2、執念の首飾り
その日は、いつもとは少し違っていた。
「――もうすぐ依頼人が来る」
と、魔法使いが窓の外を見ながら言ったのは少女が起きて、食事をしに来た直後のことで、流石に少女も驚いた。ここに来てから既にそれなりの人数の依頼を見て来たが、どの依頼人ももう少し遅く、あるいは夜にやって来たからだ。
「だから早く食べてしまった方が良いだろう」
そう言って魔法使いは少女の前に用意された目玉焼きと薄い肉が乗ったパン、白い湯気を立てるスープを示す。それは彼女の朝食として用意されたもので、丁度少女がそれを食べ始めようとした時に、魔法使いが先ほどの台詞を言ったのだ。
「…分かった」
少女が答えると、魔法使いは部屋を出て自分の書斎の方に消えて行く。彼はいつも少女が食べ終わるまで待ってから向こうの部屋に移るが、今日は来客があるからか、彼女が食べる前に出て行った。
その様子を見送ってから、少女は急いで目の前の朝食にありつく。村に居た頃は勿論、贅沢は禁じられていたし、何より貧しかった村ではパサパサのパンと水が基本で、偶に干し肉が出ればその日の食事は豪華だと言われたぐらいだった。
だから最初はこんなに豪華なものを食べて良いのかとさえ思ったが、君が食べなければ他に食べる者もいないから捨てるしかない、と魔法使いに言われてしまえば勿体なくて食べるより他無かった。
美味しい物を食べたいと思うことすら無く、与えられたものを黙って食べるだけだった自分が、今ではその朝食を食べないと一日が始まらないような気さえしてしまう。少女は自分の中に新たに生じた食に対する欲求に未だ慣れていなかった。
静かな部屋に、彼女が食事をする音だけが響く。
「…それにしても、今日は早い」
魔法使いが見ていた方向に少女も目を向けるが、そこには人っ子一人いない。どうやって前もって彼がここに来る人間を知ることが出来ているのかは少女には分からないが、それもきっと魔法か何かの力なんだろう、と少女は適当に結論付けていた。
一緒に暮らしていても、未だに謎が多い魔法使いの素性について少女が分かっているのは、それこそ彼が魔法使いであることと、最初に言っていた通り、その仕事が『人助け』だということだけだ。
彼は自らの元に集まって来る願いを、一定の対価と引き換えに叶えることを生業としている。
この場所は彼がそのために作った私的空間で、少女が暮らしていた世界とは別の場所にある。そしてどの世界にも開いているが、願いを持った者以外は決してやって来ない仕組みになっているらしい。
つまり誰かがここに来るということは、その人物には願いがあり、それを叶えて貰いにやって来るということだ。
勿論もうすぐ来るというその依頼人も。
少女がそう考えながらパンの最後の一かけらを食べ終えた時、丁度計ったかのように、玄関のドアをノックする音が聞こえたのだった。
***
「――あのう、ここはどこなんでしょうか」
通された部屋で椅子に座った若い金髪の女性――今回の依頼人が、最初に発した言葉はそれだった。彼女は少し怯えたような瞳でしきりに部屋の中を見回している。どうやら少女がここに来た時と同じで、ここがどこなのか本当に分かっていないらしい。
少女は魔法使いに頼まれた通りに依頼人を書斎に案内し、その後、陶製のカップに入った紅茶を運んだ。女性の前にそれを置くと、彼女は動揺しながらもありがとうと言って受け取る。
「確か家の近くを歩いている時に、道に迷ってしまって…」
「ここがどこかは貴女自身が――いや、『貴女が持っている物』が知っている筈です。今、何かお困りのことがあるのでは?」
その言葉に女性は僅かに目を見開く。
「…このネックレスのことを、ご存じなんですか」
そう言って女性が示したのは、ここに来た時から彼女がずっと首に掛けていた金の鎖のネックレスだった。中央部分には赤い宝石があしらわれており、非常に高価そうなのが一目で分かる。
