プロトン先輩とドキドキ秘密の実験室

水沢ぺこ

プロトン先輩とドキドキ秘密の実験室

 宇田川うだがわ先輩との初めての出会いは、昔のことでもう覚えていない。

 覚えているのは、同じ幼稚園に通っていて、年はひとつ違うけどクラスは一緒で、そしてすごく仲良し、ということ。

 先輩は――あの頃は名前の“陽子ようこ”から取って、“よーちゃん”なんて呼んでたけど――当時からすごく頭が良くて、すでにこの世界のどんなことだって知っていた。宇宙はどうやって誕生したのか、なぜ恐竜は滅んだのか、空と海が青い理由――ぼくのするどんな質問にも、彼女はかならず答えてくれた。

 そのうち、ぼくはそんな彼女のことが好きになり、彼女の方もまたぼくに好意を抱いてくれていたのだろう、いつしか二人は将来結婚する約束をした。まだ幼い子供同士の、たわいのない約束だ。

 そして、そんな二人の関係が崩れたのも、もとはと言えばその約束が原因だったと言えるかもしれない。

 よーちゃんと結婚の約束を交わした後、ぼくはこんな話をした。「ママがいってた! ケッコンすると、コウノトリさんがやってきてあかちゃんをくれるんだって!」

 だけど、彼女はこのコウノトリ説を強く否定した。「ちがうよ! あかちゃんって、そうやってうまれるんじゃない」。そう言って、彼女は赤ちゃんの生まれる仕組みについて正しく説明した。どんな風に説明したかと言うと……その、人間のおすめすが対になって……まあ、続きは言わなくてもわかるだろう?

 とにかく、よーちゃんの反論にぼくはひどく傷ついた。だって、彼女の言っていることが正しいなら、母はぼくに嘘をついたことになる。ぼくは母の名誉を守るために意地になり、よーちゃんの方も正しい自分の意見を決して曲げなかった。両者は激しく対立した。

 口論の末、ぼくたちは最終的に議論の判決を第三者にゆだねることにした――つまり、先生に聞くことにしたのだ。

 事情を知らない喧嘩の雰囲気を読み取った先生は最初、「あらあら、どうしちゃったの?」とあくまで穏やかに仲裁役をつとめようとしていたが、ぼくたちの話を聞くとその顔はまっ赤になり、そして困惑の表情を浮かべたまま言葉を失ってしまった。


「よーちゃんはまちがってる! あかちゃんはコウノトリがはこんでくるんだ!」


「そんなのって、ぜんぜんじゃない! せんせいもはっきりいってよ! なかくんのママはうそついてるって!」


「えー? ええと……うーん、なんて答えたらいいのかしら……」


「せんせいなんでなにもこたえてくれないの!? ぼくのママはうそつきじゃない! うそつきはよーちゃんだ!」


「ちがう……わたしはうそつきなんかじゃない。うそつきじゃないもん……」


 よーちゃんは泣き出した。ぼくも泣き出した。そして、先生も泣き出した。

 こうして、ぼくと彼女の物語は幕を閉じた。結局、仲たがいしたまま彼女はその後すぐ卒業し、二人が再び出会うことはなかった。

 ……はずだった。



 あれから十一年後。

 ぼくはいま放課後の科学実験室で、あの宇田川先輩の実験を見ている。

 部屋中がありとあらゆる機材と器材で埋め尽くされた空間は、その床までもが散乱した論文ペーパーで埋め尽くされており、まさに混沌カオスと呼ぶべき状態だった。

 先輩が行っているのはどうやら化学合成の実験のようだが、ぼくにわかることと言えば、なにやら温度計を差し込まれた三つ口のフラスコに入った液体が、氷水を張ったプラスチックのおけの中で冷やされてる、ということくらいだ。


「先輩、それはなにを合成しているんですか?」


「んー」


 ぼくの問いかけに生返事で返した先輩は、スポイトを使ってその冷やされた液体を吸い上げると、それを石の台の上に一滴垂らした。


「ちょうどいい、君に協力してもらおうと思っていたところだ」


 そう言って先輩はテーブルに置かれたかなづちを掴むとそれをぼくに渡した。「これでこの液体を思いっきり叩いてみてくれたまえ」


「そうするとどうなるんです?」


「試してみればわかる」


 ……それ以上説明するつもりはないらしい。

 ぼくは嫌な予感を感じながらも、腹をくくることにした。ええい! 勢いよくかなづちを振り下ろし、液体を叩いた――瞬間、閃光と破裂音とかなづちの先から伝わる衝撃が同時にぼくを襲った。思わずかなづちを捨てて後ろに飛びのく。


