公孫樹病
二三野 花
第1話
竜田あき、という学生がいた。
いた、というのはまぁお察しのとおり過去形で彼女はもういない。事故に遭ったワケでも素行が悪く退学処分になった──ワケでも、ない。大仰なイベントとは縁もゆかりもない一般人の筈、だった。それが竜田あきという人間だった。
別に緋色の研究がしたいだとか、雀蜂を青酸カリで除去したいだとか、兎角探偵の真似事をするつもりはないが……ただ、僕はいなくなった彼女の所為で病に侵されている。それは不治の病だ。
どこから説明しようか。
まずは、そう。彼女が過去形になった事から、話そう。あれは十月二十日、秋深まった頃合いだった、か。
***
「なんかアイツちょっと最近変なんだ」
「……変、とは」
きっかけは講堂を出たイチョウ並木での会話だった。相談を持ち掛けたのは中学時代の同級だった薄野である(ちなみに高校は違う。大学でばったり再会した時は二人そろって大笑いしたものだ。閑話休題)
「そしてあいつ、とは」
「あき。竜田あき」
話題の彼女はこの同級と高校からの仲だと聞いた。
「講義ン時ぼおっとしてるし、と思ったら急に振り返ったり。きょろきょろしたり」
「体調不良とかじゃなく?」
「うーん……」
げんに彼女は講義に現れていない。彼に聞くと休みを取ったらしい、と返事を聞く。どうにも予想外だったようで同級生はありもしないろくろを回しては唸る。
「本人はなんて?」
「違うってさ」
どうにも普段は別段変わりはないがふとした瞬間、空からジャム瓶が降ってくるように竜田は奇妙になるという。
「マザーグースじゃあるまいに……」
「なんて?」
「ごめん独り言。で、気になる気になる竜田さんはどうして休みか聞いてる?」
「あっ、いや」
「君が隠し事なんてできるワケないでしょうが」
特にこの浮かれポンチは特にわかりやすい。特に、だ。表情が思春期のそれだ。季節外れの花吹雪にのぼせ上った、ある一定の年頃にしか見られない横顔をしていた。
「あー……オレも知らね。……教授は知ってたぽいけど」
「なにかあった時は連絡しろ」って言ってたんだけどなぁとしょげた同級に僕は首をすくめた。
──さっさと告白すればその鬱憤も晴れるのに、と喉まで出かかり……引っ込めた。色々知っている我が身には事情がある。
「ところでおまえ、推理小説とか好きだよな?」
「……まぁね」
会話の切り出しからしてそんな気はしていたのは否めなくもない。
「協力して欲しいんだ」
かくして。僕は学食のランチ一週間奢りに負け、竜田あきの調査(とは名ばかりの観察)をするに至った。ワトソンにすら鼻で笑われるレベルの尾行もしたとも。──そして彼女の不自然さを目の当たりにした。
確かに誰もいないのに明後日の方角に振り仰いでみたり口を開いたりしているのだ。イチョウ並木を歩いている時だから、ファンタジー好きな女子のように思考がお花畑なのか? とも考えたが「流石にそれはない」と同級に否定された。
「イマジナリー・フレンドとか」
「高校から一緒だけどそんなのいなかった」
言ってはみたがこれに関しては同級と同意見だ。そういう、空想上の友人というものは大概幼年期に発症する。
「……」
講堂で横顔を盗み見た時も竜田あきの印象はごく普通だった。精神をやられている人間は大なり小なり眼光の色みが違う、ぎらぎらしているというか。
……強いて彼女の印象を具体的にするなら、少々子供っぽさを感じるところか。言動が幼稚とは言わないが大人しく垢抜けてない雰囲気はある。
最初の一週間はこんなもの。
調査に変化が訪れたのは二週目に入ってからだ。
ある朝、竜田はバレッタをして講堂に入ってきた。きらきらと金色を揺らすバレッタは季節に沿うようにイチョウをモチーフにしていた。実に大人びたデザインで……正直あまり竜田の雰囲気には似合ってはいなかった。カップケーキの上にコットンパールが乗っかっているイメージがふと頭を過る。
「あ、それ」
「これ……ですか?」
「その、急にごめん。……普段着けてるの見た事なかったんだ」
思わず口に付いたセリフは三流もいいところで内心舌打ちする。しかし存外にも竜田は「プレゼントでいただいたんですよ」とほのぼのした空気を溢していた。
「アンティーク・ショップにありそうな雰囲気って思ったよ」
「私もとても気に入ってるんです」
竜田の声は軽やかだ。──いつの間にプレゼントしたか分からないが中々同級のヤツもやるじゃあないか、と僕は久しぶりにあの浮かれポンチを褒めてみる。けれどもセンスは少々アレだと思う、もっと雰囲気に合うものがいいだろう。などとヤツらしさを思い返す。昔から気の利く男だったが最後のツメが甘いヤツなのだ。
──だが。これは大きな間違いであったと事の次第を理解したのは僕が病に陥った後である。
事が大きくうねったのは丁度その日の帰り道で、だ。駅前のモールを僕は通って帰宅するのだがそのモールで竜田を発見した。思わず観察してしまうのは最近の癖になりつつある。遠目からぷらぷらと歩く竜田の様子を窺えばどうやらメンズのコートを手に取っている。疎い僕でも名前を把握しているブランドだ、もしやバレッタの礼のつもりなのか。しかしあのブラントのターゲットは僕たちよりもっと年上じゃあないだろうか。渋いというか、往年のハンクスなんたらが着こなすような一着だ。
