あの花の名を知る術はなく

夢見弖ねむる

プロローグ ―その花の名は―

 淡い色をしたカーテンから暖かな日差しが擦り抜けて、少女の柔らかな頬を撫でた。

 少女はたじろぐ。

 まだ夢を見ていたい気もした。ただ早く起きなければ、とも思った。

 誘惑が暖かく拱く。陽の匂いをいっぱいに吸い込めば、微睡みに溶け行くような感覚を少女は覚えた。


(あと五分……)


 少しの猶予を自分に残し、少女は丸くなる。日差しを受けて丸まる様は子猫の日向ぼっこのようだった。

 あと少し。あと少しで少女は穏やかな眠りに身を任せられることができる。

 感覚が沈み、思考すら億劫になり――。


 だがしかし、少女を現実から引き揚げたのは、けたたましくなるベルの音だった。

 耳元で鳴る爆音に四肢がびくりと跳ね上がり、続いて脳が一瞬で覚醒する。聞き覚えのある音は目覚まし時計のものだった。

 唐突の出来事に少女は大きな黒い瞳を数度瞬かせ――絶叫。


「寝坊したぁっ!?」


 寝起きとは思えぬ瞬発力で布団を蹴り上げると、慌ただしく鳴り響く目覚まし時計を退治でもするかのように思い切り叩く。

 時間は七時半だ。三十分の寝坊。少女には猶予などなかった。

 どうしよう。何しよう。早く起こしてくれてもいいのに。

 焦燥に惑う心は、無責任を他人に押し付けた。

 とりあえず着替えだ。前の日に枕元に置いておいた着替えに手を伸ばし、パジャマを剥ぎ取り身に着ける。

 経過したのは二分ほど。駄目だ、間に合わない。朝御飯なんて食べてる時間がない。

 だがしかし、焦る少女はやっと異変に気付いた。

 デジタルの目覚まし時計に表示されているのは何も時間だけでない。曜日も日付もある。年相応の愛らしい顔立ちを顰めて少女は時計を凝視した。


 今日は日曜日だった。


「な、なぁーんだぁ……。日曜か。寝惚けてただけかよかったぁ……」


 緊張が緩み、その場にへたり込む。朝から余計な体力を使ってしまった。

 二度寝しようか、とも考えたが既に着替えが済んでいる。それに冴えた頭では寝付くのに時間がかかるだろう。

 どうやら夢の続きを見ることは叶わないらしい。少女の桃色の唇が残念そうに息を吐いた。


「っ……、ふふっ」


 堪えきれなくなって笑いが噴出した。少女のものではない。

 声の出所を見れば、半開きになったドアから小さな少年が顔を除かせてこちらを見ている。

 癖のない真っすぐの黒い髪と同色の大きな瞳。幼さがだいぶ残る顔立ちは、鏡合わせの自分を見ているようだ。

 少女の視線に気付くと、少年は何とか笑いを堪えようとしたけれど駄目だったらしい。逆に先程より強く噴き出す形となった。


「あはははっ! な、何やってるのお姉ちゃん? 今日は休みなのにそんなに急いで……」


 語尾を震わせ、少年は涙の溜まった目元を拭う。

 いくら何でも笑いすぎだろう。少しばかりムッとする少女だったが、弟の元気な様子を見てそんな気などすぐに吹き飛んだ。

 つられる様に少女も笑いだす。


 今日は朝から楽しい日になりそうだった。


***


 正午、陽が良く当たる子供部屋で姉と弟は仲良く絵本を読んでいた。

 絵本といっても画用紙に絵を描いて、ホチキスで留めた手作りのものだ。表紙には稚拙だけれどしっかりとタイトルと登場人物が描かれている。

 この絵本の著者は姉である少女だった。物語は異国の勇者が捕らわれのお姫様を助けに行くという王道のストーリー。

 今回は力作だ。弟も興味津々といった様子で食い入るように姉の語りに耳を向ける。

 最後のページを閉じながら少女は「めでたし、めでたし」と物語を締めくくった。


「今回もすっごく面白かったよお姉ちゃん!!」


 煌めくような瞳で少年は嬉しそうに綻んだ。少女の口元にも同じような笑みが浮かぶ。

 きっと今、自分は弟と全く同じ顔をしているのだと少女は思う。だって二人は双子の姉弟なのだから。

 言わなくてもわかる一種のテレパシーのような感覚に繋がれ、弟が本当に喜んでいることを少女は知っていた。


「この絵本の主人公は茉莉花で、お姫様は竜胆なんだよ」


 それに対し実の弟である――竜胆は、丸い目を驚きで瞬かせた。

 少しの間。姉である茉莉花はその間に少しの気まずさを覚える。


(やっぱり竜胆は勇者のほうがよかったかな……?)


 弟は大人しい性格だから、といった単純な理由で姫役に抜擢した。それに茉莉花自身が勇者を――主人公役をやりたかったこともある。活発な性格の自分のほうが勇者には合っているだろう、といったこれまた単純な理由だった。

 けれどそこには茉莉花自身の気持ちしかないことを知る。

 竜胆は意志が弱いとはいえ男の子だ。勇者役をやりたいと思っているかもしれない。

 自分の配慮のなさに茉莉花は眉を下げた。どうしよう、と過ぎる気まずさに居たたまれなくなり、伺うように竜胆の顔を覗く。


 弟は笑顔だった。


「えへへ、僕がお姫様かぁ。じゃあお姉ちゃんは僕を守ってくれる勇者、それって“ヒーロー”ってことだよね?」


 竜胆は日曜の朝方にやっている戦隊もののアニメを例えに、茉莉花を“ヒーロー”と呼んだ。

 “ヒーロー”その言葉が胸にすとんと落ちる。素直にかっこいい響きだと思った。

 そのアニメを茉莉花は見ていないが、なぜか勇者よりかっこいいものだと茉莉花の中で認識が改まる。弟がいつも朝食時にアニメの感想を茉莉花に熱く語っているせいかもしれない。


「ヒーロー……。うん、ヒーロー! 茉莉花は竜胆のヒーローだよ!! 竜胆が困っているときや大変なとき、茉莉花が絶対竜胆を助けるからね!」


「本当、お姉ちゃん!?」


「うん、本当! 絶対の絶対だからね!」


「ありがとうお姉ちゃん!」


 それは暖かな日差しが降り注ぐ午後のひと時。

 一階から母親の声が聞こえた。どうやらおやつの時間らしい。

 姉弟は仲良く手を取って一階へと駆けていった。

 無人となった部屋で、閉じられた本が日差しを受けて陽光色に輝く。

 物語を締めくくるハッピーエンドに相応しい色だった。


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