「うわぁっ!? びっくりした!」


 はち切れそうな心臓の鼓動を感じながら、どういうことかと先輩の方を見ると、先輩は笑顔だった。「実験は成功だ」


「なんなんですかこれは……!?」


「これはニトログリセリンだよ。ご覧の通り、爆薬だ。衝撃感度が高く、アルフレッド・ノーベルがおがぐずや粘土にしみ込ませて安定化させ、ダイナマイトを作るまでこれで多くの命が失われた」


 先輩は小さい空の瓶に液体を満たしてフタをすると、それをぼくの手のひらに込めて握らせた。「せっかくだから君にも少し分けてあげよう。だが家に帰る時はくれぐれも気をつけたまえ。感度は落としてあるが、おそらく自転車で縁石に乗り上げる程度の衝撃で爆発する」


「いやいや、いらないですよこんなの!」


 ぼくはビクビクしながら、爆発しないようにテーブルの上にそっと瓶を置いた。

 この科学実験室にぼくと先輩以外の人間はいない。それはこの高校の科学部に部員が二名しかいないということではなくて、この部屋がこのマッドサイエンティスト先輩からほかの生徒たちを守るために特別に用意された第二の実験室(隔離室とも言う)だからだ。

 なぜこのような危険人物に学校側はしかるべき処分を下さず、あまつさえ手厚く保護しているのかについては全くの謎だ。おそらく、優秀で将来性ある彼女に厳しい処罰を与えることでその芽を摘んでしまうのが忍びなく、温情で寛大な処置を講じることにしたのだろう……それか、なにか弱みを握られて脅迫されているかだ。

 謎と言えば、ぼくがこの部に加わることになった経緯もそうだ。入学初日、お手伝い兼被験者モルモットを欲しがっていた先輩にいきなり助手に直接任命され、ぼくの意思とは関係なくこの部に入部させられた。なぜ幼稚園のとき一緒だった程度のつながりしかなく、成績も平凡なぼくが助手に選ばれたのか? もしかして先輩はあの時のことをまだ怒っていて、うらみを晴らす機会を得るために、ぼくを目の届くところに置いておくことにしたのではないか、そう考えると身震いするのだった。


「別に、そういうつもりはないよ」


「……あの、なんで考えてることがわかるんですか?」


「君の頭の中にはいま、数十億個の微小機械ナノボットが存在している。そのナノボットは常に君の脳の電気的活動と化学的活動を測定してその記録をコンピュータに送り、そこで情報から解析した思考内容を無線通信機能を備えたわたしの眼鏡のレンズに文字として映し出すのだ」


「えぇ!? ……まさか、冗談でしょう?」


「冗談だよ。脳の組織内をナノボットに移動させるのは技術的に困難なのだ。脳はニューロンとグリア細胞が密に詰まっていて隙間が殆どないし、ミクログリアが異物であるナノボットを攻撃してしまう問題もある」


 先輩はそう言って冗談であることを認めた。「そんなことをせずとも、君の考えることぐらい想像がつく」

 だが、素直に納得はできない。初めて部室に招待されたとき彼女の淹れたコーヒーを飲んだが、その中には経口用のナノサイズGPS発信機が入っていて、ぼくはその日のうちに自宅の住所を特定されてしまった。先輩は“まだ入学初日の君が帰り道で迷うことがないように行動を観察していた”と言っていたが、その気になればいつでも襲えるからわたしの機嫌を損ねるな、という言外の脅しにしか思えなかった。その後の“今度家に行ってもいいかな”という言葉も、家族を人質に取っていることを暗に示すためのものだったのだろう。