「センスがズレ気味なのはある意味お似合いかもしれない……」
ウィンドショッピングはいやはや、女の方が楽しむのが上手いというのが持論だったりする。
竜田は何着かコートを取り出しては戻しを繰り返し、その都度髪をまとめていイチョウのバレッタがきらきら揺れる。余程大切なのか、時々竜田はバレッタに手を触れていた。まるで本物の柔さを気遣うように、細い指はするすると葉脈を這う。
似合わない、雰囲気に合っていない、と前も今も思っているがたったそれだけの仕草にかぎりしっくりと竜田の持ちうる形に収まっていた。
よもやこれだけの為に選んだ贈り物だろうか? そうなれば渡した相手は相当ニッチな趣味だ。そういう手合いは女の指先にフェチシズムに覚えがあるタイプとみた。……僕の同級生は高校の時に新たな扉をパカーと開いたのかもしれない。
「ん?」
イチョウの金色にぼおっとしていればいつの間にか竜田は誰かと話し始めていた。ショップの店員か、それとも友人か。
度いい区切りだとばかりに僕は背を向けた。
***
翌る日、そわそわした竜田を駅前で発見してその事実は判明した。朝からうわの空だったと同級から相談され気にしてはいたが、視線を落としモールのタイルばかり目を運ぶ彼女に「ああ」と合点する。
──今日は朝からバレッタを着けていない。あんなに大切にしていたのに失くしてしまったのか。心配なのか人と何度もぶつかりそうになっていて、とうとう僕は「竜田さん」と呼んでしまう。
「探し物?」
「あれ?……あ、確か薄野君のお友達の……」
「うん、お疲れ。ぶつかりそうだったから」
「あっ、それは……ありがとうございます」
「もしかしてバレッタ探してる? 今日着けてない」
「はい……大切な物だから、絶対に見つけたくて」
「どの辺探したか覚えてる? 僕も手伝うよ」
「えっ、でも……」
「いーから。僕、特に予定とかないし」
「……あの……はい、お願いしても、いいですか?」
「うん。──それで、どこまで探したかわかる?」
「クレープ屋さんの広場からそこの呉服のお店まで、です」
「結構探したね」
「それなりに頑張ったつもりなんですけど、けど探し方が悪いのか中々うまくいかず……はい……」
「センターにはもう問い合わせた?」
「──それは……それが、その……」
竜田が言い淀んだので「おや?」と僕は溢した。この場所で言うに憚るのかと、近くのコーヒー・ショップへ半ば強引に彼女を連れ込んでみた。──ナンパじゃないぞ。やましい事は何もない。ないったら。
「実は」
紙カップを片手に、角の造花の茂みに隠れたような席に腰掛けてから竜田はようやく事の経緯を話してくれた。
「バレッタ、その……隠されてしまったんです……」
「ええと、つまり誰かに盗られて故意に隠された。と」
「ちがっ……いえ……違わ、ない、です」
そんな宝探しごっこじゃあるまいし。ガチョウの腹からガーネットを探しに行く羽目になった三下よろしく頭痛が起きそうだった。よくあるパターンだ、そして同級のヤツはスポーツサークルに所属しているから顔が広い、そして女子の目につきやすい。
となると、昨日見た友人のようなものは友人ではなく、とどのつまり竜田に対して悪意を持った悪人だったらしい。もう少し観察しておけばよかったのか、とは後の祭り。
「ク……──バレッタをプレゼントしてくれた人に申し訳なくて、初めて貰った物だから見つけて、帰りたいです」
竜田は酷く縮こまって「大切にしたいのに」と今にも泣きそうな顔をしていた。
同級のヤツはバレッタがなくなったくらい笑って許すだろう。けれどもその経緯を知ったら話は別だ。その辺アイツは上手く立ち回れるタイプではない。
「……っ」
竜田はいつの間にかぎゅうっと目を瞑り、涙を堪えているようだった。僕はぎょっとする、何せ女子を慰める経験なぞ無きに等しい。
「ごめんなさい、めそめそして……すぐに治まりますから……」
「いや、その、別に謝らなくてもいいんじゃないかな、あのー」
これがテンパると呼ばれる状態か。どうにもこうにも薄っぺらい台詞しか舌に乗らず両手を宙にさ迷わせてしまう。ほっそりとした腕と肩はきゅうっと縮こまって……僕は女の細さを目の当たりにし思わずどきりとした。
「すぐ見つかるよ、それに怒ったりしないだろうし。アイツの事僕よく知って──」
るから。と口にする前に、途端パシャンと紙カップが倒れた。どちらも触っていないのに、まるで誰かに倒されたかのように、カップはころころ転がって床に落ちる。
「あ」
竜田も驚いたのか固まって、ぽつっと一言溢すばかりだ。
空気が一変した。
「──拭くもの、もらってきます」
「ぼ、僕行くよ」
「いえ私の、ですし……それに──」
そして「とりあえず貰ってきます」とだけ言って竜田は席を立とうとする。僕も慌てて腰を浮かせると店員がモップを持って来るのが見える。注目を一身に浴びて、僕も竜田も居心地は悪い。ど派手にまき散らしたコーヒーは店の飾りの造花プラントの方まで垂れてしまっている。
「この下までいっちゃったかな」
「どかせられます?」
「あ、意外と軽い」
「あっ」
「──あった……」
「……えっ、どうしてわかったの……?」