だからこそ女性の口から、
「もしかして貴方は宝石商か何かかしら? そうでしたら今すぐこのネックレスを売ってしまいたいのですけど」
という言葉が出た時、少女は驚いた。そんな貴重そうなものを売ってしまいたいだなんて、この人はお金に困っているのだろうかと少女は考えるが、その身なりからしてそんな風には思えない。
「残念ながら私は宝石商ではありません。ですが、貴女の願いを叶えることに一役買うことは出来るかもしれない。詳しい話をお聞かせ願えませんか」
魔法使いがそう促すと、女性はどうするか少し迷う素振りを見せたが、ついには話し始めた。
「実はこのネックレスは、私の家に代々伝わるもので、持っていれば幸運に恵まれると言われてきたものです。私もこれを母から幼い頃に譲り受けました。その際に母から『これを決して体から離してはならない、』と強く言いつけられ、その言葉を守って常に肌身離さずに持っていたのですが…、子供の頃のある時、いじめっ子にこれを取り上げられてしまったんです。そんな年でそんなもの持ってるなんておかしいと…まあ当然ですよね。
それで仕方なく、その日は取り戻すことを諦めて家に帰り…母にもそのことは何も言わずに眠りました。明日返して貰えばそれで良いだろう、と。
ですが、次の朝起きてベッドの横を見ると――そのネックレスがいつの間にか戻って来ていたんです」
いつも私がそれを置いていた場所に、と女性は続ける。
「そのいじめっ子が夜中の間に返しに来ていたということは?」
魔法使いが女性に尋ねるが、
「いえ、そんなはずはありません、返しに来ていたとしても家の扉も窓も全て鍵が掛かっていた筈ですから。それにいくら何でもベッドの横まで来ていて、私が気付かない訳がありません。
私もおかしいなとは思ったのですが、流石に奪って行った本人に聞くことも出来ませんからその話はそこで終わったんです。何故かそのいじめっ子も私の方に寄って来なくなりましたし」
女性は言いながら、ネックレスの宝石に触れる。
「その後もずっとこれを肌身離さず身に付けていたんですが、ネックレスの紐が切れてどこかにいってしまったり、旅先で泥棒に入られて盗まれたりで何度か失くしそうになって…。でもどんな時も必ず次の朝には私の枕元に戻って来ているんです。もう段々気味が悪くなってきて」
だからこのネックレスをもう売ってしまおうと思ったんです、と女性は言う。
「でもどの店に持ち込んでも、やっぱり次の朝には私の元に戻って来てしまって。――それにおかしなことに、そういうときは朝起きると、私の手足にも妙な傷がいっぱい出来ているんです…細いひっかき傷みたいなものが何本も。最初のうちは諦めずに何度か店に持ち込んだんですが、同じ店に行こうとすると店主が怯えて店にも入れてくれませんでした。
私にも何が何だか分からなくて、怖くて怖くて…。それでもう森の中に捨てようと思って、歩いていたらここに着いたという訳です。
もう宝石商じゃなくても構いませんから、誰か引き取って下さる方がいるなら…」
そう言って女性は困り顔で魔法使いの方を見る。彼の後ろで話を聞いていた少女は背筋が寒くなる思いだったが、魔法使いは何やら他のことを思案しているようだった。
「…お母様は貴女にこのネックレスを決して離すな、と仰った。そしてこのネックレスは貴女の元から離れると必ず次の朝には戻って来ている。最近では戻ってきた時、貴女は体に怪我を負っている。これは間違いありませんか?」
「ええ」
「そして、その宝石に関わろうとした人物は貴女に会いたがらなかった。これも間違いありませんか?」
「はい…多分、そんな不気味な代物に関わりたくないと皆思ったのでしょうね」