「信じがたいのでその眼鏡、ちょっと貸してください」


「仕方ないな」


「やれやれ」と言いながら先輩が眼鏡をはずした。

 眼鏡をはずした彼女の姿に、目を奪われる。

 クシの通ってないボサボサした腰まで届く髪や、今時どこで買ったのか不思議な大きい瓶底眼鏡ぐるぐるメガネなどでかくれていたが、先輩は美貌びぼうだった。

 二重まぶたの大きな目。つり上がった目じりはきつい印象を与えながらも、ぞくっとするような魅力をたたえている。


「む、どうしたのだ? それがないと何も見えないのだが……」


 先輩の言葉でハッと我に返り、同時に顔が熱くなる。

 落ち着け、彼女はマッドサイエンティストだぞ。ちょっと美人だからって見惚みとれるなんて、ぼくはそんな浅はかな男じゃない。

 慌てて眼鏡を受け取り、確認する。確かに、なんの変哲もない普通の眼鏡のようだった。ぼくは先輩に眼鏡を返した。


「ところで、もう一つ君に協力してほしいのだ」


 先輩は白衣のポケットから白い粉の入ったチャック付きポリ袋を取り出し、封を開けると、ぼくの手を取って甲の上に粉を振るい落とした。


「このを鼻から一気に吸引してほしい」


「一応聞きますけど、そうするとどうなるんです?」


 というかこの描写大丈夫なのか?


「試してみればわかる」


「ちゃんと答えてください」


「うたぐり深いな。安心したまえ、吸っても気分が良くなるだけだ」


 ぼくは思いっきり息を吹いて粉を落とした。


「ぼくを犯罪に巻き込まないでください!」


 先輩はぼくの手の甲を人差し指でぬぐって、残っていた粉を指につけると、それを舐めてしまった。


「ただの砂糖だよ。君がここに来る前に用意しておいたんだ」


 そう言って離れたところにあるコーヒーメーカーを指した。よく見るとそばにスティックシュガーの空き袋が散乱している。


「本当は偽薬プラセボの実験だ。乱用薬物と信じ込ませて摂取させたらどんな反応をするのか見てみたかった」


 人は何の効き目もない偽薬を本物だと信じて服用すると、まるで本物であるかのような体の反応が表れるという話を聞いたことがあるが、先輩が試したかったのはそれだったらしい。


「それにしても、なんで爆薬を作ったり砂糖で怪しげな実験をしたりしてるんです? まさか部費だけじゃ研究に使うお金が足りないものだから裏稼業ビジネスでも始めよう、なんて考えてるんじゃないでしょうね?」


「全くもってそのとおりだ」


 合ってんのかよ。


「このアイデアは実は君から着想を得たのだよ。先日、わたしにDVDを貸してくれただろう。家族に遺産を残すためにメタンフェタミンを密造する末期がんの化学教師の物語だ。それを観て新しいビジネスをひらめいたのだ。君なくしてこの計画を思いつくことはなかった。感謝するよ」


「まるでぼくが原因で先輩が犯罪に手を染めるようになったみたいな言い方やめてもらえます?」


 以前、“わたしは世間の常識にうといので、一般人である君の好きな物を教えてくれ”と言われたぼくは、科学を題材にした人気の海外ドラマを貸したのだった……科学者なら楽しめると思って。しかしそれは不適切な行為だったようだ。


「とにかく、ぼくの目が黒いうちはそんなことやらせませんよ」


「ふむ……わかった。合成した薬品はすべて中和して無害化させてから廃棄しよう」


 先輩は意外なほどあっさりと言うことを聞いてくれた。


「もっと反対されるかと思っていました」


「誤解してほしくないのだが、わたしは別に君を怒らせたいわけじゃない。ただ、わたしは他人の感情を理解するのが苦手で、それによって人との間に軋轢あつれきが生じてしまうことがままある。それについては残念に思っている」


 そう言った先輩の表情は、少し悲しげだった。

 いままでぼくは、先輩がいつも取る常識はずれの行動の原因は、他人への無関心によるものだと思っていた。しかし実際は、彼女も色々と悩んでいるようだ。


「先輩」


「ん」


「実験で疲れたでしょう、コーヒーでも淹れますよ」


「そうか」先輩が短く言った。そっけない返事だったが、口角は上がっていた。


「それでは、コーヒーには砂糖を九袋入れておいてくれ」


「……砂糖そんなに溶けますかね」



 ぼくは両手にコーヒーを持って先輩のもとへと戻った。

 彼女は椅子に座ってノートパソコンで作業していた。パソコンはVRゴーグルとつながっており、モニタのウインドウ上ではCGコンピュータ・グラフィックスの三次元空間が広がっている。


「先輩もVRですか、ぼくの父もVRにハマってるんですよ。最近は夜、家に帰ってくるとよく自室にこもってます。なにで遊んでるのかはわかりませんが、そんなに夢中になるなんて、よっぽど楽しいんでしょうね」


