追想のしるべ
なみき
1、終わり
我らの神に、栄光あれ。
神官が静かに呟いたその台詞が、台の上に横になった少女の耳に届いた、最後の言葉だった。
***
鬱蒼と茂る森の中を、少女は覚束ない足取りで進む。
空は暗緑色の葉によって覆われ、その向こう側が晴れなのか曇りなのかも分からない。湿り気のある土の匂いがそこら中を覆いつくし、自分がまるで土竜にでもなって、当てもなく土の中を彷徨っているかのようだと彼女は思った。
――いや、本当にそんなことを思っているのか、それを考えた自分は、自分なのか、どこかで聞こえる甲高い鳥の声、自分の足が土を削る音、葉が擦れる感触――ここは、どこだ。
普通なら一つにまとまる筈の考えが、少女の頭の中でそれぞれに立ち現れては消えていく。
思い返されるのは神官の慈愛の笑みと、ただ少女を静かに見つめる侍従の姿。そして幼い頃から幾度も見た、村はずれの森にある石造りの部屋。
それは――≪神の御前に捧げられる者≫として、少女が死ぬための部屋。
「っ」
ひと際強くなった頭の痛みに、少女は自らの額に手を当てる。目覚めた時からずっと、ぐわんぐわんと揺れる感覚のせいで、自分がどちらに向かっているのかも定かではない。最早少女には自らの置かれた状況を客観的に把握出来るだけの十分な力は残されていなかった。
だが、それでも彼女の中にある、一つの存在だけは今でも失われてはいない。
――神様。
神官はかつて、儀式によって君は神の国に向かうことが出来る、と少女に言った。そこはいかなる苦しみも無く、穏やかで、全ての魂の揺りかごのような場所であると。人の犯した罪が全て許される場所であると。
だから一度閉じたはずの自分の目が、まだ平凡な景色を映していることに少女は驚いていた。自分はまだ完全に死に切れていないということなのだろうか。ここは生と死の狭間で、私はもう少しでようやっと神の国に行くことが出来るのだろうか。
「それなら――良かった、」
そう少女はうわ言のように呟く。
神の国に行くことは少女の為でもあり、また村人の総意でもある。同じ村の人々が飢餓や災害で苦しみ、死んで行く姿を少女はもう見て居られなかった。
だから自分が犠牲になることで、神の恩寵を得て、多くの命が救われるのであれば、こんな自分の命など投げうっても構わないと思った。元より、自分はそのために生まれて来たのだから。
これでやっと、自分の役目を果たせる。
少女がそのことを思い出して安堵すると同時に暗い森が開け、視界いっぱいに光が満ち溢れた。
「――――、」
ふらふらとした足取りも、もう気にならない。森の隙間から降り注ぐ光が、少女を迎えに来ている。柔らかな光に抱かれて今、彼女の魂は天上の世界へと羽ばたくのだ。
今度こそ、これで最後だと思った少女の視界にぼんやりと人影が映ったような気がした。
――ああ、神よ。
頭上に降りてくる光に手を伸ばしながら、少女は静かに目を閉じる。そうして彼女の体は糸が切れた操り人形のように、力を失って地面に倒れた。
ついに訪れた穏やかな眠りに、一筋の涙が少女の頬を伝う。
***
響いて来る、美しい小鳥のさえずり。
木々の合間を抜けて来た風が、開いた窓の隙間から吹き込んで少女の髪を揺らす。しかし、その目は未だ開かれることはない。深く寝入っている彼女を見かねた風が、窓の近くに積まれた本の山を押す。すると元々不安定だったその山はいとも簡単にバランスを崩し、ばさばさと音を立てて倒れた。
「――…」
その音でようやく、少女は睫毛を微かに震わせる。ゆるゆると開かれた瞳が最初に映したのは、古びた木の天井だった。
ここは、とまだ半分眠ったままの頭で少女は考える。
つい先ほどまでは森のようなところに居て、苦しくて前に進むのもやっとで、…それで。
「っ、」
先程までの光景がフラッシュバックした少女は、驚いてすぐに起き上がる。
壁、天井、床。そこら中に積まれた数多の本と白い紙。村には本は無かったけれど、神官の部屋で見たことがあったから、あの紙の束を本と呼ぶことは知っていた。紙には何やら殴り書きされているが、余りに文字が崩されているのでよく読めない。
先ほど崩れたらしい本の山から飛び出た紙が風に乗って、未だに床の上を流れている。窓の向こうにはまたもや森が広がっているが、先ほどまでとは違って木々の隙間から微かに空が覗いているおかげで日も差していて、とても心地がよさそうに見えた。
少女が窓の外を良く見ようとそっと立ち上がると、彼女の上に掛けられていた毛布が床の上に落ちる。
――誰かが掛けてくれたのだろうが、一体誰が?