「竜田さん?」
「い、いえっ、独り言です……」
青天の霹靂というか、少しコーヒーがかかってしまったがプラントを退けた先に彼女の金色のバレッタはあった。竜田の髪で揺らめくイチョウは今僕の掌の上で光を反射していた。
──何故だろうか、微かに汐の香りがする……ような。
「これ」
「あ……あのっ、ありがとうございます」
「災い転じてってやつだね」
竜田の様子がおかしい気がしたがすぐに意識はバレッタの方に向く。用もなくなったコーヒー・ショップからそそくさと出て僕は彼女にイチョウを渡した。
「ありがとうございます、ほんとうに、見つかってよかった」
「だね。探し回る羽目にならなくてよかった」
そういえばこんなに間近にバレッタを眺めたのは初めてだ。思ったよりも軽く、金属でできていると勘違いしていたが細かい刺繍糸を幾つも重ね、アンティークビーズだろうか、惜しげもなく縫い込まれたバレッタはやはり……気品があり、大人びた雰囲気があった。アイリーンに似合いそうだと、贔屓の登場人物を引き出してみたが彼女とアイリーンはだいぶんタイプが違う。
「──あの……?」
「あ、はいはい、ぼおっとしてた」
「ごめんなさい。お礼がしたいんですけど……家から連絡が入ってすぐ帰らなくちゃいけなくなって」
申し訳なさげに眉を下げた竜田はスマホを握りしめていた。
「家族からならしょうがないよ」
「ちゃんとお礼できなくて、本当に申し訳ないんですけど……改めて今度うかがいますから」
「いいよ、いいよ。でも次からは取られないよう用心するんだよ」
片手にはスマホ、もう片方にはバレッタを握った竜田に苦笑する。彼女はまた「ありがとうございました」と米つきバッタよろしく頭をぺこぺこ下げていた。
「これで安心して家に帰れます。……──ご飯も作らなきゃ」
竜田の最後の一言は独り言に近い。
「本当にありがとうございました……また、今度お礼させてくださいね……!」
「気にしなくていいから」
「お気になさらず……私の自己満足だと思ってやってください」
「……うん、わかった。楽しみにしてようかな」
「はいっ。では、また」
後から思い返してみれば色々と不可思議な点が多かったというのに、すっかり蔑ろにしていた。彼女の言動と同級のヤツが話す情報を全くもってすり合わせていなかったのが誤算だ。酷い酷い誤算だった。
彼女は実家から離れて一人暮らしをしている事をもっと早く知っていれば……何か変わったのかもしれない。何故カップがいきなり倒れたのか、何故急に汐の香りを覚えたのか……もっと追及していれば……平凡な青年期を過ごせたのかも、しれない。
今はまだ知る由もなく僕は帰りのモールを一人歩くばかりだった。
****
「迎えに来てくれて、ありがとう。よくここにいるってわかったねぇ」
「てめぇの考える事なんぞ分かりやす過ぎて造作もない……が、随分とお帰りが遅いなお嬢さん。さっさと一人で『行った』のかと」
「そ、それはまだ、その」
「フン……まぁいい、じきに首を縦に振らせてやる」
「マフィアみたいだなぁ……」
「マフィアごときと一緒にするんじゃねェよ、オレは──」
***
「そのうち、何か貰えるかもよ」
「なんで?」
「まぁそれは、おいおい」
具体的な内容は落ち着いてから竜田本人から聞けばいい、と講堂前のイチョウ並木を同級のヤツと歩く。風に揺れるイチョウの黄色はバレッタよりも可愛げがあって、こっちの色が彼女に似合うんじゃないかと思うのだ。「やっぱこういう黄色だよなぁ」と呟いたところで同級のヤツに小突かれる。
「竜田も変だけど、お前も気が抜けてるというか……大丈夫か? 無理させてるなら……」
「あ、いや、そこは大丈夫だって」
「そっちはそっちで竜田と何かあったのか」と聞き返すと、ヤツは盛大に肩を落とした。
「一段とぼおっとしてる時間が増えて、で、最近すぐ家にとんぼ返りしてるんだ。事情を聴いてもやっぱはぐらかされてさ」
「あー……」
それに関しては早々に察しがついた。バレッタ事件の余波がまだ続いているのだろう、と僕は眉間の皺を揉む。
「あんまりお節介するより少し離れてみたらどう? 押してダメならってよく言うだろ」
「竜田、人に頼るとか苦手なタイプでさ。だから──」
「あ、竜田」
「えっ」
「よかった、会えて」
同級が口を尖らせたタイミングで竜田が駆け寄ってくる。用事があるのはなんと僕、らしい。
「これ、この間のお礼です。手伝ってくれてありがとうございました……よかったら、これ。どうぞ」
「『アマデウス』のクッキーだ」
「お好きですか?」
「うん」
「ならよかった」
パッケージの文字に口元が綻ぶ。この洋菓子店は動物の形やら童話をモチーフにした商品が多く、大変可愛らしい。こういうのが僕が観察して固定化していった竜田のイメージだ。隣で「いいなぁ」とぼやく同級のヤツに竜田は「機会があればね」と軽く苦笑していた。
竜田あきはきっとこの時僕の存在を一個体として認識したと思う。クッキーを受け取る時に触れた指先は滑らかで僕一人歩いている時も会釈してくれるだろうか。
「あき、久しぶりにどっか寄って帰ろうぜ。新しいカフェ出来たみたいだぞ」
「紅茶のとこでしょう? そうだなぁ……──ううん、やっぱり私、今日は帰るね」