「それはアダルトポルノ動画を観てるよ」


「えっ」


 まさかそんな。


「だが、わたしは君の父上とは違いポルノを観るためにVRを扱っているわけではない。これはいわばいしずえなのだ」


「父はポルノなんて観てませんけどね。それで、礎とはなんですか?」


「わたしはいつか、バーチャル・リアリティを超えたシミュレーテッド・リアリティ――つまり現実と区別のつかない仮想現実――を創造するつもりなのだよ」


 先輩が受け取ったコーヒーを飲みながら言った。

 現実と区別のつかない仮想現実。

 ぼくがそれを聞いて思い浮かべたのは、哲学者ヒラリー・パトナムのとある思考実験だった。

 それは、自分の本当の姿は培養液で満たされた水槽の中に浮かぶ一つの脳で、この世界は脳とつながったコンピュータによって経験させられている仮想現実なのではないか、というものだ。

 本物だと信じているこの世界が実は本物ではないだなんて、不気味な想像だが、そのような哲学的懐疑論は昔から存在していた。数学者で哲学者でもあったデカルトは、人はいま夢を見ていないと確信をもって言えるような絶対の根拠はないと考えていた。

 たしかに、ぼくのいまいるこの世界がちょうの見ている夢や、反乱を起こしたコンピュータに閉じ込められている仮想現実空間マトリックスである可能性は否定できない。だが、それを事実だと積極的に肯定するかどうかは話が別だ。少なくとも、自分がいま夢を見ているだなんて、本気で信じなければいけない理由は全くないのだから。

 だが、この世界がコンピュータによるシミュレーションである可能性についてはどうだろう。以前、ある有名な実業家がこのシミュレーション仮説を支持しているという話を聞いたことがある。シミュレーション仮説の支持者はこの世界を、高度な科学技術を持った文明ならば必ずシミュレートするであろう多数の仮想現実の一つにすぎない、と考えている。

 なんとも言い難い話だ。シミュレーション仮説は果たして、高度な科学文明の有りようを正確に想定しているのだろうか? それとも、それは全くの絵空事なのだろうか?

 コーヒーを一口、飲んだ。口の中に香りと苦みが広がる。

 先輩が黙々と作業に没頭していたので、ぼくの方もずいぶんと考えにふけってしまった。

 ここはひとつ、彼女の話も聞いてみたい、そう思った。


「シミュレーテッド・リアリティは、実現可能なのでしょうか」


 キーボードを打っていた先輩が作業を中断してこちらを振り向いた。「そうだな……」。彼女がそう言って少し考える。


「現実と区別のつかない仮想現実を実現するとして、そもそも、わたしたちはどのようにして二つを区別するのか。それはによってだ。だから、まずは仮想現実で外界からの刺激によって生じるあらゆる感覚を現実のそれと同じ水準で再現する必要がある。だが、これは簡単なことではない。人間には五感を含む様々な感覚があり、それらに対応する脳のメカニズムも実に様々で解明されていない部分も多い。それに、仮に脳の機能が完全に解明されたとしても、感覚を再現する装置を作るには高度な工学的技術を要する。具体的には、直接脳機能をコントロールして感覚を生成・遮断しゃだんする技術が必要条件だ」


 先輩はそこまで話すと、マグを手に取り、残りのコーヒーを飲み干した。


「そして次に外界の再現だが、言うまでもなくこの現実世界を完全に模倣した仮想現実空間を実現することは、現代の科学では到底たどり着けない究極だ。従って、わたしが目標としているのは、わたしたちが普段認識するような巨視的な領域のみを再現することだ。それだけでも、やはり困難であることには相違ない。この目標でさえ、達成の目処はまだ立っていないのだ」


 先輩の話を聞くうちに、シミュレーション仮説が前提とする、超高度な科学文明は完璧な現実のシミュレーションを再現できるという想定が、考えとしてずいぶん素朴そぼくに思えてきた。もはや、そんなことが理論的に可能なのかどうかうたがわしい。

 そう考えていると、静かな実験室に引き戸が開かれる音が響いた。


「ういーす。おっ、なんだ中野、おまえもいたのか」


 そうぼくの名前を呼んだ背の高い坊主頭――小学校からの親友で、クラスメートのタカシだった。

 なぜ彼がここに? その問いに答えるように先輩が耳打ちした。「彼はわたしが今朝呼んだ。彼にも偽薬の実験に協力してもらおうと思っていたのだ」。どうやら彼は先輩に選ばれし被験者ひがいしゃ第二号のようだ。


