう少しで十二歳となるが、下手したら小学校の中学年に見られなくもない。

 原因はわかっている。満足な食事をしていないからだ。

 昔は大きな黒い瞳が可愛い、とよく言われたものだが、今となっては見る影もない。家庭環境の複雑さを現しているように目つきは鋭く、何者も信じない野良猫のような尖った眼をしている。血の気のない白い肌には目元の隈が嫌になるほど鮮明に映し出されていた。

 原因はわかっている。寝不足だからだ。昨日もあの喧しい喚き声のせいでろくに眠れなかった。

 頭が痛い。普段と変わらない痛みのはずなのに、今日は一段とそれが煩わしい。イラつきに任せて髪を掻くと傷んで細くなった髪が何本か犠牲になった。

 肩まで乱雑に切られた髪は自分でやったものだ。美容室に行く金などない。染めてもないのに髪は傷みすぎて赤茶色に変色してしまった。生活が変わらない限り戻ることはないだろう。

 ガラス窓に映った自分は十一の少女と思えないぐらい険しい顔つきだった。

 学校に行けばこの風貌のせいか【野良猫】と陰口を叩かれていることを知っている。周りが自分を『可哀想な子』と疎んで嗤っていることを知っている。

 子供心を抉るような言葉の暴力は、しかし家にいるよりかは遥かにましな中傷だった。


 全てが終わって、始まったのは今から三年前。マリカが八歳の頃。

 両親が事故で死に、母方の姉――叔母に引き取られたのが悲劇の始まりだった。


 叔母は妹である母を異常に嫌っており、顔を合わせば喧嘩が絶えなかったという。なぜそこまで仲が悪いのかマリカは知ることはなかったが、親戚同士の付き合いが全くなかったため、幼いながらも敏感にそれを察知した。

 叔母に会ったのも今までで二度ほどしかない。マリカにとって叔母とは、血の繋がりのある他人程度の認識だった。


 けれど両親が死に、幼い姉弟の引き取り手の候補に挙がったのがこの叔母だった。母の両親は既に亡くなっている。父方の親戚は誰もその存在を把握しておらず、連絡を取る手段がなかった。

 社会という視線に睨まれて、叔母が渋々双子を引き取ったのは言うまでもない。

 両者が望まない形で新たな生活が始まったが、それはすぐに崩壊した。

 一か月のしないうちに叔父と叔母の言い争いは聞くに堪えないものまで発展した。内容は引き取られた姉弟の話題ばかり。叔母のヒステリックな叫び声のせいで何度近所から警察を呼ばれたかわからない。

 二人の息子である従兄からは「お前達のせいだ」と暴力を振るわれた。姉弟はひたすらその暴力に耐えた。

 三か月過ぎた頃、叔父は息子と共に家を出た。後に離婚届が送られてきたらしく、それでかなり揉めたが離婚は成立したらしい。


 そうして取り残された叔母と二人の姉弟。関係は最悪、の一言だった。


 言葉の暴力、肉体的な暴力、精神的な暴力。――暴力暴力暴力。

 扱いは人でも動物でもない。例えるなら無機物のサンドバックのよう。

 抵抗は許されない、反抗は許されない。ただ無に徹して降りかかる災いに耐えるしかなかった。

 気付けば体中痣だらけだった。どこが痛いのすらわからないくらい体は常に悲鳴を上げている。満足な食事はただの一回もなかった。腹は常に空腹で鳴いている。

 世間体を気にしてか唯一学校には通っていたが、体中に傷を負ったマリカはすぐに虐待されているのだと知れ渡った。

 担任や児童保護施設の職員は何度も訪れて、その度にマリカを問いただす。『虐待はされているのか』と。

 マリカは毎回決まって首を振った。『虐待などされていない』と。

 きっと手を伸ばせば、声をあげれば思いは届く距離だったのかもしれない。

 けれど、幼いマリカは“大人”という人間を信じ切ることができなかった。

 幼い心はすでに猜疑心に苛まれ、無垢だった瞳は昏く濁っている。心は閉ざされ、気付けば全てが敵に見えていた。


 この現状が苦しかった。辛かった。何度も何度も逃げ出したいと思った。けれど独りになるほうが怖かった。

 マリカにはこの悪夢から逃げない理由がある。

 彼女には、守るべき者がいた。


「お姉ちゃん……?」


 ぼうっと過去を追憶していたマリカをか細い声が呼びかけた。

 ガラス窓に反射して、暗い室内で影が動く。

 マリカは固くなった表情を何とか緩める努力をして、彼にしか見せない笑顔で振り向いた。


「おはよう、リンドウ。体の具合はどう?」


「おはよう、お姉ちゃん。大、丈夫だよっ……、ごほ、こほ……っ」


 弟の言葉を否定するように体は不調を訴える。咳き込んで呼吸が苦しいのか、ひゅうひゅうと喉を鳴らす嫌な音がした。

 慌ててマリカは弟に駆け寄り、自分より小さな背中を擦ってやる。


「具合、悪いんでしょう? 駄目だよちゃんと寝てなきゃ。学校にはお姉ちゃんが言っておくから大丈夫だよ」


「でも、お姉ちゃ、ん……」


「大丈夫、大丈夫だよ。無理しないで、安静にしてて」


 何かを訴えるように震えるリンドウの視線から逃げるように、マリカは華奢な弟を宥めるようにその体を抱きしめた。


「大丈夫、リンドウは私が必ず守るから」


 いつから『大丈夫』が口癖になったのだろう。その言葉が意味を成しているのかマリカにはわからなかった。


「……わかった。ありがとうお姉ちゃん。……ごめんね」


 ただ、この言葉を言うとリンドウが安心するから。マリカはそれを言わざる得なかった。


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