「えー……」
「あはは、ごめんね」
僕は黙視に徹している。同級に向かって合掌する竜田を眺めていると秋風がびゅうと吹いた。
「木枯らしかな?」
「まだ早いかも」
他愛ない話をしている二人を横目に僕は違和感をこの時ようやく感じ始めたのだ。
竜田からはやはり汐の香り……それと、砂の匂いがした。旅行先の……そう、砂丘で感じる乾いた空気だ。それが彼女から漂っていた。
「砂漠……?」
秋の、イチョウ並木に不似合いな香りだった。そして汐のさざ波すら聞こえないのに海の気配がする。
「じゃあまた明日」
「またな。……──ほら、あんな感じてすぐ帰っちゃうんだ」
「……」
「おーい」
「あ、うん。竜田帰ったな」
考え込んでいる間に竜田は行ってしまった。
「僕も帰る」
「おまえも? えー……」
竜田あきは、秘密を隠し持っている。秘密を持つ女は魅力的だというが、正しく彼女は不可思議をドレスのように着こなして、秘密という名のヴェールをすっぽり被っていた。夜より深い色のドレスをまとった竜田は、バレッタだけをきらきらと輝かせている金色の公孫樹の、バレッタ。
考えに耽りたくて、同級のヤツに告げて僕もまた並木道を進んだ。
竜田の家はこの町にある、当然近くに海も砂漠もないだろう。ならば何故、その二つが感じ取れたのか。
それに元々のきっかけになった『違和感』『不自然さ』の原因は──
「──死にてェのかクソガキ」
「え?」
どうやら僕は横断歩道を赤信号で、渡っていたらしい。
──いや、正確には渡りかけて、いた。か。
不意に後ろから首根っこを引っ張り上げられた。力任せに、ああ、全く遠慮もクソもない! そのまま真後ろに吹き飛ばされるかと思った程だ。よろけて尻もちをついてしまった。
「あ、わわ」
「──フン……」
だがその無遠慮にも僕は反応などできる余裕もなかった。男の──そう、先程から聞こえるガラの悪い声は男の、それもバリトンに近い──声はブレーキのけたたましい音に半分以上掻き消えていたからだ。中型車が不自然な向きで急停車している。
後、一歩前に出ていたら僕はミンチになっていただろう。コンクリートで擦りおろしになると感づいた誰かに助けられた。
「これで借りはチャラだ」
「あ、どうも、ありが──……あれ?」
声のする方へ振り返ったが……しかし、そこには誰もおらず並木から風に乗ってきたのだろうイチョウの葉がひらひらと舞っているだけだった。
「チャラ……? とは……?」
言わばびっくり不思議体験をしたワケだ、空耳にしてははっきり聞こえすぎていたし、その言葉の意味もさっぱりわからない。
「借りって、なんだ……?」
溢した文句に返す言葉はどこからも聞こえず、周囲の人間が声をかけるまで僕は茫然とその場にへたり込んでいた。
轢かれかけた事実は中々にインパクトが大きく、しかも知り合い多数の歩道でとなると当然暫く僕が話題をかっさらってしまったのは言うまでも無い。ちょっとした有名人
になってしまい、どうにも首の後ろが擽ったくてしょうがなかった。
そう。僕が苦笑いするだけの事態ならまだよかったのだが。
***
僕があまりよろしくない噂を耳にし出したのも轢かれかけ事件の次の週だ。
正確には噂が聞こえてきた、というのだが。薄野にランチを奢ってもらいに食堂へと向かう途中の事だった。
「あのサークル、ほら……ヤリサーとかで問題になった事あるじゃない? そこの子が竜田さんも援交してるって」
「竜田さんって……確かあの……」
「薄野君といつも一緒にいる子」
「あぁ! はいはいはい、わかった。でもいがーい……そういうの苦手そうな子なのに」
「駅裏でお金貰ってるの見かけたって」
「うっわ」
「もうちょっと隠れてほしいよね、そういうの。こっちは真面目に勉強してるのに、同レベルだと思われそう」
「ホントそれ。すぐどこどこの大学はー……って言われるんだから」
「本人の好きにすればいいけど、人けを偲んでほしいわ」
「ね。竜田さん派手な子じゃないし、大人しくしてれば目立たないのに」
「けど薄野君可哀想だよね、浮気よりサイテーじゃん」
「浮気?薄野君と? あー、 付き合ってない付き合ってない」
「あれ、そうなんだ?」
「薄野君は狙ってるぽいけど。結構手伝ったりしてるし、絶対そう」
「竜田さんは?」
「んー……微妙? てかあの子とはあんまり喋んないから」
「薄野君が哀れね」
「竜田さんがハッキリしないんじゃない? 知らないけど」
「男ってそんなものなのかなぁ。大人しいから、俺が助けてあげなきゃって思ってるのかも」
「ありえすぎてソレ。見た目と中身は全然違うってのにね」
「目の病気?」
「言い過ぎだって! 強いて言えば、そうね、少女病? 的な?」
「何それ」
「田山花袋。知らない? ある意味当時の最先端だった人」
知っているとも、とは言いもできず僕は物陰で息を殺していた。おそらく同じ講義を受けている同期だろうが名前までは知らない。
竜田が?と反芻する。同級から貰ったバレッタを後生大切にしていた、失くしておろおろと探し回っていた迷子じみていた、あの竜田が? お礼に、と幼な子の世界を切り取ったようなクッキーを携えた少女のような竜田が?
金色のイチョウなど、似合いもしない竜田あきが?