「やあタカシ君、君に頼みがあるのだ。なにも言わずに、この粉を鼻から吸引してほしい」


 先輩が彼に歩み寄りながら言う。

 しかし……いくら嘘とはいえ、人に違法行為をやらせようとするのは倫理に反しているだろう。止めに入ろうと思ったが、先に口を開いたのはタカシだった。


「あの、陽子さん、それマジで言ってんすか?」


 タカシの表情がくもる。

 考えてみれば、こんな危なそうな話に乗る人間なんていない。わざわざ止めに入るまでもないことだった。


「そういうの一度やってみたかったんすよー! ぜひ、やらせていただきます!」


 やるのかよ。

 タカシは先輩に粉を手の甲の上に乗せてもらうと、鼻から吸った。あーあ。

 けど、なにか起こるはずもない。本当はただの砂糖なんだから。

 ぼくはタカシに全部話して、彼が悪い誘いに乗ったことについて注意してやるつもりだった。

 だが、彼の様子がおかしい。いつも笑顔でよくしゃべる彼がいまは無言で無表情。よく見れば目が座っている。

「……どうした?」近くにいた先輩が異変に気づいて話しかける。

 タカシが近くにあったメスで先輩の腹部を刺した。先輩が小さくうめいてうずくまる。


 「おい!」


 動揺しながら叫んで近づく。

 テーブルの上のガラス器具がなぎ倒されて割れた。タカシが近くにあった四本足のパイプ椅子の足を掴んで振り回したからだ。

 近づくのを制止するようにタカシがぼくに向けてパイプ椅子を突き出した。彼と目が合う。破裂しそうなほどの狂気をはらんだ顔だった。完全に正気を失っている。

 どういうことだ?

 人が思い込みだけでこんな風になると言うのか?

 ……それとも。

 まさか、先輩がなにか手違いで、本物を彼に?

 ……ッ!


「おいやめろ!」


 タカシが床に倒れてる先輩を椅子で打ちつけるのを見て大声で叫んだ。

 掴みかかろうと突っ込んで、痛みと共に弾き飛ばされた。尻もちをついて口の中に鉄の味を感じながら、パイプ椅子で殴り飛ばされたのだと理解した。

 駄目だ。長い腕で振り回されるパイプ椅子のリーチはすさまじく、とても近づけそうにない。

 タカシはこちらを睨みながら、なおも先輩を死ぬんじゃないかと思うほど強く蹴りつけている。

 ぼくは立ち上がり、必死に辺りを見回した。

 なにか、なにかないか?

 混乱した頭でこの状況の打開策を見つけ出そうとしていた。

 散らばった論文とガラス片、二脚のパイプ椅子、ノートパソコン、氷水を張った桶、石でできた台、かなづち、液体の入った小瓶……液体の入った小瓶! 中身はニトログリセリンだ。