「もう一つ、貴女が再び訪れたその店に何か変なところはありませんでしたか? 例えば、扉が壊れていたとか、ショーウィンドウが割れていたとか」
「…ああ、確かにそうでした。何か板のようなもので補修されているのを見たことがあります」
そこまで聞いて魔法使いは再び黙り込む。少女にはその質問の意図が分からなかったが、彼にとっては何か重要な意味合いがあったらしい。
しばらくの後に魔法使いは、なるほど、とたった一言呟いた。
「分かりました。では、試しにそのネックレスを私に預けてくれませんか?」
魔法使いのその提案はここまでの話の流れからしても、妥当な判断だと少女も思っていた。依頼人の身の安全を保障するにはそれが一番だ――最もその場合、少女と魔法使いの身の安全が保障されるかは分からないが。
その提案に彼女は驚き、
「本当ですか…? 是非ともお願いしたいです!」
と魔法使いの手を取る。
「ええ、構いませんよ。しばらくこちらに預けて貰って、様子を見ましょう」
「本当にありがとうございます! 何といって良いか…、」
そう言って、ネックレスを外した女性はそれを魔法使いに渡す。魔法使いはそれをハンカチで包み、魔法使いが座っている机の、鍵付きの引き出しの中にしまって鍵を掛けた。
「これで大丈夫でしょう」
それから魔法使いと少女は女性を玄関まで見送りに行く。
「ここを出たらずっと真っ直ぐ進んでください。そうしたら貴女の街に出ます」
そう言うと女性は分かりました、と頷いた。
「では、すみませんがよろしくお願いします。くれぐれも用心なさって…」
「大丈夫ですよ、――それよりも貴女の方がお気をつけて」
去り際に魔法使いが女性に声を掛ける。
その言葉に少女は何か引っかかりを覚えたが、女性の方は気にせずにそのまま森の道を真っ直ぐ進んで行った。
「本当に大丈夫なの…?」
女性の後ろ姿が見えなくなった後、少女は魔法使いに尋ねた。
「ああ、まあ少し危険かも知れないが、そうするのが一番てっとり早いから、そうしたまでだ。ただ今晩は、君は早く眠りなさい。部屋から出てはいけないよ」
魔法使いのその言葉を聞いて、やはり何か良くないものがあのネックレスに憑いてるのだろうか、と少女は考える。少女の村でも、悪魔に憑かれたといって神殿に運ばれてくる人々が偶に居た。そんな時は神官が清めの儀式を行ったものだが、それにどれだけの効果があったかは今となっては分からない。
魔法使いに何か対抗策があるのか、少女は少し心配になったが、
「さて、忙しくなるな」
と言って家の中に消えていく彼は実にいつも通りなので、少女も何も言わずにその後ろに付いて家の中に戻ったのだった。
***
そして、夜。
少女は言われた通り、いつもより早くベッドの中に入っていた。魔法使いに言われたのでドアにもしっかり鍵を掛け、電気も消してある。だが変に緊張して眠ることが出来ず、暗い中で朝と同じように古びた天井を眺めていた。
耳を澄ませても物音一つしない、実に静かな夜だ。
「…本当に何か起こるのかな」
魔法使いの言葉からして今晩、あのネックレスに関係する何かしらの出来事が起こるに違いない。
女性の話を踏まえて少女が想像するのは、ネックレスに憑りついている何かがそこら中で暴れ回る姿だ。今まであの女性以外でネックレスに触れた者は、皆一様に怯えた様な態度を取るようになったと女性は言っていた。その理由がその何かに襲われたからだとすれば、それで大体の辻褄が合うのだ――女性に出来ていたという傷の話以外に関しては。
その他に考えられるとすれば、ネックレスを守っている他の人物がいる場合だ。その人物は彼女の元からネックレスが失われる度にそれを律義に取り戻しに行き、こっそり彼女の枕元に置いていく。しかし、この場合は彼女の動向を常に確認していなければならないし、家に毎度毎度こっそり潜入しなければならない。それにやはり彼女自身が傷を負っている理由が分からないのは同じだった。