確かにあの子は幼げではある、だが僕は田山花袋でも杉田古城でもない。自分の理想と妄想を目先に閉じ込めた人間では、ない。はずだ。
だが僕はすでに『竜田はそんな事などしない』と信じようとしている。
「薄野に何て言えばいいんだ……?」
一字一句噂を言うには憚られた。意中の子があらぬ噂を流されているぞと注意はできるだろうが、その後巻き起こるだろう学級会じみたものが開始されるそうで今から胃が痛くなる。
「胃薬? あるぞ?」
「あるんだ……」
胃の辺りを撫でながら既に椅子でくつろいでいる薄野に会うと胃薬を手渡された。
「あぁ……うん、ありがとう……」
「うん。──なぁ聞いてくれよ」
きた。
「──〝竜田さんと話すと死に神がついてくる〟って……」
「はぁ?」
「おっ、俺だって嘘くせぇって思うし、そんな根も葉もない噂流されててハラ立ってるけど! なんか、女子たちがやたら俺に教えてきて……」
「……まとめサイトで見た事あるよ、その手の創作」
「違うんだってば」
ヤリサー、エンコウ、ワイドショーの内容でないが僕の心情は休まらない。何故いきなりそんなファンタジーな噂まで彼女に纏わりつき始めたのか。
「なんかさ。あーっと……教授がゼミ生唆して、趣味で立ち上げたサークルあるんだよ。心霊研究的な。そこの学生が見た、らしい」
「それなんてまとめサイト?」
「だーからー違うってば。何かさ、先週うちの学生が轢かれかけた事件あったんだよ、知ってたか?」
「げ」
──それは僕だ。というかいつの間にそんな尾ひれが付いてしまったのか。死に神となんて一切関わりがないぞと、薄野に内心呻く。
「竜田の背中に死に神が憑りついてて、関わったやつが事故に遭いかけて」
「げぇ……」
「竜田に憑いてる陰がその学生を歩道から車道に突き飛ばした、とか。どうとか」
訂正しよう。その死に神には心当たりがある……あのバリトンボイスだ。不躾な言葉尻のあれがゼミ生が見たと言う死に神だったというのか。
だとしたら事実は相当に捻じくれている。あれは突き飛ばされたのではない、引き留められたのだ。攻撃されたのではない、守られたのだ。
『これで借りはチャラだ』
秋の麗らかさにこれっぽっちも似合わない不機嫌な低音だった。
──あれが死に神か? と言われたら僕は首を横に振るだろう。
僕にとっての死に神のイメージはモリアーティだ。狡猾で、紳士然とした静かな男を死に神と呼ぶのだ。あれは、多分だが……少し違う。もっと荒々しくて英国紳士には程遠い。幾ら静かなバリトンボイスでも隠せないものはある。
──援助交際、背中に憑りついた死に神。今や彼女には噂が幾つも纏わりついていた。竜田あきを知るには不要なものばかりだ、それにあの男の声も、気になる。
「あの子と話、できないかな」
「竜田と?」
「そう。このまま噂を鵜呑みにするのも癪だから。……いいタイミングないかな……」
***
金のバレッタは見つけやすい。話しかける機会は無いものかと様子をうかがって暫く、帰り道で彼女を駅前で見かけた──これはチャンスだ。またモールに入って行くのかと思ったが……そのまま横道に足を向けていた。
あっちは確か寂れた商店街だったはずだ。(はずだ、というのも帰り道のコースとはいえ態々寄り道する用事もなく行った試しがない)
こそこそとコソ泥よろしく少し離れて彼女の後を追うと、何やらレトロ調の店に入っていった。二、三分間を置いてから近付くとどうやらここはアンティークショップらしい。ウィンドウから内装が伺えるが……何に使うか分からない船の舵輪やらボトルシップやら、とにかく思いついた物をひたすら並べてみました今後ともゴヒイキニ! な乱雑さがあった。
──一体彼女の用事とは。あまり若者が出入りしない雰囲気に気圧されつつ、僕は結局古びたドアをくぐった。
「あれ?」
「……奇遇だね」
くるりと振り返った彼女は既にレジ前のテーブルに商品をひとつ置いて財布を取り出そうとしている矢先だった。
シガーケースだ。よく洋画で見かける形に僕は釘付けになる。蔦が彫り込まれている銀のボディには一粒、蜂蜜色の宝石が嵌っていた。
「ここで会うなんて思ってませんでした。……びっくり」
「そうだ、ね。ええ……と、うん、そこのボトルシップが気になって」
後をつけてきましたとも言えず、適当に視界に留まったガラス瓶を指差す。映り込んでいる自分の顔は何とも情けない面持ちだ。しっかりしろ。
彼女がお代をトレイに乗せると店主のお爺さんは「プレゼント用なら包みますがね」としわがれ声を掛けてきた。
「お願いします」
「……ちょっと……お待ちを。……──お似合いですよ」
「あ、バレッタ、ですね。ありがとうございます。その節もお世話になりました」
「……ええ。……ええ」
店主と彼女だけが分かる会話に僕はおいてけぼりを食らっていた。会話の流れ的に金色のバレッタはこの店で買ったものだろう、そしてプレゼント用に包まれる葉巻ケースはバレッタのお礼としておあつらえ向きだ。
「バレッタのお礼に?」
「──はい」
──ほらね。
しかしここで疑問が起こる。彼女がセンス微妙なのは以前のモールで把握しているが流石に喫煙者でも無い人間にそういうシロモノは贈ろうとはしない筈だ。薄野は葉巻……そもそも煙草すら吸わない、ヤツは昔から気管が弱いのは知っている。
つまり、相手は薄野ではない。僕の最大の勘違いが露見した瞬間だった。イチョウのバレッタを贈ったのは薄野で、彼女が嫌がらせの憂き目にあっても探し求めていたお礼の品を送るのは名前も把握していない第三者だった、という事になる。
──それは一体、誰だ? まさか援助交際の男にだろうか。死に神? いや幾ら何でもファンタジーに意味を持たせる気はない。
「お待たせ……しましたよ……」
「ありがとうございました」
ラッピングされた箱は小さな紙袋に入っていた。それを受け取った彼女は大事そうに持つと「少しお話ししませんか?」と僕を誘ってきたのだった。
「……え?」
あの、遠慮がちな彼女が。彼女からそんな言葉が出るなんて! 僕は想像だにしなくて物の見事に硬直してしまった。
「この間のコーヒーショップは……ちょっと入りづらくて。なので、私の好きなところでもいいですか?」