 これをぶつければ動きを止められる。

 だが、投げる前に衝撃で爆発するんじゃないか? この量が爆発したら間違いなくぼくは死ぬ。そう思うと足がすくむ。

 それでも。

 タカシが倒れた先輩にパイプ椅子で一撃を与えようと、思いっきり振りかぶる姿を見た時、躊躇ちゅうちょなくテーブルのニトログリセリンを引っ掴んでぶん投げていた。

 勢いよく放たれた瓶は、タカシの方へと飛んで行った。そして、そのまま彼を素通りした。

 もし彼に直撃させれば彼は死ぬ。だから、二人とも助けるためにはこうするしかない。

 瓶は彼の後ろにある、部屋の壁にぶつかった。

 大きな音を立ててニトログリセリンが大爆発を起こした。

 爆発のフラッシュに目をくらまされ、強風で転倒する。

 風が止んだ後、起き上がって二人に駆け寄った。タカシが仰向けに倒れて失神していた。


「先輩!」


 倒れている先輩を呼んだ。ぼろぼろだった。救急車を呼ぶためにスマホを取り出した。


「やめなさい」


 いまにも消え入りそうな声で先輩が言った。「もう手遅れだ。肝臓を刺されてしまった……」。白衣の上腹部が血でにじんでいた。


「ああ……」


 ぼくの声は震えていた。視界がぼやけてよく見えなかった。


「泣いてる……悲しんでいるのか?」


「そりゃそうですよ」


「嬉しいな……君はわたしのことを嫌っていると思っていたから、辛かったんだ。……君は変わり者のわたしにできた初めての友達だったから」


「嫌いになんてなりませんよ。先輩のこと、ずっと好きですから。いまでも」


 なんて遅すぎる告白だ。

「良かった」先輩が満足そうな笑顔を浮かべて静かに目を閉じた。彼女から生命が消えるのを感じた。

 あ……ああ……。


「うあぁあああああ!」


 実験室に、ぼくの泣き叫ぶ声が木霊した。



「うあぁあああああ!」


「やめたまえ、声が外に漏れるだろう」


「えぁ!?」


 頭からなにかが外れた。

 気がつけばぼくは実験室の壁にもたれていた。全身が汗でぐっしょりしている。

 目の前にヘルメットのような機械をわきに抱えた先輩がしゃがんでいた。ぼろぼろだった姿がいまは嘘のように何事もなく、白衣も染みひとつない。ボサボサだった髪はまっすぐで、眼鏡のレンズは薄く透き通っていた。あれだけ汚かった部屋はきちんと整理整頓されていた。なにからなにまで、さっきと違う。


「というか、あの、先輩? なんで……?」


 死んだはずでは?

 その質問に待ってましたとばかりに先輩が笑顔を見せた。


「実験は成功だ。君はいままでわたしの開発した仮想現実空間にいたのだ」


 先輩が機械を良く見えるように突き出した。


「これは多光子顕微鏡法と光学的技法を使った、ニューロンを精密にコントロールする装置だ。これを頭に装着することで現実の感覚を遮断し、意識を仮想現実空間内に投影させることができる」


「シミュレーテッド・リアリティはまだ完成していないはずじゃ?」


 あの経験はまさしく現実とたがわないものだった。

 仮想現実? そんな馬鹿な。


「そこにがあってだな。この装置は君の脳をコントロールしてあらゆる架空の経験を与えると同時に、前頭前皮質や側頭極、頭頂側頭接合部を操作することで判断力や認知力を低下させるのだ。結果、現実との齟齬そごがいくらあっても仮想現実の中にいることに決して気づかない。夢の中ではどれだけ荒唐無稽こうとうむけいな出来事が起こっても、目が覚めるまでそのことに気がつかないだろう? それと同じだ」


 ぼくは必死に仮想現実での記憶を思い出そうとした。いま思えば、あの世界に存在する人や物の姿はCGのようだった。明らかに現実とは違うのに、ぼくはそれが現実だと思っていた。

 そこでぼくはあることを思い出した。


「そうだ! タケシはどうしたんですか!? 彼は?」


 立ち上がってタケシを探そうとすると、先輩が怪訝けげんな顔でぼくを見て言った。


「まだ記憶が曖昧あいまいのようだな。彼はわたしが作ったプログラムの存在で実在していない。彼との記憶は全部偽物だ」


「へぁっ!?」


 卒倒しそうになった。

 もはやなにが現実だかわからなかった。ぼくがいまいるこの世界は本当に現実なのか……?

 先輩が立ち上がろうとして、よろめいた。とっさに彼女を体で支える。

 彼女は苦しそうに顔を歪めていて、ひどく汗をかいていた。


「大丈夫ですか!?」


 先輩がぼくの服を左手で掴んで、右手で刺されていた場所を抑えている。


「問題ない。仮想現実内での痛みがまだ残っているが、命に別状はない。わたしは役者じゃないから、君をあざむくために痛覚はオフにしない必要があった」


「なんでぼくを騙そうと?」


 ぼくはいままでの出来事が全部、先輩の自作自演であることを思い出した。


「他人の感情を理解するのが苦手なわたしが、君の本心を知るにはああするほかなかった」


 寄りかかっていた先輩の腕がぼくの背中に回った。抱擁されていた。


「おかげで、君がわたしを想う気持ちは十分に伝わったよ」


 先輩が顔を紅潮させて、とびきりの笑顔で言った。「わたしも君のことが大好きだ」。そう言ってよりいっそう強く抱きしめた。

 ……落ち着け。

 なんかいい雰囲気みたいになってるが、こんなことで先輩がぼくにしたトラウマ級の仕打ちが帳消しになるわけがない。実際、いまさらになってぼくはものすごく腹が立ってきた。ここははっきりと怒るべきだ。

 だが、ぼくは彼女を許すことにした。

 先輩が悪意を持ってやったわけではないとわかったんだ。なら、それでいいじゃないか、そう思ったのだ。

 別に、いま先輩の胸が思いっきり当たってるから、引き剥がすようなことはしたくない、なんて思ったわけじゃない。……本当だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

プロトン先輩とドキドキ秘密の実験室 水沢ぺこ @baribari

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