神様が私たちの魂を救ってくれるとは聞いていたが、寝ている私たちに毛布を掛けてくれるとは聞いたことが無い。想像していたよりもずっと人間らしい行いに、少女は何かが違っているような気がしていた。
たぶんここは、神様の国ではない。
先ほどから溢れている本の山、音を立てる床板、埃っぽい香りは完全に彼女が今までに生きて来た物質世界と同じものだった。神様の国だとすれば、全てが現実味を持ちすぎているのだ。勿論、少女の頭の中のイメージの話に沿って考えると、だが。
ということは、ここは結局誰かの家であって、その誰かが少女を助けたということなのだろう。
「一体誰が…」
少女は呟いて、家の中を調べるために扉の方へと向かう。あれだけふらふらだったのに、眠ったことで回復したのか、今では足取りははっきりしていた。
木製の扉は半開きになっていて、押せば簡単に開く。出た先は廊下で、その両側にはまた本がうず高く積まれていた。それらがいつ倒れてくるとも知れない中を進むのは恐怖ではあったが、振動を起こさないように少女はそうっと歩き、廊下の奥の部屋へと足を進める。
そこは食事をするための部屋のようだった。
中央に大きな机が置かれ、そこを囲うようにして椅子がいくつか並んでいる。少女は椅子に上って机の上を見渡すが、そこにも読めない文字が書かれた紙が散乱していて、机の地がほとんど見えなかった。
しかし、よく見ると端の方に一カ所だけ紙が積もっていない場所があるので、どうやらこの紙を書いた人物はその場所に座って、作業をしていたらしい。
随所に溢れている本を見ても分かっていたことだが、ここで作業をしていた人物は恐らく相当片付けが下手なんだなと思いつつ、少女は椅子から降りた。隣にも小部屋がある。
そこは狭い料理部屋で奥には背の高い扉があったが、今度は鍵がかかっていて開かない。戻って別の道を探すのも良いが、少女は何となくその扉の向こうが気になっていた。
扉に鍵をかけるのは、そこが外界に繋がる出口である時か、もしくは大切なものをそこに隠している時だ。この場合どちらにしても少女にとっては興味深い。
どうにかして扉の向こうを覗けないかと、少女は一旦その扉の前から後ずさって、扉の周りを見渡す。
本の山。壊れた戸棚。薄汚れた壁。
「――あ」
目線を上へ上へと進めた先に、少女は扉の上の小窓を見つけた。窓は開いているので、そこまで登ることが出来れば、向こう側を覗けそうだ。
そう考えた少女は早速、扉の横の本の山に近づく。丁度積まれている本が階段のようになっていて、戸棚の高さにまで登ることが出来た。戸棚にしがみつくようにして、少女はずんずんと上まで登る。
そしてついには一番上の段まで登り切って、小窓から向こう側を覗き込んだ。
そこは奇妙な場所だった。
ただ扉を一枚隔てただけなのに、こちら側と向こう側ではまるで雰囲気が違う。
家は床も天井も扉も全て板で出来ているのに、向こう側に見える景色は全てが煉瓦によって形作られている。元々は赤かった筈のそれは古びて、苔生しており、灰色と緑の合いの子のような色になっていた。さらにその場所には、少女が覗いている小窓とその真下の扉以外には窓も扉も無いし、ここまで至るところにあった本の山も向こう側には一切なく、唯一在ると言えば、閉ざされたその場所の中央に、地下へと降りていく階段のようなものが見えるだけだ。
生命の息が一切感じられない、まるで廃墟のようなその場所は、少女にうっすらとした恐怖を抱かせた。恐らくここは立ち入ってはいけない場所だ、と本能が警鐘を鳴らしている。
そこを探るのは止めて、戻って他の道を探そうと棚を降りかけた少女だったが、その瞬間に戸棚が嫌な音を立てた。見るからに壊れそうだったその棚は華奢な少女一人分の重みにさえ耐えられなかったのだ。少女が足を掛けていた段が抜けて外れると、その板が次の段の板を壊して、少女はそのまま下に積まれた本の上に投げ出された。
「…ったた、」
「――これはこれは。全く、躾も何もあったもんじゃない」
突然横合いから聞こえた声。
少女が驚いてそちらに目を向けるが、そこに人の姿はない。
「本当にそうだ、どうしてご主人様はここにこの子を連れて来たんだ」
今度の声は最初の声とは真反対の方向から聞こえた。先ほどは女性のように聞こえたが、今度は少年のような声だ。しかし、少女がそちらを見ても誰もいない。
「うーんパッとしない子だけど、もしかしたらこういうのがご主人様の趣味なんじゃないのぉ?」
「よしなさいよ、変な疑いを持つのは。それよりもうすぐご主人が戻って来るわ、お食事の準備をしないと」
あちらこちらから声が聞こえるが、何度確認してもこの部屋には少女以外に人影は見えない。次第にその声色は多様さを増してきて、少女を取り囲んでいく。得体のしれないそれが怖くなった少女は慌てて立ち上がり、元来た道を引き返そうとするが、廊下に繋がる扉が開かなくなっていた。
「――もしかして、あの子は今晩の食事の材料なんじゃないかい? 人間の女の子の肉は柔らかい、って聞いたことがあるよ」
先程の部屋から聞こえて来た声――今度は老婆のそれだったが――が恐ろしい言葉を吐く。それと同時に周りの声達も、そうかもしれない、きっとそうだ、と同調しているのを聞いて、少女の顔からさあっと血の気が引いた。
――早く、早くここから逃げないと。
焦って扉を押すが一向にそれは開かない。もう体当たりしてこじ開けるしかないと少女は体をドアにぶつけてみたが、それでも扉はびくともしなかった。
――もう一回。
先程よりも長めに助走をつけて、息を吸い込んだ彼女は扉に向かって突進する。ぶつかる直前に目を閉じて衝撃に備えたが、少女の体が扉の板に触れそうになった瞬間、ガチャリと言う音と共に突然扉が開いた。
このままだと廊下の壁にぶつかる――と少女は思ったのだが。
想像に反して、『その壁』は非常に柔らかかった。ぼすん、とまるで布の上か何かに飛び込んだかのように、彼女の体はやんわりと受け止められる。
「おや、起きたのか」
少女が『その壁』が何であるかを確認するより早く、随分と高いところからまた別の男の声が降って来た。しかし、先ほどまでの姿なき声と決定的に違うのは――その声の主が彼女の目の前に間違いなく立って居たということだ。
その人物は頭の天辺からつま先まで、即ち全身を真っ黒なローブで覆い隠しており、その黒い布地以外には袖口から覗く黒い皮手袋と靴しか見ることが出来ない。今は身長差で少女が下から見上げる形になっているにも関わらず、フードの下にも影と呼ぶには暗すぎる程の闇が広がっているだけだ。
「あ、あなたは…」
「――ご主人様!」
何とか絞り出した少女の声を遮るように、向こうの部屋から声が飛んでくる。その声に反応して他の声達も、何だって、いつもより帰りが早いじゃないかい、まだお食事の用意が出来てないわ、申し訳ございません、と次々に言葉を紡ぐ。
「それは構わないが、――」
主人と呼ばれたその男が、一旦言葉を遮って少女の方を見下ろしたのが、ローブの動きで分かった。少女は思わずびくりと肩を震わせる。
「…ふむ、この怯えよう。どうやらお前たちは私の大切な客人に悪趣味な嫌がらせでもしていたらしいな」
その言葉に、姿なき者達の間で動揺が広がったのはすぐに分かった。
「いえ、そのようなことは」
「元はと言えば、こいつが悪いんだ」
「アンタも乗っかってたんだから同罪だろうよ」
「そういう婆さんが一番…」
言い訳がましく続く言葉に男はため息を吐く。
「――もういい。とにかく食事はきちんと二人分用意してくれ」
奥の部屋に向かってそれだけ伝えると、「ここではなんだから向こうの部屋に行こう」と男は言った。
彼女が通された部屋は、彼の書斎だった。
入口側以外全ての壁を本棚によって囲まれたその場所は、床に敷かれた上等な絨毯や凝った装飾のランプ、重厚感のある机や椅子など、先程までの部屋とはまるで印象が違う。部屋の中央に置かれた机の上、そしてその両脇にまた本が沢山積み上げられているところは何も変わっていないが。
さあどうぞ、と男が少女に勧めた椅子はその机の真正面、つまりは部屋の中央に置かれており、座った少女はどことなく居心地の悪さを感じていた。
「まあ、ここなら落ち着いて話が出来るだろう。それで君は…」
男が話し出すのと、少女が口を開くのは同時だった。
「――おじさんは、何者?」
少女は男の言葉を遮って聞いた。
恐らく相手は普通の人間ではない。そして勿論、神でもない。人間でも、神でも無い者で少女が他に知っているものと言えば。
「悪魔――?」
清き人々を誑かし、その魂を手に入れようとする姑息な者達。そのように少女は聞いていた。
彼女の突然の質問に対しても、男は驚かなかった。元より、驚いていたとしても表情が見えない以上、それが少女に伝わることは無いのだが。
「私のことを表す言葉は様々だ。導師、除霊師、代行者、厄介者――だが君が言うように、悪魔と呼ぶ者もいる」
その言葉に、少女の視線がきつくなるが、男は構わず続ける。
「おや、そんな目で見ないでくれ。あくまで呼び方は自由だということを言いたいだけだ。
そもそも個人の存在を絶対的に表現する言葉は、その者の名前以外に無い。名前でない呼び方は全て、何かとの相対関係によって付けられた呼称に過ぎないだろう。
男と女、善人と悪人――神と悪魔、そして人間と神。
…ああ、ちなみにここでの順番は別に気にしないでくれたまえ、ただ言葉の綾でそう言っているだけだ。別に私はアダムの肋骨からイブが作られたと信じて男を先に出した訳では無いし、性善説を信じて善を前に出した訳でもない。ただの言葉の綾だ」
繰り返すように念を押しながらも、男はさらに続ける。
「さて。ここで君は私が何者であるかを問うた訳だが。それに対する私の答えとしては、先ほどの理由からすると私の名前を告げることが本来は正しいのかもしれないが、それは決して今君が求めている答えではないだろう。
まあ私がここで冗談半分に悪魔だと答えても面白いかもしれないが、そう言った瞬間にも君は、そこの壁に掛けてある斧を引っ掴みに走るだろうから止めておこうか」
少女は男の言葉に驚く。本当に悪魔だった可能性を考えて先ほどから何か武器になりそうなものを探していたのは事実で、壁の斧が気になっていたのも事実だったからだ。
「図星かな? 取りあえず、君のような女の子が持つには少々重いから、諦めた方が良いとだけ言っておこう。
前置きが長くなってしまったが何のことはない。
答えは簡単――私は魔術師、即ち魔法使いだ」
「ま、ほうつかい」
聞き覚えの無い言葉に、少女はただ音を繰り返す。
「君のいた世界には存在しない概念だから、知らなくとも仕方がない。簡単に言えば、目に見えない力を用いて、自然法則では起こり得ない事柄を起こすことが出来る者達のことだ、」
例えば、と言って男は机の両脇に置かれている本の山の方に手を伸ばし、何かを掴むように空中で軽く、その黒い革手袋に包まれた手を振った。
すると積まれていた本がふわりと宙に浮きあがる。
「!」
糸に吊るされているという訳でも、下から風か何かに押されているという訳でもない。明らかに物理現象では起こり得ないその動きに瞠目する少女を尻目に、男はまるで見えない何かを押すかのように、壁の本棚の方に向かってさらに手を振った。その動きから一拍遅れて、浮かび上がった本たちが次々に本棚の中に吸い込まれ始める。
元々棚の中で斜めに置かれていた本が自然と垂直に戻り、今まで床に積まれていた本が空いたスペースに戻される。本棚中に点在していた同様の空間が埋まっていき、最後の一冊が片づけられる頃には、最初から本の数に合わせて棚が作られていたかのように、全ての本が隙間なくぴたりと棚の中に収納された。
「こんなのはまあお遊びに過ぎないが、私がこのような力を持った存在であるということは信じてもらえただろうか」
まだ驚きを隠せないでいる少女を放って、男は話を進める。
「さて、その魔法使いである私が君を拾って来たのは他でもない、君の願いを叶えるためだ」
「私の願い…」
「ああ、そうだ。私の仕事は一定の対価と引き換えに、人々の願いを叶えることだ。この空間は様々な世界に通じていて、様々な人々の様々な願いが私の元に集まって来るようになっている」
だからここに来たということは君も願いを持っている筈だ、と男は続けた。
「何かが欲しい、何かを取り戻したい、誰かが憎い、恨みを返したい――人の願いというのは、対象は変われども、いつの時代も大して変わらない。
さあ君の願いを言いなさい、そうすれば私がそれを叶えよう」
まるで悪魔が囁くかのように、男は少女に問いかける。少女は暫く押し黙った後に、口を開いた。
「――私を、殺してください」
まるで無機質な物体が音を発するように。少女は抑揚のない、平坦な口調でそう言った。
「…それは何故だ?」
男が尋ねるので、少女は淡々と答える。
「…私は本来、あの場所で死ぬはずの存在だからです。私は≪光の巫女≫として神様に捧げられた筈でした。私が死ななければ、干ばつに苦しんでいる私の村は救われない。貴方が私を助けてくれたことには感謝しますが、それは必要のないことだったのです。
だからもし貴方が私の願いを叶えてくれるというならば、今すぐ私を殺してください」
まるで機械仕掛けの人形のように、少女の口調には一切の淀みがなかった。
生を捨てる悲しみも、死に対する恐怖も、その言葉には含まれていない。
そんな少女の様子を男はただ黙って見ていたが、暫くしておもむろに口を開く。
「――君にとって『神』とは何だ」
男の問いかけに、少女は答える。彼女の記憶の中の神官の言葉と同調するように。
「私たちを救ってくださる御方です」
その答えは再び部屋に静寂をもたらしたが、この問いかけに何の意味があるのか、少女には理解が出来ていなかった。息を止めたらどうなりますか、と聞かれているのと同じだ。その答えはこの世に生まれた全ての生物が知っている。
「…村を救うために、と言ったな」
不思議に思う少女に構わず、男は話を続ける。
「君は本当に心からそうしたいと思っているのか?」
男は少女に対して問いかけるが、今度こそ彼女にはその質問の意図が分からなくなっていた。自分の願いでないというならば、一体誰の願いなのか。生まれてからずっと自分はそのために生きて来た。
だから少女は男の質問に、勿論だと答えた。部屋に残ったその余韻を含めて少女の声を聞いていた男は、しばしの沈黙の後、口を開いた。
「――君の願いを叶えることは不可能だ」
ばっさりと切り捨てるようなその言葉。それを聞いて僅かに動揺を見せた少女を、男は真っ暗な闇の向こうからじっと見つめる。
「全く、とんだ見当違いだった。ボロボロの姿で倒れているからどんな願いを持ってきたのかと思えば、叶える価値すらない」
そう言って男は立ち上がり、壁際に掛けられていた斧を手に取った。鋭利な刃が光を反射し、自らの有能さを主張している。
そのまま無言で少女の方に一歩、また一歩と近づいてくる男を見て、少女は思わず震える足で後ずさりをした。それを魔法使いは見逃さない。
「この程度で震えている者が、自分を殺すことを願うなど笑い種だな」
低い声で言った魔法使いは、少女の目の前の床に斧を落とす。両刃の斧の片側が床に刺さり、刺さらなかった方の刃は少女のすぐ足元で不気味に光っていた。
「死にたいのなら、自分で死ねば良いだろう」
「…そんな方法教わっていません」
「だったら私が教えてあげよう、丁度ここに良いものがある訳だし」
そう言って男は足元の斧を示す。
「その刃に首を当てて、そのままさっと首を横に動かせば良い。首を落とさずとも、多くの血を流せばいずれは死ぬ。思い切りよくやらないと余計に苦しいだけだから、覚悟があるならさっさと済ませるべきだと思うが」
促すような男の言葉。
少女は反射的に「無理だ」と言いそうになって口をつぐむ。
――自分はこのために生まれて、今まで神に尽くして来たのだから、こんな些末なことが出来ないはずがない。これで村のみんなが救われるならば、こんなに幸せなことはないのだ。
自分に言い聞かせるように心の中で何度も唱えた後に、少女は意を決して男の言う通りに床に跪き、斧に首を近づける。
心臓の音、汗ばむ手。
その刃に首を近づけていく程に少女の内に恐怖や緊張がせり出し、それが今にも皮膚を割いて飛び出してきそうで、少女には最早何か他事を考えるだけの余裕はない。
そこにあるのはただ、生きるか死ぬかという選択だけ。
そして、鋭い刃の先が彼女の首の皮に当たるか当たらないか――というところで、ついに。
「…………で、できません」
少女は絞り出すように言って斧から手を離し、床に座り込んだ。張り詰めた緊張が一気に解けて、彼女は震える息を吐き出す。
全てを静かに見ていた男は、
「そうかい。自分で手を下せない以上、君が死ぬことはやはり不可能だな。諦めなさい」
と呆れたように言う。
他の願いごとがあるなら聞くが、と男が続けようとした時、それを遮るように少女は残された気力を振り絞ってその場に平伏した。
「諦める訳にはいかないんです。お願いですから、どうか私を殺してください」
そうしないと村が救われないから。
お願いです、と少女は同じ言葉を繰り返す。
「…君は本当に、自分が死ねば村が救われると思っているのか?
――そんなくだらない『神』とやらのために死ぬことに意味があると?」
男のその言葉には呆れを通り越して、憐憫の情のようなものが混ざっていることに少女は気付いていた。
「私を哀れに思うのは結構です…でも、神様を侮辱することは許されない」
きっと罰が下る、と続けた少女の言葉を男は一笑に付す。
「そんなものがあるなら今すぐこの身に受けてみたいものだな。ほらもう十秒も経ったが、何も起きない」
「っ、いい加減に」
「――『神』など存在しないのだから当然だ」
男が発したその言葉に、少女はピタリと動きを止める。
「人々に都合良く救いを与える『神』など存在しない」
男は少女に聞かせるように、その言葉を繰り返す。
少女が意味を理解できずに閉口したのを機に、男は畳みかけるように続けた。
「『神』とは存在ではなく、ただの一現象に過ぎない。苦しい環境の中で、偶然何か喜ばしいことが起きれば、人々はそれを神のおかげだと言う。そして同様に、罪を犯した者にふさわしい罰が送られた時にも、神罰が下されたと言われる。『神』の御業は全て後付けの理由によって、それが神によって為されたことだと認められるのだ。
だから『神』に祈ることで、村を救うことは到底不可能だ。村が救われるのであればそれは勝手に救われるのであって、そこに『神』の力が前もって関与するということは無いだろう」
要するに村が助かるか否かは誰にも分からないということだ、と男は言う。
「…自分の理解できない範囲の幸運や悲劇にまで理由付けをしようとした際に最も都合が良いのが『神』だ。さらにそれはまた、人に信じ込ませることも容易い――特に相手が子供ならばな。そしてそれを信じて育った人間が、また次の子供にそれを信じ込ませる…」
「そんなことはありません!」
今まで黙っていた少女が怒りに震える声で叫ぶ。
「神様は確かに私たちと共にいらっしゃる! 今まで幾代にも続く≪光の巫女≫が、神に仕える者としての役目を果たしてきました。飢饉や天災の度に巫女は神の下で願い、そして結果的に村は救われてきた。それこそが神様が存在するという証拠でしょう」
少女の言葉に、男は黙る。
そして彼はおもむろに、手近にあった本を適当に一冊取って少女に示した。
「――君は、こういうものを読んだことがあるか」
「そんなもの今何の関係が」
「あるのか、ないのか」
本を持ったまま、じっと少女を見つめる男。有無を言わせないその態度に、少女は質問に応えざるを得ない。
「……ありません。それが本だということは知っていますが、村では神官様の部屋にしかない高級品でしたから」
その返答に男はため息を吐く。
「やはりな。じゃあ聞くが、君はどうやって今まで≪光の巫女≫が神に捧げられることで村が救われたという話を知ることが出来た?」
「それは神官様から――」
「口伝で聞いたということか? そんな曖昧な言葉を信じて、黙って犠牲になろうとしたというのか?」
「っ、神官様を愚弄するのは神を愚弄するのも同然で…」
「まだ認めないのか」
もう良い、分かった、と男は立ち上がる。そのまま靴音高く近づいてくる男に、少女は戦く。
今の状況で相手の機嫌を損なうべきではなかった。
そう考えた一瞬の中でさえ彼女は紛れもなく、危害を加えられることを――死を恐れていたのに、彼女は自分の口から出る言葉と本心とが矛盾していることには気付かない。
「…ならばもう自分の目で確認するしかないだろう。その神官とやらの言葉が本当かどうか、君の言う『神』が本当に存在しているのかどうかを」
君の望みが本当に君自身のものであったのかどうかもな、と男は言って、少女の頭の上に手を翳す。
すると彼女の足元に不思議な文様が浮かびあがった。少女がそれに驚いている間にじわじわと彼女の体は床の中に沈み込み始める。
「一体何を、」
言葉の途中で少女は完全にその中に飲み込まれた。
本だらけの部屋が彼女から遠ざかっていく――――。
***
そして、少女にとっては一つ瞬きをする程度の時間の後。
「…え、」
彼女は気が付くと木々の間に立っていた。
最初に惚けた頭で彷徨っていたあの森に似ているが、違う。ここはもっと懐かしい、見慣れた場所。
「――村の入口だ」
そう、ここは少女が暮らしていた村と森との境だった。正面に見えている大きな木を右に曲がれば、そこからが村だ。
二度と戻って来られない場所だと思っていた。だからこそ見慣れた景色を見た時、少女の心には知らず知らずのうちに大きな安心感が広がっていた。得体の知れない場所を彷徨い、素性の知れない怪しい男の下にいるよりは、生まれ育った村にいる方がずっと良い。
その喜びが彼女を駆り立てる。
結局はその喜びこそが、彼女の本心だった。
帰って来た、私は帰って来たんだ――――。
裸足で地面を蹴って少女は村の方に向かう。この角を右に曲がればそこは私の――。
「私の…」
村が、ある筈だった。
燃え盛る炎。
一つではないそれは、あちこちで轟々と燃えて、端から全てを灰へと変えていく。
村の入口の近くにあった家は、少女の幼馴染の家だった。彼は子供たちの中でも一番走るのが早く、狩りが得意だった。もう、今やその家は跡形も無いけれど。
ふらふらと進む自分の足が、自分のものでは無いように少女には感じられた。
彼女は虚ろな目で、村の中心へと続く道を進む。
その途中に見えたのは神殿によく食べ物を献上に来ているお爺さんの家だった。いつも厳めしい顔をしていたが、実は病気の息子がいて、その子のために神殿に祈りに来ていると人伝に聞いていた。もう、そのお爺さんの家も真っ黒になっている。
そしてその次に見えるのが、彼女が生まれ、幼少期を過ごした家だった。そこもやはり他と変わらず、焼け焦げて原型を留めていなかった。
「………」
家を出たのはもうずっと昔のことで、それ以来ずっと神殿の中に住み込みの生活をして来た。両親の下で暮らした時間と、神殿で過ごした時間でいえば後者の方が長いくらいだ。だからこそ、儀式の前の最後の別れの時に会った両親が涙を流すのを見て、少女は驚いたのを覚えている。
しかし、結局彼らも皆、灰になってしまった。
眼前の景色は全て本物なのか、それを聞く相手すらいない。
いや、あるいは――。
少女の足は村の中央に進む。行くべき場所は最初から分かっていた。
そこにある建物は神殿として用いられていた場所で、少女がこの十年余りを生きて来た場所だった。
少女が進む道の脇には、ぽつりぽつりと人が倒れている。腹から血を流す人、背中に矢が刺さったままうつ伏せで倒れて動かない人。わらと木とが燃える匂いの中でも、彼らの血の匂いは消えていない。
一歩進む度にそれが肺の中一杯に充満していく気がして――それがいっぱいになった時、少女は何か胃の中からせり上がるものを感じてその場に蹲った。
気持ちが悪い。死体と炎に包まれた中を歩くのは。ましてやその中に見知った顔を見つけようものなら、尚更だ。
暫く荒い呼吸を繰り返していた少女は、何とか立ち上がる。神殿はもう目の前だった。
村の中でまだ唯一燃えていないその建物の裏口から少女は中に入る。表の入口は何故か木や石で塞がれていた。
狭い通路を抜けて目指すのは、最も奥にある部屋。
気付けば少女は走り出していた。ここまで見て来た全ての現実を振り切るように。
そしてその勢いのままに、目当ての部屋の扉を押し開ける。
「神官…様…!」
円形の部屋の真ん中で、神官は脇腹を刺されて倒れていた。少女がその傍に駆け寄ると、その男は口から血を流しながら薄く目を開ける。かろうじてまだ息があるのだ。
「お前は…」
「一体何が…何があったんですか…! どうして村がこんなことに」
取り乱す少女に対して、神官の口から紡がれた言葉は余りにも残酷だった。
「――お前のせいだ」
神官は少女を憎々し気に見つめながら、続ける。
「儀式の後、雨は降らなかった。古くからの習に則ったというのに。そして食べるものが尽きたところから争いが巻き起こり、村は壊滅した。
お前が死ななかったからだ。お前が生きているから、神は怒り、この村に罰を与えたのだ」
衝撃だった。
神官のその一言一言が刃となって、少女の心臓を突き刺す。自分がまだ、生きていたせいで、皆が。私が死ねなかったせいで、皆が代わりに死んで行った。
少女の手から力が抜けた。自分が仕出かしたことの大きさに表情を失くした彼女は、それこそ死んでしまったかのように動けない。
その隙をついて神官が身をよじって起き上がり、少女に飛びかかった。馬乗りになって、ぎりぎりと彼女の細い首を締めあげる。
「お前のせいだ、お前のせいだ、お前のせいだ…」
「っ、は、」
息が出来ない。苦しみもがくことで精一杯なのに、呪詛のような神官の言葉だけは酷くはっきりと少女の耳に届く。
もう私はここで死ぬのだ、と彼女は今度こそ思った。だが――そうすれば全てを忘れて楽になれる。もとより私は死に損ないなのだから。
霞む視界。
焦点の合わない目で少女が見つめる先には、神官の白い服、そして脇腹の辺りが赤色に染まっているのが見える。そしてその中心に刺さっている刃物も。
死んでも良いと思っている筈なのに、少女の手は自然とそれを掴もうと伸びていた。指先が一瞬刃物の柄の部分を掠めるが、神官は少女の動きに気付いていない。
そして彼女の首を絞める手にさらに力を入れようと、神官がその身を乗り出した時、少女はその柄を完全に掴んだ。
そのまま、それを力の限り手前に引く。
「ぐっ、あああああああああ」
叫び声をあげて神官は再び床の上に転がった。刃物は神官の傷口をさらに広げて、少し離れた場所に滑っていく。
ギリギリのところで空気を取り戻した少女は大きくせき込んだ。視界が滲むのが恐怖のせいなのか、哀しみのせいなのか、もう少女には分からなかった。
何も理解したくなかった。
切らした息が元に戻るより早く、彼女は床に落ちた刃物を拾い上げていた。そうして床を這っている神官の方に近づく。
この感情が何なのか、彼女には分からない。ただ、目の前の男を刺せば、いくらかに楽になるような気がした。
そして少女は神官の背中目掛けて刃物を振り上げ――――
「それは、駄目だ」
振り上げた腕を後ろから掴まれる。
そこに立っていたのはあの魔法使いだった。
「落ち着け、君がこれ以上何かをする必要は無い。こんな人間のために、君が何かを背負うことは間違っている」
その言葉に漸く、少女は自分がしようとしていたことに気が付き、驚きに手を震わせた。
「あ、ああ、あ」
刃物を取り落とし、自らの震える手が先ほど溢れた神官の血で濡れているのを見た少女は、そのことにもまた驚き、その手で顔を覆う。
あの瞬間、少女を襲った感情は、哀しみであり、怒りであり、そして憎しみだった。
心のどこかで、少女が戻って来たことを神官は密かに喜んでくれるのではないかという淡い期待が彼女の中にはあった。少女がここで過ごした時間は長かったのだから、それに見合うだけの何かが少女と神官の間には築かれている筈だと、少しだけ思っていた。
だから、実際の神官の言葉に目の前が真っ白になった。
「あ、ああ、あああああ」
少女の苦悶が神殿の中に響く。
彼女がしたことは『神』の下にある限り決して許されることでは無い。『神』に等しい位にあり、傷つけてはならないはずの神官様を殺そうとしたのだから。本来ならば即刻処刑されていてもおかしくはない。
だから、少女の行いが全て正統なものだったと、自分は悪くないと主張する限りは、少女は『神』の世界から抜け出さなければならなかった。かつての少女であれば、蛮行を犯そうとした自らの身を呪って処刑を受け入れたであろうが、今の少女にはそれを受け入れる気持ちが生まれようもない。
だが少女がそれを割り切るには、彼女が『神』を信じ続けた時間が長すぎた。
混乱の中、ただ泣き叫ぶことしか出来ない彼女を見た魔法使いはそっとその肩に手を地く。
「――もう火の手が回る、ここを離れた方が良いだろう」
その言葉は恐らく少女には届いていない。
魔法使いはそれを理解して、返事が来る前に彼女を抱え上げてその場を後にする。
燃える神殿で少女が最後に見たのは、床に倒れたまま次第に動かなくなっていく神官の姿だった。