「どっ……どこでも、平気」
「ええと。紅茶とコーヒーならどっちが好きです?」
「こうちゃ」
「じゃあ、駅裏の紅茶専門店で」
彼女の声がまるで福音のように聞こえて、僕は思考が半分すっぽ抜けた心地になっていた。
薄野にどやされてしまうと分かっていながら僕はホイホイと彼女の後をついて行った。僕個人を彼女が知った、薄野がいなくてもこうして歩いている。たったそれだけに喜び胸を高鳴らせていた。
我ながら単純だと思う、これでは本当に田山花袋の二の舞じゃあないか。
「風が最近強くなりましたね」
「あ、そうだね」
彼女の髪を秋風が掬うとその首筋が見えた。白い、と視線は縫い付けられたように離せなくなるのだ。
「ほんと、強くて……」
砂の香りが漂う程の強い風に、彼女が髪を押さえた拍子にきらりとバレッタが光った。髪に指が絡まる濃淡のコントラストにふと思ってしまったのだ。『こうやってあの男を誘ったのか』と。
そうなればフツフツと不安が渦巻いてきたのは必然的だ。期待と不安と、僅かな失望を胸に彼女の少し後ろを歩く。
揺れる紙袋がカサカサと音を立てる度にまだ見ぬ彼女の一面に怯えていた。到着した店に入って座ってからも僕は中空に心を浮かせたままだ。
「実はね、それ、薄野にあげるのかと思ってた」
「えっ?どうして薄野君?」
「バレッタあげたの薄野だと勘違いしてたんだ、僕」
「……あぁ、なるほど」
「薄野がキミの事っておけないらしくて、さ」
「面倒見いいですもんね」
「少し、少しだけ気になってるんだけど女子としてそういうの、どうなの?」
「どう?」
「嬉しいか、そうじゃないか。ラブかライクか、それともノーサンキューか」
「──薄野君と? ですか?……いえ、そんな」
「面倒見がいいからお兄ちゃんみたいに世話を焼いてくれているんです」と彼女は首を振っていた。中空の心を慌てて胸の内に引っ詰める、なんとまぁ、奴の好意は見事にすり抜けていたのか。
──これは素直に哀れ薄野と合掌する他ない。
「それに恋人がいるって聞いたばっかりです」
「あぁー……」
「この間……バレッタの事があった時です、教えてもらって……だから最近カノジョさんの迷惑にならないよう距離を取ろうと」
「……」
推論の答え、多分一番有力なのはバレッタ隠しの主犯だ。そして僕が薄野に「付きあっちまえ」と気軽に言い出せなかった理由もそこにある。
──確か、チアの子が薄野狙い、とか。どうとか。
だから彼女は最近素っ気ない風に見えたのか。具体的な名前までは流石に言い辛いのだろう、彼女はそれ以上語ろうとはせずはぐらかすつもりか「そっち関係はにぶいなって笑われてしまうくらいで」とへなゃりと眉を下げた。ご丁寧にバレッタをひと撫でして。
そうしていれば注文した紅茶が届き、果物のフレーバーが僕と彼女の間に壁を作るように漂った。僕は壁が組み上がる前に意を決して、口を開く。
「──……にぶいなって、言った人って、もしかしてバレッタをくれた人?」
僕の言葉を聞いた彼女の双眸は、たちどころに柔くとろけていった。例えるならば小さな部屋の片隅にひっそりと差し込む斜陽に似ている。その秘めやかなかがやきが彼女の瞳には宿っていた。
「──はい」
彼女の感情の形を僕は見た。
「とても大切なひとから」
「僕が知ってる人?」
「それは……」
「すごく大事にしてるから、気になって。つい。もしかして言い、かな?」
援助交際ならば、それはもう言い辛い以外の何物でないし、それを僕に言う程僕らの関係は親密でない。我ながら愚策を取ったとは思っている。
「いえ、その……隠したいわけじゃないんです……そうですね、とても、とても大切な人に」
彼女の歯切れは悪い、言葉をどう選んでいいのか決めあぐねている様子ではあるが、その言葉に棘はなく、雰囲気は柔らかな斜陽のままだった。
「大切な人に特別なものを渡したくて、ずっと探してたんです。形は違っていてもお揃いのように身につけてられたら、素敵だなって。……だからバレッタを隠された時は本当にショックで……お礼と言っては変なのですが、よければ今日はご馳走させてくださいね」
生まれて初めて男の人をお茶に誘ったんですよ、と彼女はソーサーのふちを指でなぞっていた。
「でも、駅前で見かけたって」
「?」
「あ。……あーその」
しくじった、と素直に認めよう。はぐらかすよりは観念して僕は「駅前で男の人といたって聞いたんだ」と噂の援助交際を持ち出した。
「彼、大柄なので目立つんですよ。多分それで目に付いたんでしょうね」
「バレッタ、の彼?」
「バレッタの。駅のモールに〝アマデウス〟が入ってるでしょう? あそこで買おうってなったんですけど、彼が珍しく『おれが行ってくる』って言ってそれで」
「よかった……はー……」
「どうしました? えっと……」
「色々と今ので解決したから、大丈夫……」
「そう、なんです?」
少なくとも、侮辱的な噂はこれで抹消されたワケだ。当然だとも、彼女がそんないかがわしい真似なんてするはずがない。
「うん……──葉巻を吸う人なんだ?」
僕は彼女の傍にいる男を想像しては、ふつ、と声を溢していた。
「──……よくわかりましたねぇ」
「古い映画が好きで……使うシーンがあるんだ。見た事ある」
「詳しいんですね。私は、さっぱりで」
「でも知ってた」
「教えてもらったんです。……教えてもらってばっかりで、本当に何でも知ってる人なんですよ。シガーケースがあるって事も、彼が」
彼女にとって、彼とは先生のような存在なのだろう。教えを請い、学び舎で過ごす斜陽の関係を思い起こした。穏やかな彼女のかんばせは、ほのかに色付いていた。
これがまことの少女の恋と呼ぶのだろう。まだ上げ染めしと誰かが詠った果実のような、男どもが妄想する肉愛とは一線を画した柔らかな恋は、あまりにも眩しかった。
彼女の微笑みの向こうには、彼女の特別が潜んでいる。薄野に入る隙間のないほどきっちりと心に収まっているのだ。
この表情を見てしまえば福音などと浮かれていた自分も我に返ってしまう。首の後ろが擽ったくてしょうがない声音で彼女はくだんの男を語るのだから!
