空に蒔くもの
「一粒の種がきっかけだったのです」
老人は空一面を覆う分厚い雲を見上げた。
ある日、村の青年が歩いていると何かがポトリと落ちてきたのだという。何気なしに拾い上げてみるとそれは見たことのない一粒の植物の種だった。種とはいえ中は空っぽ、発芽した後の殻ばかりになったものだった。
はて? 普通はそのまま放り投げてしまいそうなところだ。しかし、青年は人一倍好奇心が旺盛な性質であった。
こんなところで上から種が降ってくるとはおかしなことだ。
それもそのはず、ここは往来のど真ん中である。辺りには青年の膝よりも背の低い草が風に揺れるばかり。それに青年はそれらの草の種が今しがた拾ったものよりもずっと小さいことを知っていた。
高い樹木といえば田畑の向こうに見晴るかすだけである。風に乗って運ばれてくるにはいささか遠すぎる。
では鳥がくわえてきて落としていったのだろうか。
青年は空を見上げた。今日のように一面が雲に覆われたどんよりとした天気であった。
すると広い空をすいっと横切っていく一羽の鳥の影が見えた。あれはムクドリか? いや。この辺りのムクドリなら数羽ずつ群れているはずだ。飛び方だってムクドリにしてはスマートである。
姿形はムクドリに似ているけれど別の鳥だ。
鳥は青年の頭上をぐるりと一周すると雲の中へと消えていった。
興味をそそられた青年は以後、熱心に観察を続けた。
その鳥が天に向かって垂直に昇っていく習性のあることはすぐに知れた。どこまで行くつもりかと目を定めれば、やがて雲に飛び込んで消えてしまう。仕方がないのでしばらく行く雲を凝視することになる。
「決まって手ぶらで飛び込んでは、同じ位置から何かをくわえて帰ってくるのです」
雨の降るその日も青年は雨傘に簔をまとって観察をしていた。
それは天啓だったとのちに青年は語った。
いつもと同じように雲の中へ吸い込まれるように消えた鳥の姿を見るや、青年は鳥の消えた真下までいっさんに駆けた。そして被っていた雨傘を逆さにして落ちてくる雨粒を受け止めたのである。
四半刻もそうしていただろうか。冷たくなった掌で雨傘に溜まった水を掬い上げてみれば、そこには前に道の真ん中で拾ったものと同じ植物の種が片手で数えられるばかり沈んでいた。
「それがクモクサの種であると?」
「その通り。彼らは雲に種を蒔いて育てていたのです」
老人はズズッと音を立てて茶を啜った。
「しかし、雲の中で鳥が草木を栽培するとはとても信じられませんね」
やや不躾な言葉にも老人は気分を害する風を見せなかった。
「さよう。みなはじめは青年の言葉に半信半疑だったよ。けれど、言われてみれば鳥が何かをくわえて雲から出てくるところを見たことがある。自分も似たような種殻を拾ったと言う者がおりましてな」
「ほほう」
「調べてみたところ、どうやら青年の主張に間違いはないと知れたのです」
雲を行き来する彼らも通常は樹上をねぐらとしていた。不幸にも巣を突き止められたものは身軽な村人によってその巣を採集されもした。その結果、彼らの巣が地上では見られない特別な植物の繊維によって編まれていることが分かった。
蒔田雀は雲の中からその植物の茎をくわえてきてはせっせと巣作りに励んでいたのである。どう考えても雲の中に生えているとしか考えられない。そう結論づけられ、草は素朴にクモクサと呼ばれた。
「なるほど。雲の中ならばそもそも水分には事欠かないはずです。日光だって存分に浴びられるでしょう。ですが、それだけで植物が生育できますでしょうか?」
そう言うと老人は口の端を歪めた。
「ある別の青年がもうひとつおかしなことに気が付きましてな」
「ほう。なんでしょう?」
「巣の周囲にほとんどしてなかったんですよ」
「してなかった、というと?」
「糞です」
生物の生態を調べるための有効な手段のひとつは糞を分析することである。
ところが、蒔田雀の巣の周辺を調べてもほんのわずかの糞しか残されていなかったのだという。
「巣の端っこにこびりついたものがひと欠片」
「ということは」
「ご想像のとおり。彼らは雲の中でしていたのですよ。植物の肥料としてね」
蒔田雀はクモクサのそばで糞をすることでそれらに有機物を与え、育った茎を持ち帰ってはみずからの巣の材料として利用していた。また、少量だけ採取された糞からはクモクサの種の皮殻も見つかった。
「食に住に、うまいこと使っているものです」
老人は胡麻だれのかかった団子をひとつ頬張った。
私は茶屋の店先に設えられた腰掛けから立ち上がった。軒先から覗いてみれば分厚い層積雲の形はまったく畑の畝そのものであった。
どのくらい見上げていただろう。
「おや? 来ましたな」
老人が呟くとまもなく遠雷が耳に届いた。
するとにわかに周囲が活気づき始めた。
「さあ、旅の人。これがこの村の一番の名物ですよ」
「名物? いま伺った蒔田雀のことでしょう?」
「いえいえ。本当の名物はその生産物の方です」
やがて空を覆う雲が閃光を内に宿し、見る間にピシャッと雷鳴が轟いた。すぐに大粒の雨が辺り一面を煙らせた。
驚いて店へと逃げ込む間もなく、耳をつんざかんばかりの轟音が大地を揺らした。
「ひいっ。すぐそばに落ちましたよ」
「あそこです」
老人はとても老人とは思えない早足で体が濡れるのも構わず表へと駆け出した。老人に手を掴まれた私はもつれる足をようやく前へと踏み出した。
一本の樹木が裂け、根元から煙が上がっていた。落雷に遭ったらしい。驚いたことに飛び出してきた村人たちがこぞってその根元に駆け寄るや屈み込んでいる。
老人もまた地に這いつくばるとほどなく歓喜の声を上げた。
「ありました! これが我が村の名物、クモクサの種です。さあ、早く噛んでごらんなさい」
私の掌に小さな物が乗せられた。なるほどそれは草の種のようだった。老人に急かされるまま私はその種を口の中へ放り込み奥歯で噛み砕いた。
その瞬間、体の内に稲妻が一陣、強烈な雷光とともに突き抜けた。
ショートショート・ぼんち揚げ 石田緒 @ishidao
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