どちらかと言えばまだ憑き物説の方が有力だろう、とそのように少女があれこれと思いを巡らせていた、その時だった。
ドン、と大きな音が玄関の方から聞こえたのは。
「!?」
ドンドンドンドンドンドン、と入口の扉に対して、質量のある何かがぶつかっている音が断続的に家の中に響く。そしてひと際大きな音がすると共に、打ち付けるような音は同じ大きさの足音へと変わった。玄関のドアが破られたのだ。少女はその音に怯えながらも、扉の方に近寄って耳を澄ませる。
玄関の方からその足音は少しずつ少女の部屋の方に迫って来る。彼女は震える手を口に押し付けて、ドアの傍から動かずにじっとしていた。今動けば、その音がドア越しにその得体の知れない何かに伝わってしまう恐れがあったからだ。
「…」
しばらくすると、その足音が少しずつ離れていくのが分かった。それを確認して少女は大きく息を吐く。
あれが、魔法使いが言っていた「今晩起こること」だというならば、先ほどまでの少女の読みは間違っていたことになる。ネックレスに何かが憑いているのだとすれば、それが家の外からやって来る筈はない。
「じゃあ、あれは一体…」
足音はもう少女の部屋からはほとんど聞こえない。
と言うことは、先ほどの何かは家の中でも少女の部屋とは真反対に位置している部屋――つまり、魔法使いがネックレスを引き出しに仕舞った、あの書斎に向かっているのだ。
様子を見に行くか、それともここにいるか、少女の中に迷いが生まれた。だが思案したのはほんの僅かな時間で、次の瞬間には少女は部屋の扉をおそるおそる開けて廊下へと進み出ていた。少女の心の内は魔法使いに対する心配が少しで、残りは全部得体の知れないものに対する、ある種の好奇心に占められている。
物音を立てないように少女はあの足音が向かった方向に進む。右に曲がれば書斎がある廊下に通じる角からそっとそちらを覗いたがそこには誰もおらず、書斎の入口の扉は開いていた。先ほど音を立てていた何かが既に書斎の中に入っているのだ。ガタン、と部屋の中から大きな音がする。恐らく机の前にあった椅子を倒したのだろう――引き出しを開けてネックレスを取り出すために。
少女はさらにじりじりと書斎の扉の方に近づき、扉の真横の壁に背を付ける。扉が開いた隙間から静かに中を覗き込むと、「何か」が力づくで引き出しの取っ手を引っ張っている動きが見えた。足音からして図体の大きい者を想像していたが、ぼんやりと見える姿形はそれほど大きくはない。
少女が息を殺してその様子を見ていると、突然机の上のランプに火が灯った。
暗闇にぱっと咲く、光の花。
そしてその花の隣で、不気味な笑みを浮かべる顔。
「――――っ!」
それは間違いなく、昼間ここにやって来た依頼人の女性だった。
焦点の合わない目。無表情なのに無理やり口角だけを釣り上げた様な、恐ろしく奇妙なその表情は少女の恐怖を最大に引き上げる。一方の彼女はまだ少女の存在には気付いていないようで、手にしたナイフを一心不乱に引き出しに向かって振り下ろし始めた。
ガッ、ガッ、ガッとテーブルが削れる音が部屋に響く。どう見てもその力は女性のものではない。身体が被る負担を一切考えずに、あの肉体が出せる最大の力を以て動いているかのように思える。
だからこそ、あれに見つかったらひとたまりもない。情けを掛けてくれる可能性は万に一つもないだろう。
相手が何か分かった以上はもうこの場から距離を取るべきだ、と少女は足を引くが、その時、足元の古びた床板がギイ、と歪な音を立てた。
その瞬間、女性はバッと少女の方を見る。そして凄い勢いでドアの方に向かって走って来た。
「っ!」
だが、少女が焦って逃げようとした瞬間、突然書斎全体に明かりが付いた。
誰かが部屋の壁に付いていた複数の燭台に火をつけたのだ。
「――これはこれは、こんな夜遅くに客人が来るとは」
ドアを背にするように部屋の中に立って居るのは魔法使いだった。その声に、少女は心底ほっとする。
声を掛けられた女性の方は動きを止めたが、魔法使いの言葉を理解しているようには見えない。目を大きく開いて先ほどと同じ狂気に満ちた笑みを張り付けたまま、魔法使いの方を凝視している。
「実に簡単な話だ――ネックレスを誰に盗られようとも、どこに売ろうとも必ず次の日に枕元に戻っていたのは、貴女が必ずそれを取り戻しに行っていたからだ。宝石店から閉め出されたのも、彼らが顔を覚えていたからだろう。前夜、恐ろしい形相でそのネックレスを取り戻しに来た貴女のね」
手足に傷が残っていたのは店に侵入した際に破ったガラスか何かで怪我をした痕だろう、と魔法使いは続けたが、その説明を女性が聞いているようには見えなかった。今の彼女には知性や理性と言ったものは欠片も感じられない。
「『執着』とは実に恐ろしいものだ。人がそれを対象物に向ける時、往々にして本人は自分がそれに執心していることに気付いていない。それは、自分がいかに対象物や対象となる人を想っているかという非常に主観的なことを、自ら客観視することが極めて困難だからだ――貴女の場合は、自分がいかにそのネックレスに執着しているか、それが自分では見えていなかったということだろう。私が依頼されたのは貴女とネックレスとの繋がりを断つことだが――この場合その願いを叶えるためにここに導かれたのは貴女だったのか、」
それともネックレスの方だったのか、と魔法使いは呟く。
代々依頼人の家に受け継がれてきたそれはきっと、今までも所有者との間に同様の関係を築いて来たに違いない。それがネックレスによるものなのか――それとも、彼女の先祖たちが皆異様な執着心を持っていたのか。『このネックレスを決して離してはならない』、と言った彼女の母親の言葉が一体どちらを示しているのかは魔法使いや少女には知りようも無いことだった。
「さて、ともかく約束は果たさねばならない」
そう言って魔法使いはポケットの中から何かを取り出す。それは件のネックレスだった。
その鈍い光を見た時、依頼人の表情が変わる。
「か、え…せ、」
無機質な笑みから、般若の面へ。あまりの急な表情の変化に顔の筋肉が変な動きをしているのが分かる。
しかし魔法使いはそれに一切動揺することなく、少女の前で本を動かした時のように宙で軽く手を振った。すると何も無かった場所に突如として、大きな鏡が現れた。
「醜いものは嫌いではないが、それを自覚しないものは嫌いだ。自らを醜いと知り、美を求めようと欲にあがく姿こそが最も美しいと思わないかね?」
先程からの言葉は、理性の無い女性に向けて言われている訳では無いのだろうと少女は気付いていた。彼は扉の前で息をひそめている少女に話しかけているのだ。
「自分の姿を客観視するには、やはり鏡が一番だ。今の醜い姿を自覚するのが良いだろう」
と言って、魔法使いは取り出したネックレスを鏡の方に向かって投げた。
宙を舞うそれを見た女性はそれを追いかけて叫ぶ。
「私のネックレス、返せ返せ返せ返せ返せ返せ――!」
そうして走っていった彼女は落ちたネックレスを探して床を這いずり回る。ずるずる、と衣服が床に擦れる音が少女にも聞こえた。
そして。
「あった」
そう言ってやっと見つけたネックレスを掲げた時、そこは丁度鏡の正面だった。自分の歪な姿を彼女はじっと見つめていたが、やがてその瞳に少しずつ正気が戻り始める。
端々が破れた衣服、乱れた髪、歪な表情。
「…あ、あれ、わ、わたし」
彼女の言葉がようやく意味を成し始めた時、魔法使いは彼女の近くに移動し、床に座り込んだまま呆然と鏡を見つめる彼女の上に手をかざす。
一瞬の間の後。
彼女の座り込んだ床の上に円と六芒星を合わせた様な幾何学模様が現れ、紫色の光を放った。
「――――」
そして魔法使いが何かを唱えると、女性の体から黒い靄があふれ出て床の模様の中に吸い込まれていく。全ての靄が無くなった時、床の模様は消え、女性も床に崩れ落ちた。
「これで一石二鳥だな」
そう言って魔法使いが再び手を振ると、鏡は虚空へと消えた。
「――それで、君は何をしているのかな」
いきなり飛んで来た声に、少女はびくっと肩を震わせる。逃げようもないので、仕方なく少女は扉の影から出て、部屋の中へと入った。
「部屋から出ないようにと言った筈だが…」
「音が気になって…」
「危険だとも言ったはずだ」
「…」
「…好奇心は猫をも殺すという言葉を知っているか」
少女は首を横に振る。
溜息を吐いた魔法使いは、本棚から一冊の本を抜いて少女に差し出した。
「…これを読むと良い。少しはその無鉄砲さが治るだろう」
その後、魔法使いは床で倒れている女性を抱え上げ、客室の方へと運ぶ。
「後の面倒は君に任せる。…まあ彼女は明日の朝までは目を覚まさないから」
危険はない、とその言葉は続いたのだろう。だがそこまでは言わずに、魔法使いは少女を残して暗い廊下の奥へと消えていった。
***
「あれ、私どうしてまたここに?」
次の朝、目を覚ました女性は不思議そうに小首を傾げた。依頼に来た時の口ぶりからも分かっていたが、彼女には暴れまわっている間の記憶は無いらしい。
「…きっとあのネックレスのことが気がかりだったんでしょう」
身支度を手伝いながら、少女は当たり障りの無い言葉を返す。昨晩のことをどこまで話していいか、又、どこまで話すべきなのか、分からなかったからだ。
「……ネックレス? 何の話です?」
しかし、女性はそんなもの初めて聞いたという風に少女に聞き返す。驚いた少女が何も言えない内に、
「そもそも私はどうしてここに来たんだったかしら?」
とますます不思議そうに自問している。女性はそのまま何も思い出すことなく、身支度を整えると帰って行った。
「――もうお帰りになったのか、慌ただしい依頼人だったな」
女性が玄関を出て行ったのを見ていた少女の背後から魔法使いが声を掛ける。
「あの人は、ネックレスのことを何も覚えていないみたいだった…」
少女の言葉に魔法使いは、
「それは対価として私が彼女の『執着』を貰ったからだ」
と、当然のように答える。
「対象に対する気持ちが高まるほど、その『対象物自体』ではなく、『対象物に抱いている気持ち』の方に焦点が集まる。今回で言えば、彼女があのネックレス自体というよりは、それを好いている自分の状態に依存していたように。
それが最も進んだ時、その状態を『執着』と呼ぶのだ。だから『執着』を取り上げてしまえばその気持ちは勿論、対象に対する興味も失われてしまうのは当然のことだろう。
強い感情には大きな力がある。今回の件の対価として私が貰うに値するほどのな」
魔法使いはそう言ってポケットから、件のネックレスを取り出す。彼女との関係性が切れたそれは、最早ただの宝石付きの首飾りに過ぎない。
「いるか?」
そう言って魔法使いは差し出してくるが、この一連の流れを見ていた以上、欲しいと思う筈がない。
少女が首を横にぶんぶん振ると魔法使いは、だろうなと答えて、それを手近にあった大理石の胸像に掛ける。
「ふむ、似合わんな」
大理石に向かって当然の感想を言って部屋に戻って行く魔法使いを見て、
「…多分おじさんも同じくらい似合わないと思うよ」
と少女はぽつりと呟くのだった。
追想のしるべ なみき @namiki
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