「薄野には……いや、何でもない」
「?」
「浮かれてたんだよ」
薄野にとっての竜田あきは、風に飛ばされて攫われていった。今ここに在るのは金色のバレッタを揺らした竜田あきだ。別の人間のものになった乙女だ。
それはまるで秋の旋のようで。
僕の独り言に首を傾げる彼女を宥めて、紅茶を飲み切ったのはそれから半刻ほど経ってからだ。
「──……ご馳走様でした。そろそろ帰らないと」
「僕こそ引き止めてゴメン」
それからぽつぽつととりとめもない話をして、彼女は席を立った。ぎりぎりまで僕の話を聞こうとしたようだが時間が迫っている様子でパタパタと上着を羽織っていた。
手早く会計を済ませた彼女はぺこりと会釈し「それじゃあ、お先に」とバッグをかけ直す。
「また。次は変人教授の講義の時、だよな」
「……。……はい」
「うん」
ドアを出て小走りでかけていく彼女に少々申し訳なさを覚えて、頭を掻く。
「薄野も失恋か」
ほのかに温もりがのこったソファ席を名残惜しく眺めて僕も席を立った。哀れなる同級生に福音をもたらす聖職者から判決を言い渡す裁判官へジョブチェンジした気分だった。
「……あ」
立って視界が広がったから見えたようだ。きらりと光る物がソファの影に隠れていて、拾い上げれば何度も目にした落ち葉が一枚、僕の掌の上で転がった。
「いつの間に取れたんだ……」
見間違えようもない、竜田のバレッタだ。その作り物のイチョウが……おそらく金具かワイヤかが緩んで落ちてしまったのだろう。一枚だけおいてけぼりにされていた。
「本当に、似合わない色だ」
何度も思っていた言葉を今日初めて口にする。ウィスキーに漬け込んだような深い色味の金色は果実の頬をした彼女にはやはり、到底似合うとは思えなかった。
しかしかの男は、彼女にとこれを選んだのだ。
「明日会えるだろうし」
ハンカチに包んだイチョウをポケットにしまい込んで僕は短慮にもそう決め付けると帰路に着いた。
──いつでも渡せると思っていた。
***
「竜田さん、来てないよな?」
「……うん」
昨日も来ていないと薄野が死にそうな顔で頷いて、僕も頭を抱えた。僕の鞄の中にはあのイチョウの欠片がティッシュに包まれたまま入っている。
「俺、朝から連絡してるんだけど既読もつかないし……」
「体調が悪いとか」
「それなんだよ、倒れてたら……」
相手は小さな子供じゃあるまいし、とも薄野の表情を見ると言いにくく僕は
「……──帰り寄ってみようかと思うんだ」
時々、薄野は彼女の家に訪れているらしい。流石にズカズカと上がり込む訳ではないと、言い訳紛いを口走っていたが僕はその辺はさして興味もなく「一緒に行ってもいい?」とショルダーバックをかけ直した。
「行こうか」
「行こう」
──彼女の家は大学から程近いところにあった。てっきりアパートとか、そういうものをイメージしていたのだが予想に反して木造塀に囲まれた古民家のチャイムを薄野は鳴らす。
ピン、ポン、と暢気なリズムが数回響いたが……家主の返事はなかった。
「病欠なら家にいるはずだけど……」
「二階の窓が開いてる。たぶんいるとは思うよ」
僕が指差すと薄野は合点したらしく「勝手口のほうへ行ってみよう」と足早に行ってしまった。
「勝手口のとこに合鍵隠してるんだ」
「女の子の家だし、入っていいの? ねぇ」
「もしかしたら万が一の事があるかもしれないだろ」
聞けば薄野もこの手段を使うのは初めてらしい。しかしヤツはあれよあれよという間に勝手口の開き戸から中に入って行ってしまった。もたついたのは僕だ、女子の家に上がり込むなど滅多に無いものだからソワソワと、猫が笑うような態度で後に続く。
「……? 海の、においがする……」
──不思議な香りがするのは、気のせいか。
「そうだ、これ。忘れないようにしないと」
ショルダーバックから念の為バレッタの欠片を取り出した。万が一、というのが無ければ返してあげられる。
「玄関開いてるか行こうぜ」
「なら僕はあっちから回っていく。二手に分かれたほうが効率的だ」
「わ、わかった」
僕は玄関とは逆……多分庭のほう……に足を向ける。すれ違いが無ければ、と単純な理由だが……彼女に出くわした時になんて言い訳しようか一切考えていなかった。どうしたものか。
心配だったんだ? とか、か。……とんだ彼氏面だ、と却下は早い。
心配なのは事実だが、お節介過ぎるというか、なんというか。
「……──イチョウが、ここにも」
庭先に辿り着くと大学のものよりふた回り以上小さいが黄金色の落ち葉が舞っていた。小さな一葉の色みは薄く、このパステルカラーなら幼げな雰囲気に合っていると思う。
彼女が植えたのだろうか、とふと見上げてしまう。えっちらおっちらと苗を抱える彼女につい絵本の一ページを当てはめてしまいそうだった。
「あ、カーテン、あそこだけ開いてるな……」
そして、見た。見てしまったのだ。
「砂の、におい。海のにおい。……それに、これは」
あぁ! 見なければよかったとこれ程思った事などない!
甘ったるいにおいが急に鼻に押し寄せて、僕はたたらを踏んでしまう。
──男がいた。
薄ガラスを隔てて、あられもない姿の男がじっとこちらを見つめていた。冷たい色をした瞳で、僕を見定めている。
スカーフェイスで大がらの、その男はシワだらけのシャツに袖を通してダラリと長椅子に座ったままだ。まるでこの家の主人のような佇まいだ。
その腕の中に、彼女はいた。
「──竜田、さ……ん……」
長椅子の足元には見覚えのある色がくしゃくしゃに丸まって幾つも転がって……それが彼女の服だと気付くのにさほど時間はかからなかった。
竜田あきは、女になっていた。僕が想像していた少女でも薄野が思い描いていた乙女でもなく、女だった。柔肌を晒し、女の肉を男の好きなままに触れさせている。色づいた肩が、小ぶりな踵がいっそ暴力的なまでに僕の視覚を殴りつける。
若芽でもなく、青葉でもなく、竜田は色づき……さながら秋葉のように男の色をその身にうつしていた。これがあのバレッタの似合わない、子供っぽいクッキーを用意した少女だったろうか?