村のはずれの小高い丘の上に、魔法使いと少女は立っていた。眼下に燃える神殿を見つめながら。
「…私が村を、滅ぼした」
「いいや、違う。不幸な事故だった」
「でももしかしたら、私が死んでいたら、その運命は変わっていたかもしれない」
「いいや、そんなことは無い。そんなことは誰にも分からない」
「そう、誰にも分からない! 私が死んでいればどうなったかなんて!」
少女は泣きながら叫ぶ。
「…私がおじさんに願ったら、魔法使いなら、村を救える? さっき本を動かしたみたいに、家を、人を、元通りに出来る?」
懇願するように少女は魔法使いを見上げる。その真っ暗な闇の向こうで彼がどんな顔をしているのかはやっぱり分からない。
「…それは出来ない。魔法には対価が必要だ。
家の復元に見合う対価はあっても、人の魂に見合う対価は存在しない」
静かに告げる男の言葉に、少女の瞳からはさらに涙が溢れた。もうそうなれば、頼みの綱は一つしかない。
少女は空を仰ぎ見る。
「神様、どうかお助け下さい、私の命など…」
途中から少女の声が消え入り、ただ嗚咽だけが辺りに響く。
もう少女にも分かっていた。
魔法使いの言う通り、少女が今まで信じて来た『神』など存在しない。村がこうなっている以上、そして少女がこうなっている以上は救いなどなかったのだ、と。
彼女が神官のことを刺そうとしたのは、彼が憎かったからだ。全ての責任を押し付けて、自分だけが苦しみから逃れようとしている彼が憎かったからだ。
村が滅んだのは、私のせいではない。口ではそう言えなくとも、心はずっと叫んでいた。
少女は歪む視界で、村を見下ろす。
村で遊ぶ子供たちが羨ましかった。自分もあんな風に森を駆け回りたかった、夕暮れを親と手を繋いで帰りたかった。いつも神殿の中から、外の暮らしを羨ましいと思っていた。
どうして私がこんなところに閉じ込められなくてはならないのだろうか。
どうして私が死ななくてはならないのか。
当然の疑問を少女は全て、『神』のためであるというその言葉で全て片づけて来た。
しかし今、そうして奪われた少女の人生が、奇しくも彼女の手元に戻った。他の全てを失って、ただ命だけが戻って来たのだ。
「これから私はどうすれば良いの…」
何に願えば心の平穏は保たれるのか。
何に縋れば、全ての現実を忘れることが出来るのか。
ぽつりと漏れ出した少女の言葉を、魔法使いは聞いていた。その暗闇の中から、彼の声が響く。
「――君自身の生を、君自身で引き受ければ良い」
何に縋ることなく、自らのために生きる。招いた過ちを自分で償い、得た幸運を自分のために喜ぶ。
君に救いを与えるのは君自身だ。
そう言って魔法使いは、少女の頭をそっと撫でる。
それから、今まで胸の中に溜め込んできたものを流すように、少女は泣いた。
神様のためでなく、ただ彼女自身のためだけに。
魔法使いはただ彼女が泣き止むまでずっと少女の傍に立っていた。
太陽が沈み、静かな空に月が昇るまで――ずっと。
***
あの朝と同じように、鳥が囁く声で少女は目を覚ます。
視界に映るのは古びた木の天井。
その木目を見ながら、少女は自分が今いる場所がどこなのかをゆっくりと思い出す作業をする。
森の中を彷徨い、辿り着いた魔法使いの家。
そして、焼けた村と神官の声。
「……」
少女はそっと自分の首元に――そこに巻かれた包帯に触れる。この下にはまだ、あの時首を絞められた跡が残っているのだ。
お前のせいだ、という言葉と共に、あの時の記憶が彼女の脳裏に蘇った。あの時手に付いた鮮血がまだ付いているような気すらして手を見るが、勿論そこにはもう何も付いていない。
何て嫌な朝だろう、と彼女は思う。
だけど、目を背けて生きていくことは出来ない。
『――君自身の生を、君自身で引き受ければ良い』
少女がこれからも生きることを選び続けていく限りは――そう言った魔法使いの言葉を、信じるしかないのだから。
少女はベッドから体を起こす。そこは魔法使いの家で、少女が最初に目を覚ました部屋の中。
『君が行く当てがないというならば、うちに居ても良い。丁度人手が欲しかったところだ、君が私の助手として働いてくれるなら、最低限の暮らしは保証しよう』
そう言って魔法使いが差し伸べた手を少女は迷わず取った。元より少女を知っていた人々は皆いなくなってしまったし、何より少女は自分が今まで生きて来た『神』の世界の外側にある世界を知らない。
それを知るには目の前の黒衣の男に付いて行くのが一番だと思ったからこそ、彼女は今ここにいた。
《ルビを入力…》少女が部屋を出て、本に囲まれた廊下を真っ直ぐ進んだ右側の扉。それを開ければ、魔法使いは今日も難し気な本に目を通しながら、
「――おはよう」
と彼女に声を掛ける。
それに返事をするところから、今日も少女の一日は始まるのだった。
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