──この男が彼女を、変えたのか。
──少女から、女へ。
その衝撃は病を患う僕を斬り刻む程には、大きかった。息も出来ず、見てはいけないものを見てしまった背徳にしかし、目を離す事もままならず僕は情事をただただ観察していた。
竜田あきは、僕に気付いてはいない。しかし男だけは僕の姿を捉えている。
「……!」
人を殺せるような視線で僕は短い悲鳴を漏らす。剥き出しにされた心臓を氷河の中に落とされた心地だった。肌色のコントラストが傾いた陽射しに照らされて、二人の違いを露わにしていた。
『──』
『────』
二人の唇が動いている。それが分かるくらいに僕は二人の近くにいた。寧ろ彼女が気づかないのがおかしいくらいだ。あの男が隠しているのか? と思った矢先に彼女の体を隠すように男が身じろいだ。抱え直し、うっそりと口を開いて喉仏を動かしている。
『おれの〝おんな〟が欲しいのかね?』
読唇術など、僕は使えない。けれど男は確かにそう、言った。何故分かったのかは分からないが男は確かに、確かにそう告げていた。
僕は頭が酷く揺さぶられて、さながら脳震盪を起こした気分だ。膝が笑っているのが男にもわかるのだろう、嘲るように口角を上げると再びその唇を動かした。(今度はわざとらしく、ゆっくりと一文字ずつだ!)
『き え ろ』
本当にこのまま脳震盪が起こればいいのにと切に望んでしまった。倒れて、目覚めたら心配した彼女か覗き込んで「どうしんたんですか? 大丈夫ですか?」と心配してくれていればいい。隣の恋人はあんな物騒な悪人物でなく、もっと相応しい……純朴な同年代の男の子で──
「ひぃ」
当てつけだ、いや消えろと警告した人間が未だ居座っているが苛立たしいのか男はあろうことか隠していた筈の彼女を抱き直すとその唇を啜ったのだ。
──彼女は、うっそりと微笑んでいる。
──あぁ、僕はここには居られない。
その微笑みは、薄野を呼ぶ時の顔でなくあの日紅茶店で僕に見せてくれた時の顔でなく、全く別の人間の表情のようだった。
──金色の公孫樹が随分と似合う、その微笑みを僕は何と呼べばいいのだろうか。
僕は忍ばせていたイチョウの欠片を握り締めていた。
──僕は。
「……薄野」
「お?どうしたんだ」
「彼女はもういない」
「え? でも……」
「窓から中が、見えたんだ。どこにもいなかった」
「あれ……?でも二階の窓」
「閉め忘れたんだろうね」
「病院とか行ったのか?」
「……」
「ど、うしたんだよ黙り込んで……大丈夫か?」
「いないんだ。だから、もう、帰ろう」
彼女の家に背を向けるとハラリと何かが降ってくる。
先ほどまで見惚れていたはずの淡い黄色の公孫樹葉に僕の視界は攫われて、さながら毒されていくような心地だった。
***
「──……?どうしたの急に」
「お前と同じで寝ぼけていたんだろう」
「チャイムが鳴った、ような……こほっ」
「喋るな」
「だって、っこほ、眉間に皺寄ってるし」
「いいかお嬢さん、おれは喋るな、と言ったんだ」
「……うん。心配してくれてありがとう……後でお水飲んでくる」
「フン」
「でももう少し、一緒にこうしてたい、かな」
「……空ばかり見て何が楽しいのかね?」
「楽しいというか──ここから空を見上げるのもあと少しなのかなって思うと。ね、見てイチョウの色と空、全然違う色なのに、あんなに映えて」
「補完色だから相性はいいんだろう」
「……えほっ……!」
「だから喋るなと。それとも塞いでやらねェとわからないか?」
「うん、ふふっ、ありがとう……でも貴方のキス、長いから今度は酸欠になっちゃいそう……」
「──あき」
「なぁに?」
「今更後悔しても──攫う。テメェはおれが染めてやったんだ」
男は人差し指を女の肌に這わせ……尖った先端が腹に食い込んでも彼女はくすくすと喉を鳴らすばかりだった。
シガーケースが秋の斜陽を反射して、公孫樹のように光る。
ただ、光るばかり。
***
僕は、二人の会話なんて想像だにできない。
斜陽の情事がぐるぐると脳を掻き回し、薄野の声すら届いてはいなかった。
冷えた目、見えた鉤爪、スカーフェイス。
モリアーティより無骨でアルセーヌ・ルパンより冷淡なあの佇まい。
──公孫樹のバレッタを選んだ男。
乙女の初々しさを公孫樹で覆い、その細い首に手を掛け……そして縊ったのは、あの男だ。
そして、そして。翌る日に竜田あきは、行方不明となった。
結局あの男が何者であったかは、ついぞ分からないままだった。彼女の家の周辺住民曰く、誰かと暮らしていたらしい……がその前後の足取りは一切掴めていない。ただ、両親に向けた手紙があったと薄野から聞かされた。
実に不可解な内容だったそうだが全貌は杳として知れず、真相は秋風に吹き飛ばされるように手の届かない場所へ昇ってしまった。
「──あぁ、じきに冬が来る」
ただ、あの男がいた事は真実だ。言うなれば、それは"公孫樹の男"。
僕は未だにバレッタの欠片を返せないままでいる、時折擦り切れた油紙から取り出しては溜息をついて……消えた/死んだ乙女を思い出す。
きっとこの記憶は僕が死ぬまであの金色とともにリフレインを続けるのだろう。
まるで、そう、治しようのない病だ。
秋が訪れる都度この心臓に、この記憶に、この心に、イチョウの葉をはち切れるほど詰め込まれてしまう病いに侵されている。
言うなれば、それは──
公孫樹病 二三野 花 @tokinofumi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます